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 今度は俺が前に進ませようとすると、猫は地面に爪を立てて動こうとしない。あくまでも自分のやりたいことをやり通す。人間の言うことなど聞かない。自分勝手なやつだ。これではまったく散歩にならないじゃないか。


 それでも俺は、黒猫が遊びたいように遊ぶのを許し、それに付き合ってやった。公園の整備された道などまったく関係なしに、猫が進みたい方向に進む。時に走らされたり、人間には無理なところを通らされたりしたけれど、意外と楽しかった。


 その黒猫が、突然ピタッと立ち止まった。そしてあたりを警戒するように耳をピンと立ててキョロキョロ見回している。


 「…どうしたんだ?」


 黒猫は地面の匂いをくんくんと嗅ぎ、のそのそと探るように歩く。それについていくと、いつの間にか公園の端に来ていた。猫は、人があまり通らないような茂みの中に入っていく。俺も苦労して木と草を掻き分けてその後をついていった。中に入っていくと、俺の黒猫のものではない、子猫のか細い鳴き声がした。更に奥へ進んでいくと、黒猫は再び立ち止まり、前方を注視していた。


 ――……そこには、ダンボールに入れられて捨てられた一匹の子猫と、しゃがみこんでそれを見つめている少年がいた。


 少年は茂みの奥に現れた俺に気づくと、ハッとこちらを振り向いた。


 男でも女でもない中性的な顔立ち。今は警戒するように眉を吊り上げているが、そうではない普通のときはきっと可愛いのだろう。


 「……何をしに来たんですか」


 少年の刺々しい口調に、俺は少し驚きを隠せなかった。


 「ああ、いや、俺の猫がそのちび猫に反応したからさ」


 ふーん、と言いながら、少年はまた子猫に視線を戻す。そして慈しむように、その頭を撫でた。


 「……許せないっ」


 「え?」


 少年が何を言っているのか一瞬分からなかった。俺は少年と子猫に近づき、同じように座り込んだ。俺の黒い猫は、ダンボールの中の白い子猫の匂いをくんくん嗅いでいる。


 「許せないんですよ!! こうやって簡単に命を捨ててく人たちが!!」


 少年のその横顔は、やり場のない怒りに満ちていた。黒猫はまだ子猫の匂いを嗅いだり、鼻の頭をくっつけたりしている。


 「この子にだって…誰にだって…命があるのに!!」


 会って早々怒鳴られてしまって、俺はしばらくの間どう反応すればいいか迷った。少年は、今にも泣きそうな顔をしていた。


 「……確かに、それはそうだ。……でもどうしてそんなにムキになってるんだ?」


 少年は膝を抱え、むうっと唇をつき出した。


 「……僕も、この子と同じだから……」


 「それじゃ、まさか……」


 少年はコクリと頷いた。


 「……そうだよ。僕も捨て子なんだ。だから、この子の気持ちは痛いほど分かる…」


 少年は子猫を抱き上げ、その頭を優しく撫でていた。撫でられている子猫は、気持ちよさそうにゴロゴロ喉を鳴らしている。相変わらず俺の猫は、執念深く子猫を観察している。


 「……優しいんだね」


 「え?」


 少年は俺の言葉にびっくりしたのか、顔を上げてこちらを見上げた。


 「君は、優しいんだね。そうやって……」


 実は初めから発見していたのだが、ダンボールの中には、ミルクが入った皿が置いてあった。


 「…毎日、餌をやりに来ているんだろう?」


 少年は少し赤くなって俯いた。


 「そんなの……当たり前じゃん…じゃないと、この子が死んじゃう」


 「ああ、そうだな。まあでも、君にそうしてくれてその子は幸せだろうな」


 「そうかな……」


 「…ああ。俺は君みたいな人、知ってるよ。その人はいつも言っていた。『人も動物も皆、愛を受け取って生きている。愛がなくなった時が、死ぬ時なんだ』って。だからその子猫も、君に愛されて生きられているんだろう。じゃないと、こんなところに子猫一匹、飢え死んでいただろう」


 『その人』とは、紛れも泣くセシルのことだ。セシルはいつも『愛』のことについて考えていた。あの屋根の上で、しばし俺と議論したこともあった。


 あいつ……皆から愛されていたというのに、何で死んでしまったんだ……。


 そうか、それは俺が悪いんだ。俺が、愛してやれなかったから……。


 ……くそ。また嫌なことを思い出してしまった。


 前世のことは胸の奥にしまっておこうと思った時、少年から思わぬ言葉が飛び出した。


 「キース…?」


 少年は目を見開き、動揺を隠せない様子だ。俺もたった今耳にしたものに一瞬思考が停止しかけたが、いろいろな情報をフル活用して、少年が言った言葉の意味を模索した。


 子猫を抱いている少年は、名も知らない俺を前世の名前で呼んだ。それは木菅でも鱚太郎でもない。少年は、はっきりと「キース」と……。


 「まさか……」


 俺の前世の(本当の)名を知っているヤツがいるとしたら……あいつしかいない。


 喜びが駆け上ってくる。


 「まさか君、セシル!?」


 少年は嬉しそうに頷いた。俺は喜びが最高潮に達した。


 「セシル!!」


 俺は半分涙目になって、その少年を子猫ごと抱き締めた。華奢で決して肉付きは良いとは言えないけれど、ほんわり温かかった。もう、俺が触れても消えたりしない。そのことがいっそう喜びを倍にした。


 「キース……やっぱりいたんだねっ」


 「俺はお前がいないと思ってた……!」


 「僕はいるよ。ちゃんとここに。記憶も全部、残ってる。キース……ああ、会えてよかった……!!」


 セシルはもう涙声になっている。俺もつられて泣きそうになった。鼻の奥がツンとする。


 「セシル……ずっと言えなかったけど…」


 「うん…」


 セシルは真っ赤になった顔を上げ、俺の言葉を待っている。俺はその頬を両手で包んだ。


 「好き。大好きだよ、セシル。今も……昔も」


 セシルはプイッと視線を逸らし、膨れ面をした。


 「昔って言うのは嘘でしょ。だってキースには大切な人が……」


 「バカ。それはお前が勝手に勘違いしていただけだ。大切な人っていうのは、お前だよ」


 「え」


 セシルは間抜け面をした。俺はそれを正面に持ってこさせ、セシルの可愛い顔を真ん中から覗き込む。薄い茶色の瞳に見つめられると鼓動が馬鹿みたいに早くなるが、もうそれを否定しなくてもいい。


 「…最初からお前のことが好きだったんだよ。悪魔の時は言えなかったけど」


 「だって……途中から来なくなったじゃん。僕はてっきり、「大切な人」のところへ行ったんだと……」


 「ああ、それはな……」


 あの時あのまま会っていれば絶対にお前を襲っていた、でもお前を汚したくはなかったから会うのをやめたんだと伝えると、セシルは目を見開いた。


 「うっそ……」


 「本当だよ。でもあの時は、そう言うこともできなかったから、黙っていなくなるしかなかったんだ……。ごめん」


 「ううん……。……なーんだっ」


 セシルはクシャッと笑った。瞼に溢れた涙が、その柔らかい頬に伝い落ちる。


 「なんだ、そうだったのかぁっ……」


 「うん。だからお前に消えられた時は途方に暮れたよ。どうすればいいんだってね」


 「ごめん……」


 「もういいよ。過去のことは」


 「うん…」


 セシルは幸せそうに瞼を閉じた。


 「キース……」


 「ん?」


 「僕にも……言わせて?」


 セシルはゆらゆらと瞳を揺らし、照れくさそうに微笑んだ。天使だった頃よりもはるかに色気があって、俺はかぁっと赤くなった。


 「大好きだよ……。キース……」


 ――ずっと長い間聞きたかった言葉。


 やっと聞くことができた。


 …感無量だった。


 「俺も……」


 俺たちはどちらからともなく引き寄せられるように顔を近づけ、何度も口付けした。


 セシルの濡れた唇は柔らかく甘く――俺は『オス』という獣の性に火がつけられたように、何度も何度も貪った。セシルの甘い吐息も、紅潮した頬も、全部が愛しい。


 ずっと我慢し続けていたから、その反動は大きくて、俺はなかなかやめられなかった。もっともっととセシルの唇を求めてしまう。セシルもそれに十分に応えてくれていた。


 とても熱いキスだった。


 あの時とは正反対の――。




※※※




 「で? お前、どうするつもりだよ」


 俺たちが再会できたのはいいが、実際問題猫の飼い手をどうするかということが残っていた。


 「うーん。実はさ、僕施設にいるから、猫は飼えないんだよね。アレルギーの子もいるし」


 セシルは2コ下で高校3年生だった。孤児院にいるらしく、親はいない。


 「…どうしよう…このまま見捨てるわけにもいかないし…」


 「じゃあ、俺が飼ってやるよ。その白い猫」


 「ホント!?」


 「ああ。だってうちの黒猫と随分仲良くなってるもんなあ。あれを引き剥がしたらかわいそうだし」


 黒猫は母性本能をくすぐられたのか、すっかり白猫の母親になっている。白猫の遊び相手になったりじゃれ合ったり……何だか楽しそうだ。


 「ま、餌代2倍にはなるけどな」


 「意外と優しいんだね。キース」


 「俺? 俺は優しいぞ」


 「うん……」


 「それとな……お前も」


 「うん?」


 「お前も俺の家に来い」




※※※




 出会ってから一年後――。


 俺は大学3年になり、春からの新学期に向けて部屋の家具の配置やら何やらを変えていた。猫たちは相変わらず元気で、白黒共にぽてぽてしている。


 「よーし、これでOKか」


 自分が納得できる部屋が完成し、俺はひとつ息をついた。


 あとは、あいつが来るだけか。


 あいつは孤児院での生活を終えて、春から俺の身内となる。正確に言えば、俺の親が引き取って、俺たちは義兄弟となる。あいつは俺の親の援助を受けて俺と同じ大学に通うことになったので、同じアパートでルームシェアということだ。


 ピンポーン


 インターホンが鳴り、俺は軽い足取りで玄関に向かう。ドアを開ければ、ひと回り大きくなったセシル――青年がいた。


 「これから…よろしくお願いします」


 青年は深々と頭を下げた。そして照れくさそうに笑った。


 俺もつられてはにかむ。そして言う言葉は――。





 「おかえり」



ちょっと長めの短篇でしたが、お付き合いありがとうございました。感想などいただけるとうれしいです。




AZURE



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