逢花
あの時、一面が薄桃色に染まった。
吹き抜けてゆく風は桜並木を揺らし、雪のように花が舞う。
薄桃色に彩られた春の雪――……。
切なくなるような既視感が切ない痛みを伴って胸をよぎる。
いつだったか……。
記憶をたどるが、思い出せなかった。
「透哉、行くぞ」
「おぅ」
祐二に呼ばれて振り返った。
その瞬間また風が吹き抜け、宙に花びらが舞う。
風から目を背けた先に、彼女がいた。
黒い髪が風になびき、白い指は風にもてあそばれる髪を押さえ、その瞳は宙に舞う花びらを見つめている。
あれは……。
眩暈を感じるほどの切ないような不思議な既視感。
これは、いつの記憶……?
透哉は胸に残る感覚を探りながら、彼女から目を離せずにいた。
声をかけたらいけない、そんな気がした。 けれど早く声をかけなければいけないと心がせく。
何故? どうして?
透哉はわけのわからない衝動に戸惑っていた。
「……透哉ー?」
祐二の声にはっと我に返る。
「おー……今行く」
答えながら彼女をもう一度見つめ、そして祐二と一緒に教室へ向かった。
透哉が背を向けた後に彼女が振り返り、その視線が彼の背中を追っていた事には気づかなかった。
岡崎春菜。
クラスメートなので彼女の名前ぐらいは知っている。けれど透哉が彼女とまともに話した事は一度もなかった。ごく普通の子で、美人というわけでもなければ、とくに目立つ事もなく、とくに男子から興味をもたれる子でもなかった。比較的地味な子、という印象が透哉にはある。というより、彼女に興味を持った事はこの三年間で一度もなかった。
卒業式の日になって、初めて彼女に興味を覚えた。
彼女とは全く接点はない。この卒業式を迎えれば同窓会でもない限り、もう会うこともないだろう。
けれど。
彼女と話してみたい。
透哉は強く思った。
しかし卒業式の日ともなると、女子はみんな群れて、話しかけるタイミングなどとても取れそうになかった。そして、話しかける機会のないまま卒業式が始まった。
卒業式に感動するほど繊細な感覚を持ち合わせてはいなかったが「普段と違うことをする」そのことがやはり特別に感じた。
式が終わったあと、卒業生が群れている中で透哉は彼女を探す。
祐二とたわいもない話をしながら、視線が卒業生の中をさまよう。
退屈だった卒業式。しかし、これがひとつの区切りとなり、当たり前の様にそばにいる友人たちでさえ、約束をしないと会う事はなくなってしまう。そのことが不思議に思えた。
当たり前のように訪れる「別れ」の日。
それは、そのまま、彼女との会う機会をなくすことでもあった。
透哉は彼女が見つからないことに焦りを覚えていた。
その時、また強い風が吹いた。
目の前を桜の花びらが舞った。
透哉は振り返り、風が吹いてきた先を見つめる。
立ち並ぶ、満開の桜並木。
そこには目を細めて桜を見つめる彼女がいた。
突然、透哉の脳裏にその日のことがよみがえった。
入学式の日だった。少し大きめの制服を着て、桜吹雪の中、佇んでいた少女の姿。
あれは……。
記憶の中の少女が、視線の先にいる彼女の姿に重なる。
入学式の日に感じた、えもいえぬ感動が胸の中によみがえった。直後、更に思い出した言葉に胸がずんと痛むように重くなる。
『暗そうな女』
思い出してしまったその記憶。
それは、あの日、透哉が彼女に下した感想だった。
入学式の日、透哉は桜の中で佇む後姿の彼女から目が離せなくなった。そして話しかけようとして、顔を見て後姿との印象の差に落胆をした。
だぼだぼの制服、垢抜けない雰囲気、眼鏡をかけた彼女の姿は、舞い上がった透哉の気持ちを沈めるには十分だった。
一気に気持ちが冷めた、あの日。
あの絵画のように綺麗な一瞬に感動して動けなくなってしまった自分が、バカみたいに思えて、二度とその事を思い出そうとはしなかった。
しかし今、透哉の中で思い出された記憶は、垢抜けないと思ったあの姿さえ、とてもきれいに思えて、いかにあの時の自分の判断が馬鹿げていたかを突きつけているかのようだった。
暗いというより穏やか、そんな言葉がよく似合う。
落ち着いた感じの笑顔を浮かべる子なんだなと、透哉はぼんやりと考えた。
彼女とはここで言葉も交わさず別れてしまえば、それっきりになる。祐二たちとするように「また今度」と言葉を交わす事はない。
考えれば考えるほど自分が情けなく思えて、ため息がこぼれた。
「珍しいな、お前が一番卒業式で寂しそうにする事はなさそうな奴だと思ったのに」
からかうように祐二が言う。
「俺はお前と違って繊細だからな」
祐二に答えたところで、離れたところから声がかかった。
「おーい、写真撮るぞー!!」
その声に反応して卒業生たちが集まっていく。クラスメートが集まる中、彼女が透哉の前に並んだ。
妙に緊張して透哉の胸が高鳴る。
話しかけようかどうしようか悩んでいるうちに写真は撮り終わり、また人が散らばっていく。
そして彼女も目の前から立ち去ろうとしていた。
話しかける言葉が見つからず声をかけるのをためらっていると、また強い突風が吹きぬけていった。
「今日、風強いな」
ようやく出た言葉に、透哉は自分でも呆れた。
これでは誰に話しかけたのか全く分からない。振り返ってくれるか、自分が話しかけたと気づかれないまま立ち去っていくか……。
ドキドキしながら彼女の反応をうかがう。
「……え?」
彼女が振り返った。うれしさ反面、まさかこんな言葉で振り返ってもらえると思っていなかった透哉は軽く動揺した。
「さっきから、桜吹雪見てたろ?」
動揺を隠しつつ、なんでもないように話しかける。
「え、ああ、うん。きれいだよね」
少しとまどっていた様子の彼女がほころぶように微笑んだ。
「桜、好きなんだ?」
「うん。散っていく姿がきれいなのって、すごくない?」
「え?」
「だから、ほら。普通さ、花が散るときって、どっちかっていうと汚く見えちゃうでしょ。でも、桜って、散るときもきれいだから。すごいなって」
「へー……。考えた事もなかった」
透哉がしみじみと考えていると彼女が笑った。
「私ねぇ、特にこの学校の桜、すごく好きなの。二種類あるの知ってる? ひとつは、ほら、よく見かける桜……ソメイヨシノだっけ? 入学式のときに咲く桜。今咲いているのはあれと違って、ピンクが濃いでしょ。こっちの方がかわいいくて好きかも。それに、ソメイヨシノって入学式の時期だけど、この桜、卒業式の時期に咲くでしょ、一足早い春って感じがするから」
「え?早いのか?」
「早いでしょ。まだお花見の時期になってないじゃない。桜前線のニュースとかまだ大分先だよ」
「へー……」
「高野君、朝、桜吹雪見てたでしょ? 結構真剣に。お花見とか好きなのかと思った」
「いや、食べるほう専門で。花にはあんまり」
くすくすと彼女が笑う。
それがうれしくて透哉も一緒になって笑った。
俺が桜見てたのを、彼女は気付いていたんだ。
そう思うと、少しくすぐったいような喜びがわき上がり、透哉の胸の中を温かくした。自分のことが少しでも彼女の印象に残っていた事がうれしかった。
その時、彼女がはにかみながら言った。
「なんか、高野君とこんな風に話せると思わなかったな」
「そうだよな、話すことほとんどなかったし」
「うん」
交わしていく他愛のない話の中で彼女が笑う。
かわいいな。
と、透哉は思った。
顔の造作は普通かもしれない。けれど、とてもきれいな人だと思った。
髪を耳にかけるのは癖なんだろうか。
風が吹くたびに白い指が乱れた黒髪を触る姿がきれいだと思った。
こんなに感じのいい子だなんて知らなかった。知り合えるチャンスはあったのに、知ろうともしなかった。
一度、彼女に興味を持ったのに、それをいかせなかった。自ら棒に振ってしまった。
彼女を知ろうともせずに「暗そうな女」と思い込んで近づく事もしなかった。
目の前の彼女をバカにしたのだと思うと、情けなくて、透哉は過去の自分が腹立たしく思えた。こんな風に笑いながら側にいる権利なんてないんじゃないか、そんな風にさえ感じた。
彼女と話をしながら、その楽しさとうれしさが後悔へと変化して透哉の胸を占めていく。
後悔する事でその時間が取り戻せたのなら、人はどれほど救われるだろう。
ふとした間が二人の間に訪れた。
すると、ためらいがちに、そして照れくさそうに彼女が言った。
「最後の日だけど、高野君と話できてよかったぁ。こんなに面白い人なんて知らないまま卒業なんて、もったいないことするとこだった」
自己嫌悪や気恥ずかしさ、いろんな思いが交差して透哉が言葉にできずにいた気持ちだった。それを彼女があっさり口にした。自分がそれを簡単に口に出来ないもどかしさと切なさに胸の痛みを覚え、けれど自分と話したことを良かったと笑った彼女の笑顔が胸に暖かくしみる。
「ありがとう、話しかけてくれて」
少し恥ずかしそうに笑った彼女が透哉を見上げていた。
「いや、俺のほうこそ……」
岡崎と話せてよかった……そう言葉を続けようとしていた。
「透哉!」
祐二の声が割り込んでくる。
「なんだよ」
「夜の打ち上げの事決めるから、お前も来いよ」
「ああ、後でいく」
透哉はうるさい友人にちらりと目を向け、手を振りながら会話を無理やり打ち切って彼女を振り返ると、彼女は遠慮がちに笑っていた。
「呼んでるね。行っていいよ」
そう言われると、透哉には自分が彼女を引き留めたという意識がある上に、もしかしたら卒業式の日に話したこともないクラスメートに引き留められるのは迷惑かもしれないようにと思えてきて、これ以上彼女を引き止めるのもためらわれた。
透哉は諦めきれずに、けれど仕方なく小さくうなずく。
「……そうだな、じゃあ……またな」
透哉がつぶやくと、彼女は最後の言葉の後に少しうれしそうに笑った。
「うん、またね」
彼女が小さく手を振る。
彼女に背を向けながら、透哉も軽く手を振った。
彼女は分かっているだろうか。
透哉は祐二のもとに向かいながら考える。
「また」その一言を言うために、どれだけ勇気がいったか。
「また」なんて、きっと来ない。彼女と自分の間には、何一つ接点がないのだから。それでも、また彼女と会いたかった。また話がしたかった。
そんな気持ちがどうしても形に出来なかった。そうしてようやく出た言葉が、「またな」の、ただ一言だった。
彼女は分かっているだろうか。
笑いながら彼女が返した同じ言葉が、どれほどうれしかったか。
彼女と別れたことは残念だったが、透哉の心は少し浮き立っていた。
「また」
未来を暗示するその言葉を同じように返してくれた、それは彼女も自分と同じように次につながればいいと思ってくれたのではないかと、そう思えて。
祐二たちと合流し、その後のことを決めて帰ろうとしたときだった。
離れたところで、同じように帰ろうとしている彼女たちのグループを見つけた。
透哉が彼女を見ていると、不意に振り返った彼女と目が合った。
胸がどきどきした。
「……じゃあな!」
遠くにいる彼女に聞こえるように声を張り上げた。精一杯の言葉だった。
手を振る透哉を見て、彼女が満面の笑顔を浮かべた。
「じゃあね!!」
彼女が笑って手を振った。
そして彼女は透哉たちとは反対方向に歩いていった。
彼女が笑顔で答えてくれた、その事がうれしかった。けれど寂しいとも思った。
きっと、もう会うことはないのだろうから。
複雑な気持ちに、透哉はため息を付いた。
「……お前、岡崎と親しかったっけ?」
後ろで祐二がつぶやいた。
「……まあ、さっき親しくなった……気がする」
けれど、これ以上親しくなる事はないだろうな……と、心の中でつけたした。
記憶を探ると、意外と彼女のことを覚えている自分に驚くことがあった。
全く関わる事がなかったのに、ふとした瞬間、不意に彼女を思い出すのだ。
それは、偶然すれ違ったときの彼女の表情だったり、日直で準備をしている姿だったり、全く彼女を気にかけて見ていたわけでないときの記憶だった。印象深いわけでもなく、日々の日常の中に埋もれているような記憶ばかり、それが何かのきっかけで不意に思い出されるのだ。
今になって思えば、自分は無意識のうちに彼女を意識していたのだろうと透哉は思った。
入学式の、あの桜吹雪の日から。
後悔と未練が、卒業式のあの日から透哉の胸に残った。
大学に入学し、あの日の事は過去の事となって、記憶の中に埋もれていった。
けれど、忘れては不意に小さなきっかけで思いだし、そしてまた忘れる、それを繰り返す。
彼女を思い出させるそれは、桜の花だったり、黒い髪だったり、髪をかきあげる白い指だったり。
懐かしく思い出しては、こみ上げる切なさに胸が痛む。
ただ、透哉はあの日のように後悔して自分を責めてはいなかった。
入学したあの日、自分は勝手な思い込みから、出会えるチャンスを自ら棒に振った。けれど卒業式の日、自分は彼女と話すことが出来た。彼女を誤解することのないまま分かれることが出来た。その事がとてもうれしく思えるのだ。
切なさはまだ胸にある。卒業後も連絡を取り合えるほど親しくなれなかった未練もまだ胸にある。
けれどそれでいいと思った。切なく思えるのも、未練を感じるのも、卒業式のあの日、話しかけることが出来たからこそ感じるものだから。
それはうれしいことかもしれないと、少し強がりもこめて透哉は思う。
高校を卒業した日から四年がたった。
透哉は会社の門をくぐった。
透哉の就職した会社には敷地内の塀に沿って桜が植えてあった。
「入社式の頃には満開だよ」
桜の木に興味を示した透哉に会社の人が言った。
言葉の通り、この日、桜は満開だった。
桜を見上げながらゆっくりと進む透哉のそばを、彼より速い足取りで何人もの人が通り過ぎていく。
透哉の脳裏に七年前の桜の花がよみがえる。
一面が薄桃色に染まった絵画のような一瞬。
いつかまた出会えたらいいと思う。 あの日のように、偶然に、そしてこんな満開の桜の下で。
そしたら今度こそ声をかけよう。
あの一瞬のひとときに自分も加わろう。
いつの頃からか、そんな風に夢見ている自分がいる。
透哉はそんな自分の感傷を笑って、桜に背を向けて歩みを速めた。
そんな透哉の背中を追うように、強い風が吹き抜けていった。
思わず振り返った。
視界一面に広がる、薄桃色の桜吹雪。
あの日の桜吹雪のようだと思った。
ただひとつ、彼女の姿だけがない。
透哉は花びらが舞い散る桜の木をもう一度見上げ、そして再び背を向けて歩き出そうとした。
桜から目を離した瞬間、視界の端に人影が見えた気がした。
どくんと、心臓が音を立てた。
視線を桜の木に戻す。その視界の端には確かに桜を見上げる女性の姿があった。
透哉はゆっくりと彼女に目を向けた。
桜舞い散る中、たたずむその姿。
まさか。
透哉は彼女を見つめる。
黒髪がわずかに風になびき、白い指がその髪を押さえている。
目を細めて桜を眺めるその人。
見間違えるはずがなかった。
こんなきれいな立ち姿を、彼女のほかに自分は知らない。
透哉の胸をあの日の感動にも似た思いがこみ上げる。
なんと君に声をかけようか。
透哉は彼女に向かって一歩を踏み出した。
もう二度と迷わない。
桜舞い散る木の下で、今度こそ、君に声をかける。
本編はこれでおしまいです。
続きは、読んで下さった方、それぞれで思い描いていただけたら、とても、とてもうれしいです。
けれど、私なりの、今後の二人を想像して、おまけの1話を後日載せます。
それは、続きではなく「if」という形で読んでいただけたら、と思います。
「もしかしたら、こんな未来に続くかも知れない」
そんなお話です。