行きつけの画材屋
石畳の目地を埋める泥と汚水、それに混じる得体の知れない錬金廃液の刺激臭。俺の鼻腔をくすぐるのは、この王都特有の、カオスと生活感が煮込まれた甘ったるい腐臭だ。
雑踏は巨大な生き物の小腸のようにうねっている。
俺はその消化管の中を、異物として逆流していく。すれ違う肩、肩、肩。革鎧の擦れる音、安物の鉄が触れ合う金属音。街路灯のガラス球に封じ込められた光の粒子は狂ったように明滅している。ジー、ジジ、と羽虫が焼けるような断末魔。
あれがマナだ。
この世界を循環し、大気を満たし、時として人を殺す純粋な熱量。人間様が誇る「文明」とやらは、要するにこの気難しい猛獣を、幾何学という名の檻に閉じ込める技術の上に成り立っている。
すぐ脇を、荷を満載した自走荷車が通り過ぎていく。
荷車側面に備え付けられた浮遊ユニットの底面で、複雑怪奇な文様を描く刻印が熱赤色に輝いていた。内部に格納された結晶からマナが吸い込まれ、幾重にも重ねられた術式回路の中へと叩き込まれるのが肌でわかった。
衝突。反発。相殺。ミクロの領域で繰り返されるエネルギーの共食いと再構築。本来ならあり得ない物理現象を、無理やり現実にねじ込む暴力的なプロセス。
車体の装甲板が微振動し、足元の泥水が同心円状の波紋を描いて弾け飛ぶ。あの荷車一台動かすのに、どれだけの矛盾を世界に押し付けているのやら。
「人間こそがマナという混沌を飼い慣らし、文明という名の檻に閉じ込めた唯一の種族である」
王立アカデミーの偉そうな古狸たちは、講義で口を酸っぱくしてそう嘯く。
他の亜人種どもは、マナを本能で垂れ流すことはできても、こうして規格化されたパイプラインに押し込み、都市という巨大な臓器を動かすシステムまでは構築できなかったのだ、と。
それが人間の優位性なのだ、と。
だがまあ、こんな糞溜めみたいな路地裏で、排マナの残滓にまみれながら生きていると、その「文明」の恩恵ってやつも、随分と安っぽく感じられるもんだ。
頭上の今にもショートしそうな魔導灯や、継ぎ接ぎだらけの防壁を見上げてみろ。これを体系化と呼ぶのなら、俺の部屋の汚れた洗濯物の山だって立派な芸術作品だ。
道の向こう側では、首輪を嵌められたオークの奴隷たちが、重い建材を担いで隊列を組んでいた。一糸乱れぬその足並み、効率的に統率された重心移動。
皮肉な話だ。
文明を持たぬはずの彼らの方が、この腐りかけた王都の雑踏よりも、よっぽど理路整然とした組織に見えるのは、俺の目がマナ酔いでイカれているせいだけじゃないだろう。
オークの話が出たついでに言っておくと、この世にはクイックリングだのゴブリンだのといった連中も息をしている。とりわけ、話題の中心をさらうのはいつだって、あの気取った耳長族どもだ。
奴らは呼吸をするように奇跡を起こす。
俺たち人間が、脂汗を垂らしながら定規とコンパスで幾何学図形を描き、マナの流れをちまちまと誘導路に流し込んでようやく小さな火種を得る傍らで、エルフたちは指先ひとつで大気を爆縮させてみせる。
これを精霊の愛娘だとか呼ぶのは、詩人とロマンチストの悪い癖だ。
実態はもっとドライな話。
奴らの脳や体内には、生まれつき最適化された回路が埋め込まれているに過ぎない。人間が一から十まで論理合成しなきゃ動かせないマナの奔流を、奴らは感覚――本能という名のブラックボックス処理――で即座にアドリブ制御してしまう。
俺たちがマニュアル片手に配線をつなぐ横で、奴らは基板そのものをジャズの即興演奏みたいに書き換えているようなもんだ。アカデミーの講義室でそんなことを口走れば単位は消し飛ぶだろうが、当たらずとも遠からずだろう。
そんなスペック差を前にして、それでも人間様が世界の覇権を握ろうってんだから涙ぐましい。
懐から、一枚の薄汚れたカードを取り出す。
表面には、安物の銀インクで描かれた複雑怪奇な幾何学模様――『術式回路』。これが俺たちの杖であり、生命線であり、文明へのアクセス権だ。
この複雑な迷路を描き出し、マナの流れを制御して、狙った通りの奇跡をパッケージングする職人たち。世に言う『術式回路作家』様のお出ましだ。彼らは、カオスなマナの流れを論理の檻に閉じ込め、誰でも安全に火を灯し、水を湧き出させ、あるいは人を殺せるように製品化する。優れた作家の新作回路は、王都の一等地に建つ屋敷が買えるほどの利益を叩き出すという。
もっとも、その独創的な回路とやらの出自が常にクリーンだとは限らない。
業界の薄暗い酒場でまことしやかに囁かれる噂話がある。いま飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子作家某氏。奴の描く回路は、あまりにも人間離れしていると専らの評判だ。マナの干渉効率、変換ロス、そして現象発現までの美しいシークエンス。それは、泥臭い論理の積み上げというよりは、もっと直感的で、官能的ですらある。
噂によれば、奴は高名なエルフの魔術師のストーカーらしい。昼夜を問わずそのエルフを監視し、彼女が世界に干渉するその刹那、大気中に描かれる不可視のマナの波形を観測する。そして、その天才的な即興演奏を、そっくりそのまま幾何学言語に翻訳して売りさばいているのだとか。
本能が奏でる旋律を、楽譜に書き起こして量産品としてバラ撒く。それが文明の最先端を行く商売の正体だとしたら。ショーウィンドウのガラス越し、特売品の札が貼られた『簡易着火スクロール』の山を眺めながら、俺は鼻を鳴らす。ここに並んでいる安っぽい羊皮紙の何割が、誰かの才能の燃えカスを拾い集めて固めたリサイクル品なのか。
まあ、そうは言ってもだ。
この薄汚い羽虫の群れのような人間様にも強みはある。
一人の天才が放つ洗練された落雷よりも、一万人の凡人が一斉に放つ火種の方が、森を焼き払うには手っ取り早い。口伝に頼る秘儀なんてものは、術者が死ねばそれまでだ。だが、俺たちの技術は、インクと紙と、アカデミーの倉庫で埃を被っている膨大なライブラリに残る。
死なない記憶。共有される凡庸。
それこそが、人間がこの世界にしがみつき、のうのうと呼吸をしている最大の理由だろう。
……とまあ、人類の勝利の方程式について高尚な講釈を垂れるのはこの辺にしておこう。俺が今日、わざわざこんな高濃度の人熱に炙られに来たのは、人類の偉大さを再確認するためじゃない。
画材の買い出しだ。
たかがインク一瓶。されどインク一瓶。
これがなきゃ、俺の商売道具である『筆』は乾いた悲鳴を上げるだけで、何の役にも立たない。
おいおい、さっきあれだけ回路作家連中を因果な商売だの何だのと扱き下ろしておいて、結局お前も同業者かよ、と言いたげな顔をしているな?わかる。わかるが、それは誤解なんだ。
俺と奴らは、扱うハードウェアの質が決定的に違う。奴らが相手にするのは、木材だの金属だの、工場で規格化された無機質なマテリアルだ。そこには個体差なんて不確定要素は存在しない。A社の量産型ランプは、一万個作ろうが一万個すべて同じ導魔率、同じマナ耐性を持っている。だから奴らは、汎用回路を判子みたいにポンポン押していけばいい。
だが、俺たち『死体愛好家』のキャンバスはそうはいかない。有機生命体ってのは、どいつもこいつも設計がバラバラなオーダーメイド品だ。身長、体重、筋肉の付き方、骨密度、果ては生前の食生活による内臓脂肪の厚みに至るまで、全く同じ個体なんて存在しない。
ある犬コロの死骸で完璧に動作した駆動系回路が、隣の犬コロの死骸ではピクリとも動かないなんてことはザラにある。個体Aの坐骨神経の太さと、個体Bのそれでは、信号伝達のレイテンシがコンマ数秒ズレる。このコンマ数秒が、実戦では「噛み殺せるか」「逆に頭を噛み砕かれるか」の致命的な差になる。
だから俺たちは、現物合わせのフルスクラッチを強いられる。素材のスペックを指先で探り、肉体の物理構造を解析し、その個体に最適化された回路をアドリブで書き殴る。
予算がなければ、皮膚の上に直接、タトゥーのように導魔インクで回路を走らせるエコノミー仕様で済ませることもある。これなら安上がりだが、耐久性は紙切れ並みだ。
素材が頑強なオークなら、分厚い皮を剥いで筋肉の繊維そのものにインクを染み込ませる。天然のアクチュエータをそのまま流用して、馬鹿力と瞬発力を引き出す『生体配線』だ。
もっと金と手間をかけられるハイエンドな依頼なら、外科手術の領域だ。胸郭をこじ開け、心臓の代わりに増幅炉を埋め込み、肋骨の裏側にビッシリと防御術式を彫り込むびっくり箱仕様なんてのもある。
あるいは、素材が上玉――例えば、エルフの死体なんかだったりすると、アプローチは真逆になる。
下手に回路を書き加えるよりも、元々備わっている生体回路をクラッキングする方が、遥かに高いパフォーマンスを叩き出せる。俺たちがやるべきは、死によって途切れた回線を繋ぎ直し、奴らの才能を再起動させてやることだ。いわば、レストア作業がメインになる。まあ、その「ちょいとした作業」に必要な触媒が、目玉が飛び出るほど高価なのが玉に瑕だが。
そう、結局のところ、問題はそこに行き着く。
死体いじりってのは、お前らが思っているよりずっとクリエイティブで、べらぼうに金がかかる。
実現したい機能と、死体の相性。
その隙間を埋めるための特殊な触媒、防腐剤、そして何より、神経系に馴染む特殊なインク。ワンオフの回路を組むには、それぞれの肉体特性に合わせた特殊なインクを調合しなきゃならない。水銀ベースか、それとも竜の血を混ぜた特注品か。導魔率をケチれば死体は動かないし、かといって過剰スペックな素材を使えば、報酬なんて材料費で相殺されて、俺の晩飯は泥水スープになる。
その辺のバランスシートと睨めっこしながら、俺は路地裏の奥まった一角を目指す。
表通りの華やかな文具店には用はない。あんなところで売っているのは、せいぜい学生の練習用インクか、貴族が手紙を書くための香水入りインクくらいだ。
路地裏の最も陰湿な吹き溜まり。周囲の派手なネオンサインの光が届かない闇の底に、その店はひっそりと口を開けている。看板には『大鴉の嘴』とだけ彫られた、風化した真鍮のプレート。扉の隙間からは、鉄錆とホルマリン、それに焦げたハーブの入り混じった、俺にとっては安心感を覚える刺激臭が漏れ出していた。
ここが俺の行きつけの画材屋だ。




