第83話 数えないと見えないもの
83話です
朝。
井戸の前に、
小さな変化があった。
水桶を置く音が、
少しだけ少ない。
◇
「……あれ?
今日は、並んでないな」
誰かが言い、
誰かが首を傾げる。
◇
先生は、
その様子を遠くから見ていた。
何も言わない。
だが、
昨日まとめられた布包み――
あの小石の袋が、
まだそこにあることを確認する。
◇
ミナは気づいた。
(先生……
“残してる”……
片づけさせてない……)
◇
井戸のそばで、
子どもが一人、水を汲んでいた。
いつもより、
一往復で終わっている。
◇
リオが小さく言う。
「……今日は、
水、あんまり汲まねぇな」
先生は、
初めてそれに応じた。
「そう見える?」
「見える」
「“見える”だけ?」
リオは少し考える。
「……数えてねぇけど」
先生は頷いた。
◇
そのまま、
井戸の縁に腰を下ろす。
「じゃあ、
数えてみようか」
誰かが、
一瞬身構えた。
だが――
命令ではない。
◇
「今日は、
ここで水を汲んだ家が、
何軒かだけ」
「全部じゃなくていい。
“気づいた分”だけでいい」
◇
沈黙。
だが、
誰かが動く。
桶を置きながら、
指を折る。
「……うちは、一回」
別の声。
「……うちも、一回」
◇
ミナは、
胸の奥がざわつくのを感じた。
(……これ……
昨日と同じ……
でも……
違う……)
◇
昼前。
布包みの横に、
新しい石がいくつか置かれていた。
形も色も違う。
誰が置いたか、
誰も言わない。
◇
先生は、
それを並べ替えもしない。
ただ、
一つだけ聞いた。
「昨日より、
水を汲む回数は、
増えた?
減った?」
◇
答えは、
すぐに出なかった。
だが、
誰かが言う。
「……減った、と思う」
別の人。
「……うち、
今日は腹、平気だ」
◇
先生は、
評価しない。
肯定もしない。
「じゃあ、
次はこれを見てみよう」
◇
先生は、
通りの端に残った
小さな焚き跡を指した。
「昨日、
ここで何をした?」
「……残飯、燃やした……」
「いつも?」
「……いや……
昨日だけ……」
◇
先生は頷く。
「じゃあ、
今日は匂い、どう?」
誰かが鼻を動かす。
「……あんまり……」
◇
沈黙。
だが、
その沈黙は重くない。
“つながりを探す沈黙”。
◇
ミナは、
はっきりと分かった。
(……先生……
教えてない……
“結論”を……)
◇
先生は立ち上がり、
静かに言った。
「水も、
ゴミも、
体調も――」
「一つだけ見ても、
分からない」
◇
小石を、
そっと指で押す。
「でも、
並べると、
“傾き”が見える」
◇
子どもが、
ぽつりと聞いた。
「……じゃあ……
ごはんは……?」
その場の空気が、
一瞬だけ止まる。
◇
先生は、
すぐに答えなかった。
代わりに、
こう言った。
「いい質問だ」
◇
「でも、
今日は答えない」
ざわり。
◇
「ただ、
明日――」
「“何を食べた日”と、
“元気だった日”を、
思い出してみて」
◇
ミナは、
息を呑んだ。
(……次……
食べ物……
給食……?)
◇
夕方。
通りで、
自然とこんな会話が聞こえた。
「昨日、
粥だったよな……」
「今日は、
芋、少なかった……」
◇
誰も、
「正解」を言わない。
だが、
話題が消えない。
◇
夜。
先生は、
布包みを手に取らなかった。
ただ、
その横に置かれた
新しい石を見ていた。
◇
ミナが、
そっと尋ねる。
「先生……
これ……
授業……だよね……?」
先生は、
小さく頷いた。
「うん」
「でも……
誰も“勉強してる”って、
思ってない……」
「それでいい」
◇
先生は、
街の灯りを見ながら言った。
「学びはね、
生活に溶けた瞬間、
一番強くなる」
◇
遠くで、
鐘が鳴る。
今日は、
少しだけ短い音だった。
街は、
まだ何も決めていない。
だが――
“数えないと見えないもの”があることだけは、
確かに知ってしまった。
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