第96話 きれいにするという正しさ
96話です。
翌朝、
スラムの通りは、いつもより静かだった。
だが、よく見ると――
違和感がある。
水溜まりが、いくつか消えている。
通り脇のゴミが、端に寄せられている。
腐りかけていた布切れが、縄でまとめられていた。
誰かが、掃除をした。
◇
井戸の前で、ミナが足を止めた。
「……誰か、片づけたんだね」
「そうだね」
先生は、それ以上言わない。
だが、ミナは気づいていた。
(昨日の授業のあとだ……)
◇
井戸の周りには、
数人の大人が立っていた。
誰かが言う。
「最近、腹壊す子が多いだろ」
「水のせいじゃないなら……」
「やっぱり、汚れじゃねぇか?」
別の誰かがうなずく。
「先生の話、当たってたな」
「水と一緒に、流れ込んでるんだろ」
声は小さい。
怒気もない。
ただ――
“納得した声”だった。
◇
先生は、輪に近づきもしない。
ただ、少し離れた場所で立ち止まり、
その様子を見ている。
リオが、低く言った。
「……これ、いいことだよな?」
「うん」
先生は、即答した。
「とてもいい」
◇
昼前には、
通りの数か所で同じ光景が見られた。
誰かが掃き、
誰かが水を流し、
誰かがそれを手伝う。
「そこ、もう少し寄せた方がいい」
「井戸の下は、空けとけよ」
指示は、柔らかい。
笑い声もある。
◇
だが――
午後になって、空気が変わった。
◇
倉庫の前で、
一人の女が立ち尽くしていた。
足元には、
洗い終えたばかりの布。
だが、彼女は動かない。
通りを掃いていた男が、声をかけた。
「……それ、そこに置くなよ」
女が戸惑う。
「え?」
「水が流れる」
「また汚れるだろ」
言い方は、乱暴ではない。
だが――
はっきりしていた。
「正しい置き方」が、
すでに決まっている。
◇
女は、慌てて布を持ち上げた。
「ご、ごめん……」
誰も責めない。
誰も怒らない。
それでも――
その場の空気が、少しだけ締まった。
◇
ミナは、胸がざわついた。
(……今の……
怒ってないのに……
なんか……怖かった……)
◇
夕方、
倉庫に集まった子どもたちの中で、
小さな声が聞こえた。
「ねぇ……」
「今日、掃除しなかった家……」
「ちょっと、見られてなかった?」
別の子が、首を振る。
「見てただけだよ」
「何も言ってなかったし」
「でも……」
言葉は続かなかった。
◇
先生は、その様子を黙って見ている。
そして、ようやく口を開いた。
「今日、街はとても良いことをした」
子どもたちが顔を上げる。
「病気を減らすかもしれない」
「水をきれいに保てるかもしれない」
「全部、正しい」
◇
一拍、置く。
「でも――」
先生は、床に小さな線を引いた。
「“正しいやり方”が一つに見え始めたとき、
それは“正しさ”じゃなくなる」
ミナが、息を呑む。
◇
「誰かが遅れたとき」
「誰かが知らなかったとき」
先生は続ける。
「その人は、
“間違っている人”になる」
「そして――」
視線を上げる。
「誰も責めなくても、
“見られる人”になる」
◇
リオが、ぼそっと言った。
「……昨日の話と、同じだな」
先生は、うなずく。
「問いが危険になる前に、
視線が変わる」
「善意が悪意になる前に、
空気が変わる」
◇
外では、
まだ誰かが掃いている。
音は、軽い。
だが、その音に、
“正しさ”が混じり始めていた。
◇
先生は、最後にこう言った。
「きれいにすることは、
街を守る」
「でも――
“きれいにしている人”だけが
正しいわけじゃない」
誰も反論しない。
◇
倉庫を出ると、
通りの端で、
朝の女が、また布を洗っていた。
今度は、
誰も声をかけない。
だが――
何人かが、
一瞬だけ、目を向けた。
◇
先生は、それを見て思う。
(小さな決まりは、
静かに人を縛る)
(そしてそれは――
別の場所では、
“当たり前”として
生きている)
空は、まだ明るい。
だが街には、
目に見えない線が、
一本、引かれ始めていた。
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