第80話 手は口より先に動く
80話です。
朝、井戸の周りに――
小さな違和感が生まれていた。
誰かが、
水を汲む前に、
手を見ている。
昨日まで、
そんな仕草はなかった。
ミナは、少し離れた場所からそれに気づいた。
(……見てる……
水じゃなくて……
自分の手……)
◇
先生は、何も言わない。
声をかけない。
指示もしない。
ただ、
井戸のそばに置かれた木桶の横に、
静かに腰を下ろしていた。
◇
最初に動いたのは、
年配の女だった。
桶に手を入れ、
一度、引っ込める。
布で、指を拭く。
そして――
もう一度、水に触れた。
その一連の動きは、
誰に教わったわけでもない。
けれど、
昨日見た“溝の水”を思い出させるには十分だった。
◇
別の女が、それを見ていた。
何も言わない。
ただ、
同じように、
指先を布で拭いた。
◇
言葉は交わされない。
だが、
動きが――
移っていく。
◇
リオが、低く呟いた。
「……これ……
広がるの、早くねぇか……」
先生は答えない。
代わりに、
地面に、また小さな図を描いた。
円が一つ。
その周りに、点。
「これは、人」
さらに、
円と円を線でつなぐ。
「これは、触る」
◇
ミナは、息を呑んだ。
(……手……
手で……
全部……つながってる……)
◇
先生は、ゆっくり言う。
「病気はね」
「水だけじゃない」
「空気だけでもない」
「一番多いのは――
“手”だ」
◇
誰かが、思わず口を開いた。
「……でも……
見えねぇ……」
先生は、頷く。
「見えない」
「だから、
気づくのが遅れる」
◇
先生は、桶の水を少し汲み、
地面に落とす。
そこに、
灰をひとつまみ、落とした。
水は、
すぐに濁った。
◇
「灰は、見える」
「でも――
灰より小さいものは?」
沈黙。
◇
先生は、灰のついた指を見せる。
「これが、手についたら」
布で拭く。
少し残る。
水で流す。
消える。
◇
「拭くだけだと、残る」
「水を使うと、減る」
「それだけの話だ」
◇
リオが、首を傾げる。
「……石鹸は……?」
先生は、少しだけ笑った。
「いい質問だ」
◇
先生は、街の外れにある、
脂を扱う小屋の方を見る。
「脂と灰は、仲が悪い」
「だから、
一緒に使うと――
よく落ちる」
◇
誰かが、声を漏らす。
「……そんな……
当たり前のこと……」
◇
先生は、首を振る。
「当たり前は、
“教わらないと気づけない”」
◇
その日の昼。
井戸のそばに、
小さな変化が生まれた。
誰かが、
使い古しの皿を置いた。
その横に、
灰を少し。
さらに、
水桶。
◇
誰が決めたわけでもない。
けれど、
そこに“場所”ができた。
◇
ミナは、その光景を見て、
胸が熱くなった。
(……先生……
命令してない……
でも……
街が……
勝手に……
動いてる……)
◇
午後。
子どもが、
転んで泣いた。
膝を擦りむいた。
母親は、
一瞬、迷ったあと――
井戸の横へ行った。
手を洗う。
灰を使う。
それから、
子どもの膝に触れた。
◇
その様子を、
別の母親が見ていた。
何も言わない。
だが、
同じことをする。
◇
先生は、遠くからそれを見ていた。
何も言わない。
ただ、
深く息を吸う。
◇
そのとき、
教団の見回りが通りかかった。
井戸のそばの“灰の皿”に気づき、
眉をひそめる。
「……何をしている」
誰も答えない。
だが――
誰も、片づけない。
◇
見回りは、
少しだけ、躊躇った。
命令ではない。
祈りでもない。
ただの――
生活の動き。
◇
見回りは、
何も言わずに去った。
◇
夕方。
先生は、
ミナとリオにだけ、静かに言った。
「今日は、成功だ」
ミナは、目を見開く。
「……え……?」
「病気が減ったわけじゃない」
「でも――
“減らせる”って知った」
◇
リオが、息を吐く。
「……声、出してねぇのに……
街、変わってきてるな……」
先生は、頷く。
「声は、最後でいい」
「まずは――
“手が動く”」
◇
夜。
街の灯が、ひとつ、またひとつと消えていく。
井戸のそばには、
灰の皿が残っていた。
誰も守っていない。
誰も命じていない。
それでも――
そこにある。
◇
ミナは、布団に入りながら思った。
(……明日……
何が変わるんだろう……)
その問いが、
もう“恐怖”ではなくなっていることに、
彼女は気づいていなかった。
街は今、
静かに、確実に――
“生き方”を学び始めていた。
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誤字脱字はお許しください。




