あの日、帰らなかった
あの日、帰らなかった
高校の入学式の日。
担任の教師に、こう告げた。
「今日で辞めます」
当然、ものすごく説得された。
入学式に来たばかりの生徒が、いきなり辞めると言い出したのだ。教師からすれば、たまったものではなかっただろう。
だが、私の意思は変わらなかった。
そもそも、中学生のころから学校にはろくに行っていなかった。
ギターばかり弾いていた。
そんな私が、中学3年生のころ、ボクシングにはまった。
本格的なボクシングジムは家から遠かった。
往復で4時間近くかかる。
それでも通った。
いつしか、生活の中心はボクシングになっていた。
高校を辞めてからの3年間、ひたすら打ち込んだ。
そしてあるとき、日本王者であり、WBA世界ランキング2位にもなった選手と手合わせをさせてもらう機会があった。
次元が違った。
それまで自分なりに努力してきたつもりだった。
だが、目の前にいる人間は、まったく違う領域にいた。
その後、何度もスパーリングをさせてもらったが
この先、どれほど努力を重ねても、自分はここには届かない。
そう痛感した。
高校に入学するとき、親は教材を一式買ってくれていた。
それを一度も使うことはなかった。
今になって思う。
申し訳ないことをした。
もっとも、当時の私に何を言っても、きっと聞かなかっただろう。
私は昔から、一度こうすると決めたら、なかなか意思を曲げない人間だった。
*
ボクシングが好きだったのは、私だけではない。
父も大のボクシング好きだった。
父は少林寺拳法の黒帯を持っていた。
ボクシングの世界戦の中継があると、いつもテレビに向かって何かを叫んでいた。
そのたびに母から「うるさい!」と怒られていた。
子供のころ、不思議に思って聞いたことがある。
「そんなにボクシングが好きなら、なんで自分ではやらなかったの?」
「出目だからだ」
「出目?」
「パンチが目に当たるんだ」
そんな父は、私が唯一尊敬できる人間だった。
少なくとも、アルコール依存になる前までは。
酒によって、父は変わってしまった。
家族に迷惑をかけ続ける父を見るのは、つらかった。
腹も立った。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
尊敬していた人間だからこそ、余計に受け入れられなかったのかもしれない。
そして、父が亡くなる一か月ほど前。
私は、ついに言ってしまった。
「そんなんだったら、早く死んでくれよ!」
今でも覚えている。
言ってはいけない言葉だった。
それでも、あのときの私には、そう言ってしまうだけの怒りがあった。
父は何度も体調を崩していた。
そのたびに悪くなっては、また回復する。
そんなことを繰り返していた。
最後のときも、そうだった。
当時、私は仕事で神奈川にいた。
父と母は北海道にいた。
父の体調がまた悪くなったと聞いた。
だが、帰らなかった。
まあ、今回もまた復活するだろう。
そう思っていた。
いつものことだと思っていた。
だが、次はなかった。
もう会えない。
もう話せない。
あのとき、なぜ帰らなかったのだろう。
仕事があった。
遠く離れていた。
また元気になると思っていた。
理由はいくらでもある。
だが、帰ろうと思えば帰れたはずだった。
父に最後に何を話したかったのか。
今となっては、それすら分からない。
ただ、あの言葉だけは、はっきり覚えている。
「早く死んでくれよ」
取り消すことは、もうできない。
*
父が亡くなって、3年になる。
今でもよく夢に出てくる。
不思議なことに、夢に出てくる父は、いつも元気だったころの姿だ。
アルコール依存になる前の、私が尊敬していた父。
普段の生活で、父のことを思い出す時間は以前より減った。
毎日、悲しんでいるわけではない。
いつも後悔しているわけでもない。
それでも、夢には出てくる。
目が覚めると、もう父はいない。
3年もたったのに。
まだ、あの日のことが自分の中に残っているのだろうか。
*
母は、もう70代だ。
私はまだ、まともに親孝行ができていない。
高校の教材を買ってもらったこと。
好き勝手に生きてきたこと。
ずいぶん心配もかけてきた。
父が亡くなってから、時間のことを考えるようになった。
人間は、いつか死ぬ。
そんなことは昔から知っていた。
だが、知っていることと、実際に失うことはまるで違った。
父のときは、また次があると思っていた。
また元気になったら会えばいい。
そのうち帰ればいい。
そう思っているうちに、次がなくなった。
母にも、いつかその日が来る。
家系的にも、長生きするとは限らない。
あと何回、一緒に食事ができるだろう。
あと何回、くだらない話ができるだろう。
分からない。
高校の入学式の日。
教師にどれだけ説得されても、私の意思は変わらなかった。
自分で決めたことだからだ。
だが、父のところへ帰らなかったあの日。
私は、何かを決めたつもりすらなかった。
また今度でいい。
そう思っただけだった。
その「今度」は、二度と来なかった。
もう、同じ後悔はしたくない。
母が生きているうちに、できることをしたい。
まだ満足に親孝行もできていない。
あまり時間は残されていない。




