第79話 水は上から下へ行く
79話
朝、井戸の周りに人が集まっていた。
誰かが呼びかけたわけでもない。
けれど昨日、器の底に残った沈殿を見た人たちは、
無意識に“水の行方”を気にしていた。
ミナは、少し離れたところから様子を見ていた。
(……みんな……
井戸を見てる……)
井戸は昨日と何も変わらない。
石組みも、滑車も、桶も同じだ。
それなのに、
今日は“安心して見られない”空気があった。
◇
先生は、まだ何も言わない。
街の外れ――
ゴミ捨て場へ向かって歩き始める。
何人かが、自然と後に続いた。
リオも、黙って歩く。
◇
ゴミ捨て場は、低い場所にあった。
街の中でも、
雨が降ると水が集まる場所。
壊れた木箱、腐った布、
魚の骨、割れた陶器。
そこに、昨日の雨でできた水たまりが残っている。
先生は、その水たまりの縁にしゃがみ込んだ。
「昨日の雨で、
この水はどこから来たと思う?」
誰も答えない。
先生は続ける。
「空から落ちた水だけかな」
ミナは、はっとした。
(……流れてきた……?)
◇
先生は、ゆっくり立ち上がり、
地面に線を引く。
街の中心から、
このゴミ捨て場へ。
「水は、上から下へ流れる」
「これは、誰が決めたわけでもない」
「ただ、そうなる」
◇
人々の視線が、
自然と“上”――街の方へ向く。
井戸。
家々。
路地。
そして、
井戸のすぐ近くにある、
いくつかの古い家。
◇
誰かが、声を潜めて言った。
「……うちの裏……
雨が降ると、
ここに流れてる……」
別の声。
「うちもだ……」
言葉は小さい。
だが、連なり始めていた。
◇
先生は、それを遮らない。
ただ、静かに言う。
「じゃあ、考えよう」
「飲む水と、
捨てるものが、
同じ流れにあると――」
言葉を切る。
誰かが、続きを口にする。
「……混ざる」
◇
その瞬間、
空気が一段、冷えた。
混ざる。
それは、
昨日まで“考えなくていい言葉”だった。
◇
ミナは、喉が鳴るのを感じた。
(……水……
きれいなものだって……
信じてた……)
◇
先生は、すぐに続けない。
代わりに、
ゴミ捨て場から少し離れた場所へ移動する。
そこは、
子どもたちがよく遊ぶ空き地だった。
先生は、石を一つ拾い、
地面に小さな溝を掘る。
ほんの指一本分。
そこに、水を少し流す。
水は、溝に沿って流れた。
◇
先生は言う。
「水は、道を選ばない」
「道があれば、
そこを通る」
◇
リオが、低く言った。
「……じゃあ……
道を……変えりゃいい……?」
先生は、初めてリオを見る。
「そうだ」
「止める必要はない」
「流れを、分ける」
◇
先生は、地面に二本目の溝を掘った。
一つは、井戸の方向へ行かないように。
もう一つは、ゴミ捨て場へ集まるように。
水を流す。
水は、迷わず二つに分かれた。
◇
誰かが、息を呑んだ。
「……こんな……
簡単な……」
◇
先生は首を振る。
「簡単じゃない」
「“気づかない”ことが、
一番難しい」
◇
ミナは、胸の奥がざわついた。
(……先生……
怒らない……
責めない……
でも……
逃がさない……)
◇
先生は、街の方を振り返る。
「今日は、
何も壊さない」
「井戸も、
家も、
ゴミ捨て場も」
「ただ――
“線を引く”」
◇
「飲む水の線」
「捨てるものの線」
「人が通る線」
◇
言葉が、
ゆっくり街に染みていく。
誰も反論しない。
なぜなら、
それは“新しいルール”ではなく、
“見えていなかった現実”だったからだ。
◇
そのとき。
遠くで、桶が倒れる音がした。
誰かが、井戸の近くで足を滑らせたらしい。
一瞬、
皆が身構える。
だが、
水は――
溝に沿って、
別の方向へ流れていった。
◇
誰かが、
小さく笑った。
それは、
恐怖のない笑いだった。
◇
先生は、最後に言った。
「明日は、
“手”の話をしよう」
「水の前に、
人ができることがある」
ミナは、その言葉を噛みしめた。
(……手……)
(……洗う……?)
街はまだ、
声を上げていない。
だが――
流れは、確実に変わり始めていた。
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