第77話 誰が掃除をするのか
77話です。
朝。
倉庫の前の地面は、
昨日より少しだけきれいだった。
誰かが言い出したわけではない。
誰かに命じられたわけでもない。
ただ、
落ちていた皮袋の切れ端がなくなり、
鍋の周りの灰がまとめられていただけだ。
ミナは、それに気づいて足を止めた。
(……昨日より……
歩きやすい……)
◇
全員が集まると、
先生は影時計を一度見てから言った。
「今日は、食べる前に一つだけ」
その声は穏やかだったが、
誰も軽くは受け取らなかった。
「この場所、
昨日と比べてどうかな」
人々は、足元を見る。
鍋。
木箱。
地面。
誰かが、ぽつりと言った。
「……きれいだな」
「誰か、掃いたのか?」
視線が行き交う。
だが、
名乗る者はいなかった。
◇
先生は、
すぐには答えない。
代わりに、
地面に三つの円を描いた。
「質問だ」
「この場所が汚れるのは、
いつだと思う?」
沈黙。
「食べたあと」
「人が多いとき」
「風が強い日」
ぽつぽつと声が出る。
先生は頷いた。
「じゃあ逆に、
きれいになるのはいつ?」
沈黙が戻る。
◇
リオが首をひねる。
「……誰かがやった時?」
先生は、
それ以上言わなかった。
ただ、
三つの円の横に言葉を書いた。
汚れる理由
きれいになる理由
その二つの間に、
一本の線を引く。
◇
「街はね」
先生はゆっくり言った。
「汚れる理由は、
いつもはっきりしている」
「でも、
きれいになる理由は、
曖昧なままにされやすい」
ミナは、
鍋の縁についた煤を見つめた。
(……確かに……
誰がやったかなんて……
気にしたことなかった……)
◇
先生は続ける。
「だから質問を変える」
「“誰が掃除したか”じゃない」
「“誰が掃除することになっているか”だ」
空気が、
ぴんと張った。
◇
誰かが言った。
「……決まってない」
別の者が言う。
「気づいた人がやるもんだろ」
先生は、
その二つの言葉を聞き、
静かに頷いた。
「それが一番多い形だね」
「でも――」
そこで、
ほんの少し声を低くする。
「その形だと、
どうなると思う?」
◇
沈黙。
先生は、
一人ひとりを見る。
責める目ではない。
探る目でもない。
ただ、
考えさせる目だった。
◇
ミナの中で、
小さな引っかかりが生まれる。
(……気づいた人……
って……
いつも同じ人じゃ……)
リオも、
腕を組んだまま黙っている。
◇
先生は、
地面に新しく円を描き、
その中に点を打った。
「気づく人」
その横に、
もう一つ点を打つ。
「気づかない人」
「どちらが悪い?」
誰も答えない。
「どちらも悪くない」
先生は即答した。
「問題は――
“役割が決まっていない”ことだ」
◇
その言葉で、
何人かが小さく息を吸った。
先生は、
次の線を引く。
当番
「これはね」
「誰かを縛るためのものじゃない」
「“やらなくていい時間”を
全員に作るための仕組みだ」
◇
ミナは、
胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
(……やらなきゃ……
って思うより……
今日は違う、って分かる方が……
楽……)
◇
先生は続ける。
「掃除は、
きれいにする行為じゃない」
「“誰の仕事か分からない不安”を
片づける行為だ」
誰かが、
小さく笑った。
◇
その日、
名前を書いた板が一枚置かれた。
線を引き、
簡単な印をつけるだけ。
今日。
明日。
明後日。
細かくは決めない。
先生は言った。
「完璧にやらなくていい」
「サボってもいい」
「ただ――
“今日は誰の番か”だけ分かればいい」
◇
翌日。
掃除は、
驚くほど静かに進んだ。
命令もない。
叱責もない。
当番の者が、
淡々と動く。
それを見た者は、
邪魔をしない。
◇
ミナは、
箒を持つ人の背中を見ながら思った。
(……掃除してるのに……
怒ってない……)
◇
先生は、
影時計を見て言った。
「次は――
水だ」
リオが顔を上げる。
「……水?」
先生は頷く。
「汚れは目に見える」
「でも、
水は見えにくい」
「だから次は――
“見えないものを扱う授業”だ」
倉庫の外で、
井戸の桶が軋む音がした。
街は、
また一つ、
自分で回り始めていた。
誤字脱字はお許しください。




