未熟な大人たち
確かに、触れようと思ったのだ。
そうしようとした手に気づいて、結子は初めて自分の変化を自覚した。
数歩先の背中を、呼び止めようとしただけ。
でも、触れずとも声だけで叶えられることを、仕草で示そうとした。
ちょっとした衝撃に固まった結子を、ルネが静かに見守っている。
「…………ルネ」
「はい」
「わたし、……公爵に触れたいみたい」
今までのように、付かず離れずの距離から言葉を交わすのではなく。
いつもなら言葉遣いを正すはずのルネは、ただ頷いて『そうですか』と言っただけだった。
とっくに気づいていた、とでも言うように。
「もっと近づきたいみたい」
言葉にすると、心の中で散らばっていた気持ちが、すんなりとまとまってしまった。
若さゆえの年上への憧れや、いつか燃え尽きる熱とは違う、緩やかなあたたかさがある。
そして、それを許されるという甘えと信頼も。
家族が欲しい? 何を自分は、見栄を張っているのか。
そんなんじゃない。違うだろう。ただ、結子はあの人の碧い瞳が認める唯一に、選ばれたいのだ。
目いっぱい欲を孕んだ、人間らしく醜さすら包む想い。
────なんだ。なあんだ。
ふふっと笑みが漏れる。
結子はコルネリアじゃないから、公爵のことを父親だなんてちっとも思えない。
ただ、コルネリアは父親と思っていたから、自分もそう思わねばと思っていただけ。
初めて会った瞬間から、彼は一人の男性だった。
仮とはいえ親子関係、歪みきったまま家族として一緒にいられればと思っていたが、そんなもの。
壊してしまえ。
ドレスの裾を上げて、淑女にあるまじき駆け足で去った広い背中を探す。ルネも止めなかった。
急げ、急げ。
身体年齢に精神も引っ張られているとはいえ、こちとら生前の五十八年とコルネリアとしての十五年生きてきて、やたら大人になって、上手い言い訳を思いつく臆病さは人一倍。
感情だけで走れる機会なんて、もうこれっきり。
「公爵!」
庭に出たところでようやく目的の人を見つけ、ぜいぜいと荒い呼吸で彼を呼ぶ。
振り返った碧眼は少々訝しげに、それでも駆け寄った結子を支えるように手を伸ばした。
「何事だ」
「……っ、はあ、はあっ……公爵に、話したいことが、あって」
使用人に伝えさせればよかったのでは、と思っているのはわかっている。
でも、結子は、自分の足で伝えたかったのだ。
理知的な瞳をまっすぐ見つめ、なんだか泣きたい心地で笑う。
「あなたが好きです」
大きく見開いた目が綺麗だなんて、恋に浮かれるようなことを思う自分に、なぜか安堵した。
「コルネリアじゃない、わたしが、あなたを好きなんです」
「……」
「触れたいなと思うくらい、わたしはあなたが好きみたい。いきなりごめんなさい。でも、やっぱり好きです」
「……」
「わたし、ここに来てよかった。コルネリアの代わりになれてよかった」
黙ったままの公爵を見ていると、不意に前触れもなく季節の変化に気づいた。
秋が近づく乾いた風。整えられた庭には、二人ぼっち。
「わたし、仕事をして、結婚して、子供も三人いたの」
「……結婚?」
「そう。夫とは三十年一緒にいて、喧嘩もたくさんしたし、口を利かない時もあったし、大嫌いな時もあったけど、死ぬまで一緒だった。大事な家族だった」
「そうか」
「子供は、なんと三つ子。女の子と、男の子二人。妊娠中も産後も育児もほんと死ぬかと思ったけど、もうどうしようもないくらい可愛かった」
数多の日々を経て、結子はここに来た。
ここにあり、ここで生きていく。
「わたしは、仕事をする社会人として、家と子供を守る父親として、あなたを尊敬しています」
生前、社会人として妻として母として生きた結子は、そんな自分を誇りに思っている。
だから、公爵が寝る間も惜しむほど仕事をして、不器用ながら子供を守っている姿に共感した。
共感はいつからか親愛になって、いつの間にか恋にまで育ってしまった。
「親だからって完璧じゃない。伴侶だからって理解できないこともある。でも、色んなことを飲み込んで手を尽くす生き様を、かっこいいと思う」
「……」
「身体はまだこんな未熟だし、世間的にも心情的にもちょっとばかり難しいかもしれないけど、わたしはあなたの隣がいい。一番、呼吸がしやすい」
静かでほんの少し冷たい、この人の纏う空気が好きだ。
穏やかばかりではない人生の紆余曲折を経て、静謐を手に入れた獰猛な一面が垣間見えるような雰囲気が。




