第75話 決めないと腐るもの
75話です。
朝。
倉庫の奥から、
微妙な匂いがした。
魚でもない。
腐敗とも違う。
――酸っぱい。
ミナが鼻をひくつかせる。
「……これ、なに……?」
「昨日の煮込みだろ」
リオが言った。
前日の夕方、
余った野菜と魚で作った鍋。
量が多く、
食べきれなかった。
誰も捨てなかった。
誰も決めなかった。
だから――
そのまま置かれていた。
◇
鍋の中身は、
見た目ではまだ食べられそうだった。
だが、
表面に薄く膜が張っている。
先生は、
蓋を開け、
すぐ閉じた。
「今日は、これを食べない」
即断だった。
ミナが驚く。
「えっ……?
でも、もったいない……」
何人かの大人も頷く。
「火も通してあるし……」
「腹を壊すほどじゃ……」
先生は、
反論しなかった。
代わりに聞いた。
「昨日、
何人分作った?」
沈黙。
「……多めに……」
「“多め”って、
どれくらい?」
誰も答えられない。
◇
先生は、
地面に数字を書いた。
20
「昨日、集まった人数」
次に書く。
28
「作った量」
最後に引く。
8
「余り」
ミナは目を見開いた。
(……数にすると……
はっきりする……)
先生は続ける。
「質問だ。
この“8”は、失敗かな?」
即答はない。
「もったいない」
「足りないよりマシ」
声が割れる。
先生は、
うなずいた。
「どれも、正しい」
そして、
こう付け足した。
「でも――
“決めていなかった”」
◇
先生は、
鍋を指さした。
「昨日、
“余ったらどうするか”を
誰か決めた?」
誰も答えない。
「保存する?」
「分ける?」
「捨てる?」
「どれでもよかった。
でも――」
先生は静かに言った。
「何も決めなかった」
「だから今、
“食べられるかどうか”で
揉めてる」
ミナの背中に、
冷たいものが走る。
(……昨日の汚れと……
同じ……)
◇
リオが言った。
「じゃあさ、
決めりゃいいじゃん」
先生は、
すぐ頷かなかった。
「“決める”前に、
一つだけ見てほしい」
そう言って、
昨日の人数と、
過去数日の集まりを並べた。
18 / 21 / 19 / 20
「人数は、
毎日違う」
「でも、
大きくは変わらない」
ミナは気づく。
(……だいたい……
20前後……)
先生は続ける。
「これを、
“感覚”で作ると、
毎回余るか、
足りなくなる」
「でも――」
数字を丸で囲む。
「“数として見る”と、
予測できる」
◇
先生は、
ここで初めて提案した。
「次から、
こうしよう」
「作る量は、
昨日の人数を基準にする」
「余ったら、
その日のうちに分ける」
「次の日に持ち越さない」
ミナが聞く。
「……捨てないの?」
「捨てない。
でも、残さない」
リオが苦笑する。
「めんどくせぇな……」
先生は、
はっきり言った。
「“めんどくさい”っていうのは、
考えてる証拠だ」
◇
その日の夕方。
新しい鍋は、
ほぼ空になった。
余りは、
二人分だけ。
すぐ分けられ、
持ち帰られた。
誰も文句を言わない。
誰も指示していない。
ただ、
“決まっていた”。
◇
夜。
ミナは、
鍋を洗いながら思った。
(……決めただけなのに……
揉めなかった……)
先生は、
それを見て言った。
「ルールってね」
「人を縛るために作るんじゃない」
「“迷わないため”に作る」
リオが、
火を見つめながら言う。
「……今日、
誰も怒鳴ってねぇな」
先生は微笑んだ。
「怒鳴るのは、
“どうしていいか分からない時”だ」
◇
鍋は空。
床はきれい。
匂いは消えた。
街は今日も、
声を上げていない。
だが――
確実に、
“決断する力”を
一つ身につけていた。
次に腐るのは、
食べ物じゃない。
“時間”だ。
それをどう使うかを、
街はまだ知らない。
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誤字脱字はお許しください。




