母、ご乱心
少々暴力・暴言の表現があります。ご注意ください。
バキッと、凄まじい衝撃と共に扇子が折れる音が頬に食い込む。
勢いのまま後ろに傾いだ身体が、床に倒れる。
痛みというより、ひどく熱い。
殴られた衝撃で耳鳴りがして、視界がぐるぐる回った。キンキンと声が響く。
社交シーズン初日、朝早くに馬車の音がして階下に降りると、派手派手しい美女が馬車を降りるところだった。
いつもなら無視するはずの鋭い紅のつり目が、まっすぐ結子を射抜き、ツカツカと歩み寄って来る。
警鐘を鳴らす頭とは裏腹に、長年染みついた恐怖に足が竦んで動けない結子を、母の扇子が渾身の力で張り倒した。イマココ。
すっごく痛い。めちゃくちゃ痛い。
でも、それよりも、恐ろしくて身体が震える。
「慈悲でここに置いているというのに、おまえは何をしているの!!」
金切り声に、使用人たちが駆け寄ってくる足音がする。
でも、初めて正面から見た紅の目から、結子は逸らすことを許されない。
「この家に、わたくし以外の女などいらないのよ! おまえなんかいらないわ!」
────ああ。コルネリア。
あなたが隠れてくれて、本当によかった。こんな醜い言葉を、あなたに浴びせずに済んだ。聞かなくていい。耳を塞いでいて。逃げてもいいから。
「夫を誑かして、慈善活動ですって!? 恥をかかせるんじゃないわよ! おまえはわたくしの慈悲で生き延びているのよ! どうでもいいおまえが、わたくしの人生に関わるんじゃない!!」
「お嬢様!」
「誰か、旦那様を!」
「おまえみたいな女に、わたくしの夫や息子を取られて堪るもんですか! どこへでも行きなさい! さっさと死ねばいい!!」
ぎゅう、と強く抱いて、結子の耳を塞ごうとする手がある。
不思議に思って見れば、今にも泣きそうなルネが床に伏した結子を必死に抱き締めていた。
────あら。コルネリアを抱き締める腕は、ちゃんとあったのね。
よかった。本当によかったのに、どうして、少し寂しくなるのだろう。
「黙れ」
不意に、立ち塞がる背中があった。
冷たい炎を燃えたぎらせ、父の背中が明らかな怒気を背負っている。
「何をしに来た」
「その女を躾に来たのよ! どうせ、あなたもその女に唆されたのでしょう!」
「その女、ではないだろう」
「女よ! わたくし以外の女など、この家には必要ない!!」
狂っている。いかにも狂気じみた、気狂いの女が髪を振り乱して叫ぶ。
「おまえが産んだ子だろう」
「気色の悪い! わたくしが産んだのは、息子たちだけよ! それは認めないわ!」
「それは、」
わわ、ストップ!
咄嗟に手を伸ばし、父のスボンを掴む。
ほんの少しの力だったというのに、父はすぐさま気づいて振り返った。
碧い瞳が、余計な感情を削ぎ落として、ただ静かに結子を見ている。
結子は、首を振った。頬が痛い。熱い。怖い。でも。
ルネを宥めて腕を解いてもらい、立ち上がって父の前に出る。
怒りに染まった紅は、確かに恐ろしい。だけど、それ以上に。
結子は、コルネリアを守りたい。
「何事かと思えば。公爵家の夫人がそのように喚き散らすなど、品のないこと」
扇子は持っていないので、痛々しい頬は隠せないが、結子は冴え冴えと笑う。
舐めるんじゃない。こちとら、初産でまとめて三人の出産を体験した母だったのだ。マジで死ぬかと思った。
歳の離れた娘? そんなもん、想像しただけで可愛くて可愛くて愛でるしかありえない。
だというのに、この母は。
いかなる過去があったとて、理由になどなるものか。
「我がデイビス公爵閣下は、たかが小娘一人に誑かされる愚か者ではございません。撤回してくださいませ」
「だ、黙りなさい!」
「わたくしはわたくしを、コルネリア・デイビスを、愛しております」
「うるさいっ! うるさいうるさいうるさいっ!!!」
爆発したように声を荒らげる母を、結子は想像通りとほくそ笑んだ。
こういう輩は、自分にとって価値のない存在は、誰にも愛されないべきと思っていることも多い。
自分を愛せないように、母は徹底的にコルネリアを虐げた。
「……残念だったわね」
小さく呟く。
他は知らないけれど、少なくとも結子は、コルネリアを心底大切に思うし、心底愛している。
「その女を拘束しろ」
命じながら、父の腕がゆっくりと伸びて、結子の身体を抱き寄せる。
硬い胸に額をくっつけて、背中を大きな手が撫でる。
「然るべき罪を問う。部屋に軟禁し、外から鍵をかけろ」
傷ついた頬を労るように、柔らかい手つきが髪を撫でる。
結子はただ、その手の感触だけを追いかけて、目を閉じた。




