第95話 悪意と呼ばれる瞬間
95話です。
その日、
先生は授業を始めなかった。
倉庫に集まった人々は、
しばらく待ったが――
何も起きない。
チョークも持たない。
線も引かない。
ただ、そこに立っている。
◇
最初に違和感に気づいたのは、
子どもではなかった。
大人たちだ。
昨日までなら、
先生が黙っていても不安はなかった。
だが今日は違う。
(……何か、起きるのか?)
(なぜ始めない?)
(様子を見ているのか?)
視線が、先生に集まる。
その視線の数が、
昨日より明らかに多い。
◇
先生は、ようやく口を開いた。
「昨日の授業で、
一つだけ残した問いがある」
誰もが、息をひそめる。
「“道具は誰のものか”」
「覚えているね」
小さく、うなずきが広がる。
「今日は、その続きをやろう」
◇
先生は、静かに言った。
「問いが生まれたとき、
必ず次に来るものがある」
誰かが首をかしげる。
「それは――
“評価”だ」
空気が、ぴたりと止まった。
◇
「誰かが問いを出す」
「すると、必ず別の誰かが言う」
先生は、淡々と続ける。
「それは正しいか」
「それは間違っているか」
「それは危険か」
ミナは、胸がざわついた。
(……昨日の話……
もう、“危ない”って思われ始めてる……)
◇
先生は、ゆっくり視線を巡らせる。
「質問そのものに、
善も悪もない」
「でも――」
一拍、間を置く。
「“危険だ”と呼ばれた瞬間、
それは悪意になる」
誰かが、思わず声を出した。
「……でも、
本当に危ない質問もあるだろ?」
先生は、すぐにうなずく。
「あるよ」
否定しない。
「だからこそ、
今日の授業は難しい」
◇
先生は、床に小さな印を一つ描いた。
丸でも線でもない、
ただの点。
「この点を、
“善意”だとしよう」
誰も反論しない。
「この点が、
誰かの役に立つつもりで出されたとする」
先生は、点の周りに円を描く。
「でも――」
「周りにいる人が、
こう言い始めたらどうなる?」
声を少しだけ低くする。
「それを聞くと、
困る人がいる」
「それを考えると、
秩序が乱れる」
「それは、
余計な考えだ」
◇
円が、少しずつ歪んでいく。
先生は言う。
「善意は、
中身が変わらなくても――」
「“呼び方”が変わる」
ミナは、はっとした。
(……中身は同じなのに……
名前だけで……)
◇
「次の段階に行こう」
先生は、声を張らない。
「問いが“危険”と呼ばれると、
何が起きる?」
沈黙。
「誰かが止めに来る?」
「処罰される?」
「記録される?」
答えは、どれも正しい。
先生は、うなずく。
「でも、その前に起きることがある」
◇
先生は、自分の胸を軽く叩いた。
「人はまず、
“見る目”を変える」
誰かが、息を呑んだ。
「問いを出した人を、
少し距離を置いて見る」
「直接何も言わない」
「でも――
覚えておく」
◇
倉庫の外で、
誰かが足を止めた。
見回りではない。
街の人だ。
ただ、立ち止まり、
中を見ている。
先生は、視線を外さずに言った。
「これが、
“監視”の始まりだ」
◇
「制度じゃない」
「命令でもない」
「ただの――
“気にする視線”」
リオが、低く言った。
「……それ、
止められねぇな」
先生は、静かに答える。
「止めにくい」
「なぜなら――
善意から始まるから」
◇
「誰かを守りたい」
「街を混乱させたくない」
「問題が起きる前に防ぎたい」
先生は、一つずつ言葉を置く。
「全部、善意だ」
「でも、その善意が集まると――」
視線が交差する。
「“悪意を探す目”に変わる」
◇
ミナは、背中が冷えるのを感じた。
(……昨日の問い……
もう……
誰かに“見られてる”……)
◇
先生は、最後にこう言った。
「悪意と呼ばれる瞬間は、
大声で決まらない」
「血も流れない」
「ただ――」
一歩、後ろに下がる。
「“あの人の質問、
ちょっと危ないよね”」
その一言で、
世界は変わる。
◇
「だから、覚えていてほしい」
先生の声は、いつもより低い。
「善意と悪意の線は、
内容じゃない」
「“誰が決めたか”だ」
沈黙が、重く沈む。
◇
授業は、それで終わった。
誰も拍手しない。
誰も質問しない。
だが――
倉庫を出る人々の目は、
昨日より鋭くなっていた。
井戸を見る目。
桶を見る目。
そして――
人を見る目。
◇
先生は最後に、
誰にも聞こえないほど小さく言った。
「監視はね、
作られる前に、
“始まっている”」
その言葉を、
誰が聞いたのかは分からない。
ただ一つ確かなのは――
街に生まれた問いは、
もう“問いのまま”では
いられなくなった、ということだった。
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