第82話 汚れは数字になる
82話です。
朝。
通りの空気が、
昨日よりわずかに軽かった。
誰かがそう口にすることはない。
だが、
鼻をしかめる回数が減っている。
それだけで、
違いは確かだった。
◇
井戸のそばで、
一人の女が立ち止まっていた。
「……あれ?」
水桶を覗き込み、
首を傾げる。
「今日は……
あんまり濁ってない……?」
◇
その様子を、
先生は少し離れた場所から見ていた。
何も言わない。
だが、
足元にあった小石を拾い、
地面に並べる。
三つ。
◇
ミナが気づく。
「……先生?」
先生は、井戸を指した。
「昨日、
お腹を壊した子は、
何人だった?」
ミナは一瞬考える。
「……四人……だったと思う」
先生は、
小石を四つ並べた。
◇
次に、通りを指す。
「今日は?」
ミナは、
周囲を見回す。
母親たち。
子どもたち。
「……今のところ……
二人……?」
先生は、
小石を二つに減らす。
◇
誰かが、
その動きに気づいた。
「……減ってる?」
◇
先生は、
初めて皆の方を見た。
「これは、
“気のせい”じゃない」
ざわり、と空気が揺れる。
◇
「匂いが減った」
「気分がいい」
「なんとなく楽」
それらは、
嘘ではない。
だが――
確かめられない。
◇
先生は、
小石を指差した。
「でも、
数は、嘘をつかない」
◇
沈黙。
だが、
昨日までの沈黙とは違う。
“聞いている沈黙”。
◇
先生は続ける。
「昨日、
掃除をした通りは、
何本あった?」
誰かが答える。
「……三本……?」
先生は、
線を三つ引く。
◇
「その三本の通りで、
今日は何人が休んでいる?」
しばしの沈黙。
一人が言う。
「……一人……」
別の声。
「……うちの子は来てる……」
◇
先生は頷く。
「じゃあ、
掃除していない通りは?」
空気が、少し重くなる。
「……三人……」
「四人……」
◇
先生は、
何も評価しない。
ただ、
地面に並んだ石と線を、
皆に見せた。
◇
「これは、
“答え”じゃない」
「でも、
“考える材料”にはなる」
◇
ミナは、
喉の奥がひりつくのを感じた。
(……これ……
責めてない……
でも……
目を逸らせない……)
◇
先生は、
声を低くして言った。
「掃除をしろ、とは言わない」
ざわつき。
「でも、
“何が起きたか”は、
一緒に見よう」
◇
子どもが、
ぽつりと言う。
「……じゃあ……
明日も……数える?」
先生は、
少しだけ笑った。
「数えるかどうかは、
君たちが決める」
◇
その言葉に、
誰かが小さく息を吐いた。
◇
昼。
通りの端で、
自然と声が交わされ始めた。
「今日は……
うち、平気だった」
「昨日、
あっち掃除してたよな……」
◇
誰も、
“正しい”とは言わない。
だが、
同じ話題が、
何度も繰り返される。
◇
リオが、
先生の横で言った。
「……これ……
誰も命令してねぇのに……」
先生は、
通りを見たまま答える。
「数字は、
命令より静かだからね」
◇
夕方。
小石は、
一つの布の上にまとめられていた。
誰が集めたわけでもない。
ただ、
邪魔にならない場所に、
置かれている。
◇
ミナは、それを見て思った。
(……数が……
“自分たちのもの”になってる……)
◇
夜。
鐘が鳴る。
その音を聞きながら、
街の誰かが、
こう呟いた。
「……明日……
うちの通りも……」
誰に向けた言葉でもない。
だが――
それで十分だった。
街は今、
汚れを“罰”としてではなく、
“変化として数える”ことを覚え始めている。
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