繰り返しに終止符を
『まあ。痛そうなこと。大丈夫? ユイコ』
夢だ。
おっとりと柔らかく、淑やかな声が結子を呼ぶ。
これが夢だとわかるのは、結子の前に、ぼんやり光を纏うコルネリアがいるからだ。
会いたかった。会いたかった、コルネリア。
『まあ。わたくしもよ、ユイコ』
嬉しそうにはにかむコルネリアは、どこか静謐で神々しく、手を伸ばすことすら恐れ多い。
人間には届かない場所にいるのだなと、結子はただ納得した。
「コルネリア」
『なあに』
「行ってしまうの」
なんとなく、もう、戻って来ないのだろうなとわかった。
コルネリアを包む光はとても、なんというか、この世のものとは思えないほどに清らかで、残酷なほど美しい。
『ごめんなさい、ユイコ。わたくし、もう何回目かの人生が始まって、絶望してしまったの』
ああ、なるほど。
結子がコルネリアの身体に入る前に眺めていた人生は、確かに存在した人生なのか。妙に納得した。
コルネリアは、コルネリアとして生きて死に、同じ人間としてまた生まれた。何度も、何度も。
確かに、あんな孤独で報われない人生をまた繰り返すと思えば、絶望してしまっても仕方ない。
『誰か助けてって、ずっと思っていたの。わたくしの全部をあげるから、誰か代わってって』
「で、わたしが来たんだ。異世界で死んだ時に」
『ええ。どういう原理かは、ちょっとわたくしにはわからないけれど……あたたかい声がしたのよ。この子に会いたいなって、心に響くみたいに』
結子は、確かに願った。コルネリアに会って、抱き締めたいと。
どういうわけかそれが叶い、コルネリアの身体と思考の大部分を結子が受け取った。
『もう、コルネリアはあなたとして人生を送っているわ。周囲もみんな変わった。ねえ、ユイコ。わかっているでしょう? わたくしではなし得なかった人生だわ』
「違う人間だからだよ。コルネリアの人生だって、素晴らしかった。すごく尊敬してる」
『ありがとう。ユイコ、あとは任せても構わないかしら』
「いいよ。ここ、結構気に入ってるの。でも、コルネリアはどこに行くの?」
『さあ。でも、どこだっていいわ。わたくし、逃げてしまってもいいかしら』
「もちろん。逃げるのは、自分を守る手段でもあるもの。コルネリアには、自分を守る権利があると思う」
ありがとう、と笑うコルネリアの涙が、真珠のように輝く。
別れが迫る焦りの中、結子は伝えたい言葉を慌てて探した。
「わたしは、あなたが大好き。とっても大切。うちの子みたいに思ってる」
『ふふふ。ユイコ、わたくしもユイコが大好き。次は、ユイコのうちの子になりたいわ』
「楽しみに待ってる。本当に、ずっと待ってる。ちゃんとわたしのところに戻っておいで」
『叶うなら、ユイコと──の……』
ザザザ、と昔ながらのブラウン管に砂嵐が走るような景色と共に、結子とコルネリアは渦に巻き込まれた。
────なんて言ったの、コルネリア。
あなたの願いなら、張り切って叶えてあげるのに。
暗闇に引き込まれながら、結子はゆったりと微笑んだ。
ハッと目を開ける。
コルネリアの残像が完全に消えたそこは、見慣れない部屋のようだ。
ゆっくりと視線を巡らせると、結子はなぜかベッドに寝かしつけられ、すぐ傍には父が椅子に座ってベッドに肘をついていた。
「……こうしゃく」
「目が覚めたか。頬の傷は数週間でよくなる。ここは私の私室だ」
結子が聞きたいことを先回りして答えた父が、ぐっと身を屈めて顔を覗き込んだ。
何かを探るように、慎重な眼差しをただ見返す。
「顔色は悪くないが、気分はどうだ」
「大丈夫です……」
「水は飲めるか」
頷いて、父の手に助けられながら上半身を起こして水を飲む。
遠慮がちに部屋を見回すと、なんというか、父らしい私室だった。
無駄な物が一切ない、ともすれば生活感すらない空間。
デスクと本棚とベッドくらいしか、大きな家具は見当たらない。
説明によると、結子は丸一日眠りこけていたようで、医師の診察も終わっているとのこと。
母は部屋に軟禁中、兄たちは後始末に奔走中。
父のすっと高く通った鼻の輪郭や、伏し目がちなまつ毛が金色に光りを弾く様を見ていると、急に目頭が熱くなった。
咄嗟に眉間に力を入れて、涙を堪える。泣いて堪るか。
「なぜ泣く」
「……泣いてません」
「強情が」
ぶっきらぼうな物言いが、なぜかいつもより距離を近づけて、嬉しいのに切ない。
この痛みが結子のものなのか、コルネリアのものなのか、もう何も結子にはわからない。
「いつから知っていた?」
「最初から」
「おまえが来た時か」
やっぱり気づかれていた。
無理やり笑いながら、結子は目を伏せた。
結子がコルネリアでないと、父はきっと最初に会った執務室のやり取りでわかっていたのだ。
結子が、彼はコルネリアの実父ではないと、知ったように。
不思議な感覚だった。血縁とは、顔を見て有無を判断するものではないのに、目を見た瞬間に理解ってしまった。
────コルネリアは、もう帰って来ない。
先ほどまで話していたのだから、知っていたはずなのに、ひどく胸が痛い。
結子の中に、コルネリアがいない。結子はもう、ただの結子だった。
コルネリアは、自由になったのだ。繰り返す人生から。
本当は、コルネリアは一刻も早く逃げたかっただろう。
でも、呼び込んでしまった結子が縋るから、留まるしかなかった。守られていたのは、結子の方だ。
ただ心に雫が落ちて、別れを惜しむように光った。
父の、いや、公爵の角張った大きな手が伸びて、結子の髪をひと房掬う。
「生まれを知ったか」
「……なんとなく」
「あれは、シルヴァ・オディットの異母妹だ」
「うん」
あの血が騒ぐざわめきは、肉親の愛を求め続けたコルネリアの歓喜と憧憬と、わずかな嫉妬心。
安堵してしまった結子は、薄情だろうか。
「……あなたは、いつ知ったのですか」
問いかけると、口端を歪めた公爵は肩を竦めた。
「いつも何も、覚えがない」
「……なぜ、養ったのですか」
「子には関わりのないことだ」
一人くらい増えてもどうってことはない、と、軽い口調で続ける言葉は本心のようで、結子は困ってしまう。
「そのうち片づけようと思っていた」
淡々と、感情のない声はたぶん、結子のため。
そういう不器用な気遣い方をする人だと、いつの間にか結子は知ってしまった。
「あれは衝動的で、短慮で激昂型だ。そのように育てられたことは哀れに思う。後始末くらいは、私がしてやるつもりでいた」
「……あの方は、どうなりますか」
「子の虐待と姦通の罪で修道院行き。まあ、表向きは療養か。今日中に離縁の手続きは終わるだろう。他に希望は?」
コルネリアではない結子に、彼女の罪を裁く権限はない。
結子は首を振った。
「……小公爵たちは、お会いにならないのですか」
「あれらはもう大人だ。爵位を譲る前に片づけてほしいと言い出したのは、あれらだぞ」
「そうですか……」
あの苛烈な母の溺愛とは、どれほど息苦しい檻だったことだろう。
同情はする。ただ、コルネリアの苦しみも同じくらい深かったと、知ってほしかった。
「……あなたは」
頬の怪我のせいか、この静謐な空気のせいか、紡ぐ言葉は吐息のように囁かになる。
「あなたは、苦しかったですか。悲しかったですか。悔しかったですか」
生まれる子が、自分の血を引かないと知って。ほんの少しも感情が動かないなんてことはないだろう。
少し考えるように視線を落とした公爵の手は、変わらず結子の水色の髪を指で遊ばせている。
「子ができたと聞いた時には、また馬鹿なことを仕出かしたなとは思ったが、それだけだ。……だが、あの女が生まれたばかりの赤子を異常に敵視するのを見るのは、少々気が滅入った。だから、二人で王都に移った」
「……一人で行こうとは、思わなかったのですか」
「思うわけない。私がいなくなれば、赤子がどんな目に遭うかわかっていて、残す選択肢はない」
「…………コルネリアは、あなたの子でしたか」
ふ、と吐息で笑った公爵が、結子の眉間に指で触れる。
いつかの結子のように、皺を伸ばすようになぞり、撫でる。
「あれは確かに、私の娘だ」
欲しかった言葉をもらえて、結子は眉を下げて微笑んだ。
そう。そうなんだ。
こんなに冷たそうな人なのに、コルネリアを守ろうとしたのは、この人一人だった。
赤子のコルネリアを、脅威から遠ざけようとしたのは。
不器用すぎて言葉少な過ぎて、ついに最後までコルネリアは気づけなかったけれど。
「あれはちゃんと逃げられたか」
「はい。ちゃんと」
「そうか。それでいい」
心の底から安堵したような、染み入るように静かな肯定だった。




