第四話 不意の別れ
文字の習得からさらに数年が経過し、俺は十五歳になった。すくすくと順調に成長した俺は、今ではいわゆる細マッチョという感じの体格になっている。身長も正確には測っていないが、百七十前後はあるのではないだろうか。顔の方も目鼻立ちがはっきりとして、前世に比べるとかなり良くなっている。
こうして俺が成長する一方で、母さんは年を取ったのかといったらそんなことは全くなかった。地球では美魔女というのが流行っていたが、本物の魔女はそれとは比べ物にならない。俺が物心ついた頃から今に至るまで、十五年近くたっているのに皺の一本たりとも増えていないのだ。
そんな母さんにみっちりと訓練をつけられた俺は、今では塔の最上階に辿りつけるほどになっていた。塔の最上階といっても、わけのわからない機械を模したような像があっただけなので、一度行ったっきりになっているが。
俺が成長するにつれて、契約した暴食の書も変化していた。厚みがドンドン増しているのだ。最初はパンフレットぐらいの厚さしかなかったのが、今では薄めの文庫本程度の厚みがある。母さんは「書も生きているのだ」というが、まさにその通りだった。こいつは俺とともに成長しているのだ。
成長を続ける俺たちはたぶん、塔や森の中では最強になったと思う。しかしいまだに、母さんには手も足も出なかった。純粋な魔力の大きさや筋力などではそれほど劣っているわけではないのだが、技のキレや展開速度、さらにはとっさの判断力などが天と地ほども違うのだ。
「せいッ! はあァ!!」
塔を出たところにある広場。そこで俺と母さんは実戦形式の組み手をしていた。暴食の書の力で魔法がほとんど無効化されるため、極限まで体を強化しての近接戦である。
嵐のように絶え間なく攻撃をする俺。ヒュッと風を裂く音が連続する。手が分裂して見えるほどの速度で繰りだされた拳は、一発一発が岩をも砕く剛拳だ。しかしそれを母さんは難なく避けていく。その目は赤ん坊でもあやすようで、余裕たっぷりだ。
「攻撃が直線的だ! 読みやす過ぎるぞ!」
「クソッ! 化け物かよ!」
俺の攻撃がさらに速くなった。母さんの眼がわずかに見開かれる。
「多少はマシになったか。だが、手に集中し過ぎだ!」
留守になってしまっていた足へ繰り出された回し蹴り。俺はそれをもろに食らって、横にぶっとばされた。そのまま近くの木に直撃し、ドーンと地鳴りのような音を響かせる。
木の葉まみれになった俺を、母さんは見下すような目で見た。そしてやれやれとばかりに言う。
「まだまだだな……。この分だと、あと十年ぐらいは私に勝てないんじゃないか?」
「ハア……ハア……も、もう一回だ!」
ポンポンと肩を叩きながら、ゆっくりと構えを取った母さん。完全に俺を舐めてるみたいだ。
クソ、いつか母さんより強くなってやるんだからな!
◇ ◇ ◇
俺が母さんを超えると決意してから、一年ほどが過ぎた。幼い頃から鍛えこまれていた俺の身体や戦闘センスはとどまることなく成長を続けて、母さんにもそれなりに通用するようになってきていた。そんなある日のこと、とうとう俺にとって待ちに待った瞬間がやってきた。
「うッ!」
拳が腹にめり込む。母さんはすぐに後ろに跳びのき、攻撃の当たった脇腹を押えた。大きな瞳が裂けんばかりに見開かれ、俺の顔を見据える。
やがて母さんの口元が歪んだ。そして笑い声が響く。
「はははッ、こんなに早く攻撃をもらうことになるとはな! 大したものだ!」
「当たり前だ、俺がこの一年でどんだけ修行したと思ってる」
「うーん、修行しても修行してもなかなか成長しないのが普通なんだがな。この分なら、あと五年ぐらいで私を追い越すかもしれん」
そういった母さんだったが、その顔にはまだまだ余裕があった。攻撃が当たったと言っても、俺が勝負に勝てたわけでは全くない。むしろ実力的にはまだまだ越え難いほどの差がある。ほんとにこの人は、同じ人間なのか疑いたくなるほど強いのだ。
いつか必ず、超えてやるけどな!
「五年といわず、一年で超えてやるよ」
「ふん、やれるものならやってみろ!」
母さんはそういうと、おもむろに空を見上げた。よく晴れた空はすでに紅く染まりつつあって、塔の影がどこまでも長く伸びている。訓練を切り上げるにはちょうどいい時刻だった。母さんは塔の方へと歩いていくと、来いとばかりに手を振る。
その背中を追いかけていこうとすると、突然、異様なものが俺の背筋を走った。ひやりとする、殺気にも似た何か。それが夕陽の方、つまり西から俺の身体を突き抜けていったのだ。思わず足を止めた俺は後ろを振り向いたが、特に異変は起きていない。普段と変わらぬ静かな森が視界の果てまで広がっているだけだ。
「母さん、いまの……」
「ん、どうかしたか?」
「いや、なんでもない……」
何も感じなかったのか、平然とした顔をしている母さん。俺は気のせいだったと思って、ひとまず何も考えないことにした。母さんの後に続いて塔の中に入り、今日の訓練を終える。
翌朝。いつまでたっても起きない母さんを寝室に迎えに行くと、いつも鍵がかかっているはずの扉が開いていた。不審に思い中に入ってみるとベッドはきれいに整えられていて母さんの姿はない。代わりに小さな紙と封の為された黒い文箱が一つずつ、枕の上に置かれていた。
『不穏な気を感じたので、西に旅に出ることにした。半年経っても戻らなかったら、下に置いてある箱を開けるように。大丈夫、今のお前なら母さんが居なくても生きていける。 追伸、日々の鍛錬は欠かさすな』
何といえばいいのだろうか。いろいろわけがわからなかった。手の力が抜けて、思わず手紙を落としてしまう。はらりはらり、と薄っぺらな紙が宙を舞う。
「母さん……せめてもうちょっとまともな置き手紙ぐらい、用意できなかったのかよ」
俺にはこうつぶやくのがやっとだった。その時、眼からは涙がとめどなく溢れ出していた――。