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あの日、帰らなかった

作者: 遠白ゆう
掲載日:2026/10/25

あの日、帰らなかった


高校の入学式の日。


担任の教師に、こう告げた。


「今日で辞めます」


当然、ものすごく説得された。


入学式に来たばかりの生徒が、いきなり辞めると言い出したのだ。教師からすれば、たまったものではなかっただろう。


だが、私の意思は変わらなかった。


そもそも、中学生のころから学校にはろくに行っていなかった。


ギターばかり弾いていた。


そんな私が、中学3年生のころ、ボクシングにはまった。


本格的なボクシングジムは家から遠かった。


往復で4時間近くかかる。


それでも通った。


いつしか、生活の中心はボクシングになっていた。


高校を辞めてからの3年間、ひたすら打ち込んだ。


そしてあるとき、日本王者であり、WBA世界ランキング2位にもなった選手と手合わせをさせてもらう機会があった。


次元が違った。


それまで自分なりに努力してきたつもりだった。


だが、目の前にいる人間は、まったく違う領域にいた。


その後、何度もスパーリングをさせてもらったが

この先、どれほど努力を重ねても、自分はここには届かない。


そう痛感した。


高校に入学するとき、親は教材を一式買ってくれていた。


それを一度も使うことはなかった。


今になって思う。


申し訳ないことをした。


もっとも、当時の私に何を言っても、きっと聞かなかっただろう。


私は昔から、一度こうすると決めたら、なかなか意思を曲げない人間だった。


*


ボクシングが好きだったのは、私だけではない。


父も大のボクシング好きだった。


父は少林寺拳法の黒帯を持っていた。


ボクシングの世界戦の中継があると、いつもテレビに向かって何かを叫んでいた。


そのたびに母から「うるさい!」と怒られていた。


子供のころ、不思議に思って聞いたことがある。


「そんなにボクシングが好きなら、なんで自分ではやらなかったの?」


「出目だからだ」


「出目?」


「パンチが目に当たるんだ」


そんな父は、私が唯一尊敬できる人間だった。


少なくとも、アルコール依存になる前までは。


酒によって、父は変わってしまった。


家族に迷惑をかけ続ける父を見るのは、つらかった。


腹も立った。


なぜ、こんなことになってしまったのか。


尊敬していた人間だからこそ、余計に受け入れられなかったのかもしれない。


そして、父が亡くなる一か月ほど前。


私は、ついに言ってしまった。


「そんなんだったら、早く死んでくれよ!」


今でも覚えている。


言ってはいけない言葉だった。


それでも、あのときの私には、そう言ってしまうだけの怒りがあった。


父は何度も体調を崩していた。


そのたびに悪くなっては、また回復する。


そんなことを繰り返していた。


最後のときも、そうだった。


当時、私は仕事で神奈川にいた。


父と母は北海道にいた。


父の体調がまた悪くなったと聞いた。


だが、帰らなかった。


まあ、今回もまた復活するだろう。


そう思っていた。


いつものことだと思っていた。


だが、次はなかった。



もう会えない。


もう話せない。


あのとき、なぜ帰らなかったのだろう。


仕事があった。


遠く離れていた。


また元気になると思っていた。


理由はいくらでもある。


だが、帰ろうと思えば帰れたはずだった。


父に最後に何を話したかったのか。


今となっては、それすら分からない。


ただ、あの言葉だけは、はっきり覚えている。


「早く死んでくれよ」


取り消すことは、もうできない。


*


父が亡くなって、3年になる。


今でもよく夢に出てくる。


不思議なことに、夢に出てくる父は、いつも元気だったころの姿だ。


アルコール依存になる前の、私が尊敬していた父。


普段の生活で、父のことを思い出す時間は以前より減った。


毎日、悲しんでいるわけではない。


いつも後悔しているわけでもない。


それでも、夢には出てくる。


目が覚めると、もう父はいない。


3年もたったのに。


まだ、あの日のことが自分の中に残っているのだろうか。


*


母は、もう70代だ。


私はまだ、まともに親孝行ができていない。


高校の教材を買ってもらったこと。


好き勝手に生きてきたこと。


ずいぶん心配もかけてきた。


父が亡くなってから、時間のことを考えるようになった。


人間は、いつか死ぬ。


そんなことは昔から知っていた。


だが、知っていることと、実際に失うことはまるで違った。


父のときは、また次があると思っていた。


また元気になったら会えばいい。


そのうち帰ればいい。


そう思っているうちに、次がなくなった。


母にも、いつかその日が来る。


家系的にも、長生きするとは限らない。


あと何回、一緒に食事ができるだろう。


あと何回、くだらない話ができるだろう。


分からない。


高校の入学式の日。


教師にどれだけ説得されても、私の意思は変わらなかった。


自分で決めたことだからだ。


だが、父のところへ帰らなかったあの日。


私は、何かを決めたつもりすらなかった。


また今度でいい。


そう思っただけだった。


その「今度」は、二度と来なかった。


もう、同じ後悔はしたくない。


母が生きているうちに、できることをしたい。


まだ満足に親孝行もできていない。


あまり時間は残されていない。

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