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『チョーク一つで世界を変える〜異世界教育改革〜』  作者: くろめがね


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80/105

第80話 手は口より先に動く

80話です。

朝、井戸の周りに――

小さな違和感が生まれていた。


誰かが、

水を汲む前に、

手を見ている。


昨日まで、

そんな仕草はなかった。


ミナは、少し離れた場所からそれに気づいた。


(……見てる……

 水じゃなくて……

 自分の手……)



先生は、何も言わない。


声をかけない。

指示もしない。


ただ、

井戸のそばに置かれた木桶の横に、

静かに腰を下ろしていた。



最初に動いたのは、

年配の女だった。


桶に手を入れ、

一度、引っ込める。


布で、指を拭く。


そして――

もう一度、水に触れた。


その一連の動きは、

誰に教わったわけでもない。


けれど、

昨日見た“溝の水”を思い出させるには十分だった。



別の女が、それを見ていた。


何も言わない。


ただ、

同じように、

指先を布で拭いた。



言葉は交わされない。


だが、

動きが――

移っていく。



リオが、低く呟いた。


「……これ……

 広がるの、早くねぇか……」


先生は答えない。


代わりに、

地面に、また小さな図を描いた。


円が一つ。

その周りに、点。


「これは、人」


さらに、

円と円を線でつなぐ。


「これは、触る」



ミナは、息を呑んだ。


(……手……

 手で……

 全部……つながってる……)



先生は、ゆっくり言う。


「病気はね」


「水だけじゃない」


「空気だけでもない」


「一番多いのは――

 “手”だ」



誰かが、思わず口を開いた。


「……でも……

 見えねぇ……」


先生は、頷く。


「見えない」


「だから、

 気づくのが遅れる」



先生は、桶の水を少し汲み、

地面に落とす。


そこに、

灰をひとつまみ、落とした。


水は、

すぐに濁った。



「灰は、見える」


「でも――

 灰より小さいものは?」


沈黙。



先生は、灰のついた指を見せる。


「これが、手についたら」


布で拭く。


少し残る。


水で流す。


消える。



「拭くだけだと、残る」


「水を使うと、減る」


「それだけの話だ」



リオが、首を傾げる。


「……石鹸は……?」


先生は、少しだけ笑った。


「いい質問だ」



先生は、街の外れにある、

脂を扱う小屋の方を見る。


「脂と灰は、仲が悪い」


「だから、

 一緒に使うと――

 よく落ちる」



誰かが、声を漏らす。


「……そんな……

 当たり前のこと……」



先生は、首を振る。


「当たり前は、

 “教わらないと気づけない”」



その日の昼。


井戸のそばに、

小さな変化が生まれた。


誰かが、

使い古しの皿を置いた。


その横に、

灰を少し。


さらに、

水桶。



誰が決めたわけでもない。


けれど、

そこに“場所”ができた。



ミナは、その光景を見て、

胸が熱くなった。


(……先生……

 命令してない……

 でも……

 街が……

 勝手に……

 動いてる……)



午後。


子どもが、

転んで泣いた。


膝を擦りむいた。


母親は、

一瞬、迷ったあと――

井戸の横へ行った。


手を洗う。


灰を使う。


それから、

子どもの膝に触れた。



その様子を、

別の母親が見ていた。


何も言わない。


だが、

同じことをする。



先生は、遠くからそれを見ていた。


何も言わない。


ただ、

深く息を吸う。



そのとき、

教団の見回りが通りかかった。


井戸のそばの“灰の皿”に気づき、

眉をひそめる。


「……何をしている」


誰も答えない。


だが――

誰も、片づけない。



見回りは、

少しだけ、躊躇った。


命令ではない。

祈りでもない。


ただの――

生活の動き。



見回りは、

何も言わずに去った。



夕方。


先生は、

ミナとリオにだけ、静かに言った。


「今日は、成功だ」


ミナは、目を見開く。


「……え……?」


「病気が減ったわけじゃない」


「でも――

 “減らせる”って知った」



リオが、息を吐く。


「……声、出してねぇのに……

 街、変わってきてるな……」


先生は、頷く。


「声は、最後でいい」


「まずは――

 “手が動く”」



夜。


街の灯が、ひとつ、またひとつと消えていく。


井戸のそばには、

灰の皿が残っていた。


誰も守っていない。


誰も命じていない。


それでも――

そこにある。



ミナは、布団に入りながら思った。


(……明日……

 何が変わるんだろう……)


その問いが、

もう“恐怖”ではなくなっていることに、

彼女は気づいていなかった。


街は今、

静かに、確実に――

“生き方”を学び始めていた。


───────

誤字脱字はお許しください。

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