簡単なオペ
ドアを開けると、錆びついたヒンジが悲鳴を上げた。店内の空気は、表の路地裏よりもさらに数段、粘度が高い。
ホルマリンの酸味、羊皮紙の埃っぽさ、そして乾燥させた毒草の粉塵が渾然一体となり、肺の奥底に沈殿していく感覚。天井から吊り下げられた無数のドライフラワー――に見えるが、その実、半分は蝙蝠や蜥蜴のミイラだ――の間を縫って、俺はカウンターへと進む。
「……水銀ベースの『重』だろ。それも、とびきり粘度が高いやつ」
カウンターの奥、薄暗いランプの灯りに照らされた老婆が、俺が口を開くよりも早く、くぐもった声を投げかけてくる。
この店の主だ。
顔中に刻まれた深い皺は古地図の等高線のようである。俺が肯定の言葉を返す暇もなく、彼女は背後の棚へ手を伸ばし、目当ての小瓶を正確につまみ上げた。
ドン、とカウンターに置かれたのは、黒曜石のように深く光を吸い込むインク瓶。
この婆さんの異様なまでの察しの良さ。俺が今日、どんな素材をいじる予定で、どの程度の導魔率を求めているか。まるで俺の脳内を直接覗き込んだかのようなタイミングと精度。俺は黙って受け取り、代金をカウンターに滑らせる。余計な口は利かない。世間話も、値切り交渉もしない。
俺の視界の端、店内の梁に留まっている数羽の剥製のカラスが、ガラス玉の瞳でじっとこちらを見下ろしているのが映る。その視線が、単なるガラスの反射ではないことを俺は知っている。
黒い噂がある。市中の情報を収集している『眼』がある、と。
例えば、屋根の上で翼を休めるカラスども。あるいは路地裏を徘徊する野良猫。生体を用いた分散型監視網。もしその噂が真実で、その中枢がこの老婆だとしたら?
王都において、そんな用途での死霊術の行使は極一部の特例を除き重罪だ。バレれば火炙りか、よくて一生地下牢でマナ電池としての余生が待っている。だから俺は何も聞かない。何も知らない。飯のタネの構造解析なんて、無粋な真似もするつもりはない。
それに、それは俺の目指す美学とは決定的に相容れない。
大規模なネットワーク運用は、個人の職人芸の範疇を超えている。インフラ屋の仕事だ。そういう死体愛好家がどういう末路を辿るか、俺は嫌というほど見てきた。
効率化。コストダウン。スケールメリット。そんな経済用語に汚染された連中は、やがてより大きな資本の流れ――例えば盗賊ギルドの諜報部門だとか、冒険者ギルドの探索支援部といった巨大組織の掌の上へ、自ら転がり込むことになる。彼らはそこで、便利な下請け業者として飼い殺されるのだ。
死体の個体差を愛でることもなく、回路の即興性を楽しむこともなく、ただひたすらに規格化された「動く盗聴器」や「使い捨ての斥候」を量産させられる。納期と歩留まり率に追われ、自分の指先から奇跡が失われていくことに気づきもしない。
そいつは面白くない。
まったくもって、クリエイティブじゃない。
俺は剥製のカラスから意識的に視線を外し、インク瓶を懐にねじ込む。俺が欲しいのは、世界を俯瞰する監視映像じゃない。
「……また来な、若造」
背中に投げかけられたしわがれた声を、俺は片手だけ上げて受け流し、再びカオスと腐臭に満ちた路地裏へと足を踏み出した。
ーーー
重い鉄扉を背中で押し閉める。金属と金属が噛み合う鈍重なラッチ音が、外界の狂騒を物理的に切断した。瞬間、鼓膜を圧迫していた都市のノイズが消え、代わりに張り詰めた静寂と薬品臭が俺を包み込む。
ここから先は俺の聖域だ。王都の地下配管の隙間に寄生するように設えたこの空間は、薄暗く、狭く、そして何より素晴らしいことに、生きている人間が俺一人しかいない。
作業台の上には、先客が待っていた。マナ遮断シートの下から覗く、透き通るような白磁の肌。今日、俺が腕を振るう素体――森で拾った「エルフ」の死体だ。
シートを剥ぎ取る。
美しい、と言っていいだろう。人間が数千年かけて品種改良しても辿り着けない、生物としての極致的なデザイン。無駄な脂肪の一切ない、しかし女性特有の曲線美を残したシルエットは、神が気まぐれに描いた傑作だ。人間で言えば十代後半から二十代前半の、世間知らずな小娘。
だが、その肌のハリに騙されちゃいけない。
この連中の細胞は、俺たち人類のそれとは別物だ。経年劣化という概念が欠落している。そのつるりとした顔の下には、あのインク屋の古狸すら鼻垂れ小僧に見えるほどの、悠久の時が刻まれている可能性だってある。
もっとも、その真実を確かめる術は、もはやこの世のどこにもない。……いや、ないと言ったら噓になるか。なくはないが、極めて難しいとでも言っておこう。
俺たち死体愛好家は、あくまでハードウェアのエンジニアだ。壊れた肉体を修復し、魔力という電流を流し、擬似的な命令セットで再起動させることはできる。
だが、揮発してしまった記憶や人格までは復元できない。脳髄に残る回路のカスを拾い集めたところで、再生されるのはせいぜい断末魔のノイズか、壊れたレコードのような無意味な単語の羅列だけだ。彼女がいつ生まれ、誰を愛し、何を見てきたのか。それら記憶の一切合切は、心臓が停止して脳への酸素供給が絶たれた瞬間に失われている。ここに残っているのは、肉と回路だけだ。
虚しい?いやいや、これこそがロマンだろ。過去という名の混じりけのない、純粋無垢な処理装置。これほどそそられるオモチャが他にあるか?
俺は手袋を装着しながら、彼女――この美しい抜け殻を見つけた時のことを思い返す。
あれは王都から数日離れた、深い森の中だった。地図にも載っていない、獣道すら途絶えた緑の迷宮。彼女はそこで、大木の根元に抱かれるようにして冷たくなっていた。外傷はなし。毒物の反応もなし。まるで電池切れを起こしたかのように、唐突に機能停止していた。
妙な話だ。
あの辺りはマナ溜まりが悪性腫瘍のように点在する危険地帯で、まともな商隊ルートからも外れている。
通常、エルフってのは排他的なコミュニティを形成し、森そのものを要塞化して引きこもる習性がある。もし近くに集落があれば、森全体が殺気立っているはずだし、同胞の行方不明者が出れば、風に乗って捜索隊の足音が聞こえてくるものだ。
だが、あの森は静かだった。不自然なほどに。
考えられる可能性は二つ。
集落から遠く離れて旅をしていた「はぐれ」か。
あるいは、何らかの禁忌を犯してコミュニティからパージされた「追放者」か。
どちらにせよ、俺にとっては好都合だ。
もし彼女がどこぞの有力な部族の姫君で、その死体に俺がメスを入れたなんて知れれば、翌日には俺の生首が森の入り口に飾られることになる。エルフの報復は、粘着質で陰湿だ。奴らは風の囁きで標的を特定し、数キロ先から脳天を狙撃してくる。
だが、今回はそのリスクはない。周囲数キロを索敵し、残留マナを精査し、念には念を入れて安全確認は済ませた。
彼女は誰のものでもない。所有権放棄された極上のジャンク品。
つまり、俺がどう料理しようが、文句を言う奴はいないってわけだ。
「さて、と」
俺は懐から、先ほど手に入れたばかりのインク瓶を取り出し、解剖台の脇に置く。黒曜石のような液体が、瓶の中で重たく揺れた。リスク管理は完璧。素材の状態も最高だ。あとは、俺がこの空白のキャンバスに、どんな絵を描くかだけだ。震える指先を抑えつけ、俺は彼女の純白の胸元――その下に眠る回路へ向けて、メスを入れる位置を見定める。
死体いじりの鉄則その一。
『開腹は必要最小限に留めよ』。
当たり前の話だが、メスを入れた瞬間から、肉体は酸化と乾燥、そして腐敗という不可逆の坂を転がり落ち始める。一度劣化が始まれば、どれだけ高価な防腐剤をぶち込もうが、完全な鮮度は戻らない。
俺の最終目的であるネクロマンシー――死体蘇生術式が完成し、擬似的な生命活動によるホメオスタシスが再稼働すれば、生体自身の機能で防蝕を行えるようになる。だが、それまでの間、このキャンバスは無防備な肉の塊に過ぎない。開腹時間は短ければ短いほどいい。外科医も俺たちも、そこは同じだ。
だから俺はいつも非侵襲的スキャン――まあ、平たく言えばマナの残滓を指先でなぞって反響音を聞く作業だが――を徹底的に済ませておく。
結果は、悪くなかった。
末端の回路には若干の損傷が見られる。指先のコンデンサ代わりになる神経節がいくつか焼けているし、マナを蓄積する丹田周りのサブタンクにも亀裂が入っているが、どれも機能を推測できないほどじゃない。手持ちの標準的なインクと、棚に転がっている汎用触媒で十分リペア可能な範囲だ。
問題なのは、一箇所。
回路の大動脈に当たる、脊髄に沿って走る太い幹線だ。ここが、見事に焼き切れていた。単なる断線じゃない。炭化して癒着し、使い物にならなくなっている。通常、これほどの損傷は落雷の直撃を受けるか、あるいは自身の許容量を遥かに超えるマナを無理やり駆動させた時にしか起こり得ない。もしこれが、突発的なサージ魔流による事故なら、焼けた部分を切除して標準的なバイパスを繋げば済む話だ。
だが、俺の長年の勘――数え切れないほどの死体を弄り回し、たまに失敗してきた経験則が、警鐘を鳴らしている。『ただの修復じゃ足りない』と。このエルフの回路は、元々何らかの欠陥か、あるいは特異な性質によって、常時過大な負荷がかかる設計になっていた形跡がある。既存の配線規格じゃ、帯域幅が足りていないのだ。だから、同じ太さのパイプで繋ぎ直したところで、再起動した瞬間にまたボン、だ。次は俺の工房ごと吹き飛ぶオマケが付くかもしれない。
そこで、こいつの出番というわけだ。
俺は解剖台の脇に置いた『重』の瓶を指で弾く。こいつはただのインクじゃない。極限まで粘度を高めた水銀と、硬化後に物理的な強度を持つ特殊な樹脂を練り込んだ、構造材レベルの補強用インクだ。繊細な描画には向かないが、大電流を流す幹線の再構築にはこれしかない。手持ちの在庫を切らしていたのは痛恨だったが、結果的にあのインク屋に走ったのは正解だった。
修復じゃない。
拡張工事だ。
か細い魔導管を、分厚い工業用パイプに置き換える。そうすることでしか、このエルフが抱え込んだ何かを受け止めきれないと、俺のゴーストが囁いている。
それにしても、だ。
あのカラスのばあさん、俺が口を開く前にこの『重』を出してきた。つまり、俺がここにある死体をスキャンして、「通常品じゃ足りない」と判断して舌打ちした瞬間さえも、どこかで見透かしていたということになる。
以前、家の窓枠に留まったカラスと目が合った時、気味が悪いのでワンドからのマナバレットでプチリと潰してしまったが、どうやらあれは悪手だったらしい。今度あの黒い鳥を見かけたら、焼き鳥にするのはやめて、籠を用意してやるとしよう。
さて、ここから先は時間との勝負だ。腐敗が始まるか、俺が新たな循環系を完成させるか。規模としては簡易オペ(マイナー・サージェリー)。だが、舐めてかかれば痛い目を見るのは俺だ。
俺は作業台の下、厳重に封印された鉛の箱を蹴り開ける。中から取り出したのは、拳大の『高純度魔力結晶』だ。こいつ一つで、貧民街の一家が一年間、暖房と照明に困らず暮らせるだけのエネルギーが詰まっている。心臓が痛むようなランニングコストだが、背に腹は代えられない。エルフの肉体なんて高級素材を、菌ごときに冒させてたまるか。
部屋の隅で埃を被っていた巨大な棺桶を開き、震える手で結晶をスロットに叩き込む。
「今日は残業なしだ、さっさと済ませるぞ」
棺から這い出してきたのは、俺が保有する手札の中で最悪の燃費を誇る、医療支援用自動人形――『聖女』だ。
かつて戦場で衛生兵として酷使された死体をベースに、防腐処理と抗体生成、そして縫合技術に特化した回路を焼き付けた、俺の自慢の相棒。『聖女』の虚ろな瞳が赤く明滅し、六本の義腕がジャキリと展開される。消毒用のミストが噴射され、腐敗防止の結界が手術台を包み込む。
雑務は全部こいつに丸投げする。切開、止血、抗菌剤の投与、そして仕上げの縫合。
俺がやるべきは、ただ一点。このエルフに回路を描くことだけ。
「――始めるぞ」
俺は深呼吸一つ。肺の中の淀んだ空気を吐き出し、代わりに張り詰めた緊張感を吸い込む。
メスが走る。まるで熟した果実の皮を剥ぐように、あるいは封筒のペーパーナイフを入れるように、白磁の肌が音もなく左右に分かれる。
瞬間、内圧によって弾け飛びそうになるマナの奔流を、『聖女』の義腕が押さえ込み、露出した組織に即座に硬化液を塗布する。完璧なアシストだ。金がかかるだけのことはある。
俺は開かれた傷口、その奥に横たわる脊髄――マナの大動脈へと、『重』を含ませた筆を突き立てる。粘つく黒いインクが、炭化した神経束に吸い込まれていく。
視界が急速に狭まる。
世界から音が消え、ただ筆先が走る摩擦音と、マナがショートして爆ぜる微かな火花だけが認識される。幹線の再構築完了。所要時間、想定より十二秒速い。
間髪入れず筆を返す。余ったリソースをそのままサブシステムへ回す。視線を丹田へ。マナ貯蔵庫に走った微細な亀裂、そこから漏れ出すマナが周囲の組織を壊死させている。『聖女』が壊死部分をミリ単位で切除するのと同時に、俺はその断面にバイパス回路を書き殴る。亀裂には柔軟性のある銀粉パテを充填する。余剰分を削ぎ落とす。マナのリークチェック。オール・グリーン。さらに末端へ。
指先、足先、視神経へと伸びる無数の毛細回路。それら一つ一つが、断線し、あるいは焼き切れている。俺の筆は加速する。思考するよりも速く、脳味噌が判断を下すよりも先に、指先が正解を導き出していく。インクの粘度、筆の角度、マナの流速。全ての変数が奇跡的なバランスで噛み合い、死んだはずの肉体の中で、新たな論理回路が産声を上げる。
「縫合!」
俺が叫ぶと同時、最後の一筆が書き終わる。間髪入れず、『聖女』の六本の腕が残像と化し、切開された皮膚を恐るべき速度で縫い合わせていく。
「…………っ、は、」
俺は筆を放り出し、その場に崩れ落ちるようにして椅子に背を預けた。肺が熱い。額から流れ落ちた汗が目に入り、視界が滲む。
壁の時計を見上げる。
たったの四分。
にもかかわらず、濃密で泥のような疲労感が全身にのしかかっている。頭の中で、焼き切れたヒューズの臭いがするような気がする。
『聖女』がゆっくりと駆動を停止し、赤い瞳の光を落とす。こいつの稼働時間もギリギリだったか。
俺は荒い息を吐きながら、手術台の上に横たわる作品を見下ろす。縫合痕は既に馴染み始め、薄いピンク色の線になっているだけだ。そして何より、その肌の下。目には見えないが、俺にははっきりと分かる。
黒く重いインクによって再構築された強靭な回路の中を、マナが静かに、しかし力強く循環し始めているのが。
「……マジできつかったぞ、おい」
俺は乾いた唇を舐め、誰にともなく独りごちる。
簡単なオペ?
誰だそんなことを言った奴は。




