第94話 道具の持ち主
94話です。
その日の授業は、
いつもより早く始まった。
集まった人数は多くない。
だが、減りもしなかった。
来る者は来る。
来ない者は来ない。
それだけの、穏やかな朝だった。
◇
先生は、倉庫の床に何も書かなかった。
チョークを持ってはいるが、
使わない。
代わりに、近くにあった桶をひとつ持ち上げた。
水汲みに使う、
どこにでもある桶だ。
「これは、誰のものだと思う?」
誰もすぐには答えない。
桶は特別なものじゃない。
だからこそ、判断が遅れる。
ミナが、慎重に言った。
「……持ってきた人?」
「そう考える人もいるね」
先生は否定しない。
別の子が言う。
「でも……井戸の近くに置いてあったから……
みんなの、じゃない?」
先生は、ゆっくりうなずく。
「それも、一つの考え方だ」
◇
先生は桶を置き、今度は柄杓を手に取った。
「じゃあ、これは?」
さらに沈黙。
「桶があっても、
柄杓がなければ水は汲みにくい」
「逆も同じだ」
先生は、二つを並べた。
「ここで質問だ」
視線が集まる。
「桶を使う権利と、
柄杓を使う権利は――
同じだと思う?」
空気が、わずかに揺れた。
◇
「……同じじゃない?」
「うーん……」
「柄杓の方が、先に壊れそう……」
答えはばらばらだ。
先生は、そのばらつきを止めない。
「面白いね」
「道具っていうのは、
使い方が似ていても、
“扱われ方”が違うことがある」
先生は、床に線を一本引いた。
「この線より向こうは、
“みんなが使っていい”」
「こっちは、
“使う人が決まっている”」
誰かが、はっとした顔をした。
◇
「決まりがあると、
道具は便利になる」
「でも――」
先生は、線の上に桶を置いた。
「決まりが増えると、
道具は“縛り”にもなる」
ミナは、胸の奥がざわつくのを感じた。
(……これ……
水の話じゃない……)
◇
先生は、問いを重ねる。
「じゃあ、こう考えてみよう」
「道具を“正しく使う”って、
どういうことだろう?」
誰かが答える。
「壊さないこと」
「長く使うこと」
「順番を守ること」
先生は、全部聞く。
否定しない。
「全部、正しい」
「でもね」
少し間を置く。
「それを“誰が決めるか”で、
意味は変わる」
◇
倉庫の外で、足音が止まった。
見回りだ。
中を覗くが、何も言わない。
ただ、聞いている。
先生は気づいているが、
話を止めない。
◇
「道具を使う人が決めるとき」
「道具を管理する人が決めるとき」
「使わない人が決めるとき」
先生は、指を折っていく。
「同じ“正しさ”でも、
中身は変わる」
リオが、ぽつりと言った。
「……使ってないやつに、
決められるの、嫌だな」
誰かが、小さく笑った。
だが、その笑いは長く続かない。
◇
先生は、静かに続ける。
「でもね」
「使っている人が、
必ずしも“自由”とは限らない」
全員が、先生を見る。
「道具を使うために、
決まりを守り続けるうちに――」
「いつの間にか、
“道具のために人が動く”こともある」
空気が、重くなる。
◇
先生は、最後にこう言った。
「今日は答えを出さない」
「ただ、覚えておいてほしい」
桶と柄杓を、元の場所に戻す。
「小さな決まりは、
その場では便利に見える」
「でも――」
視線が、静かに広がる。
「別の場所では、
当然の顔をして人を縛ることがある」
誰も声を出さなかった。
だが、
誰も聞き流さなかった。
◇
授業が終わり、人が散っていく。
倉庫の外では、
いつもと同じ井戸がある。
いつもと同じ水。
いつもと同じ桶。
けれど――
それを見る目は、少しだけ変わっていた。
ミナは、何も言わずに桶を見た。
その中に映る空は、
曇っているのに、どこか遠かった。
先生は、それ以上何も教えなかった。
だがその日、
街には一つの問いが残った。
道具は、誰のものか。
使う者は、どこまで自由か。
その問いは、
まだ形にならない。
けれど確かに、
街のどこかで息をしていた。
そして――
それと同じ問いが、
どこか別の場所でも、
すでに“決まり”として生きていることを。
誰も、まだ知らなかった。
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