第74話 掃くという決断
74話です。
翌朝。
井戸の周りは、
一見すると昨日と変わらなかった。
鍋は使われ、
水も回っている。
だが――
地面だけが、少し汚れていた。
魚の内臓。
濡れた布の切れ端。
踏み固められた泥。
誰も捨てた覚えがない。
だが、確実に増えている。
ミナは足元を見て、
眉をひそめた。
「……昨日より、汚れてない?」
隣にいた女が、
曖昧に笑う。
「……まあ、みんな使ってるしね」
その言い方が、
妙に引っかかった。
(“みんな”……)
◇
昼前。
子どもが一人、
転んだ。
手をついた場所は、
濡れた泥。
泣き声が上がる。
母親が駆け寄り、
抱き起こす。
「もう……気をつけなさい!」
だが、
地面はそのままだった。
誰も、
掃こうとしない。
◇
倉庫。
先生は、
何も言わずに
その話を聞いた。
そして、
チョークを手に取る。
床に、
四角を描く。
「これは、井戸の周り」
四角の中に、
小さな黒点をいくつも打つ。
「これは、汚れ」
ミナが小さく息を吸う。
「……増えてる……」
「うん」
先生は淡々と答える。
「汚れはね、
“放っておくと増える”」
「しかも――」
チョークを止める。
「誰のものでもない顔をして」
リオが、
嫌そうに言った。
「……一番タチ悪いな、それ」
◇
先生は、
子どもたちではなく、
大人たちの方を見た。
「ここで質問だ」
空気が張りつめる。
「この汚れは、
誰の責任だと思う?」
沈黙。
誰も答えない。
否定も、
肯定もない。
ただ、
逃げ場を探す沈黙。
先生は続ける。
「一人が捨てたわけじゃない」
「でも、誰も掃いていない」
「この状態を――
“自然”だと思う?」
ミナは、
喉がきゅっと締まった。
(自然じゃない……
でも……
誰が悪いって言えない……)
◇
夕方。
井戸の周りで、
小さな口論が起きた。
「昨日、あんたのとこ魚捌いてただろ」
「だからって、うちだけの汚れじゃない」
声は低い。
だが、
確実に尖っている。
誰も掃かない。
だが、
誰も汚れから目を逸らせない。
◇
先生は、
その様子を遠くから見ていた。
止めない。
代わりに、
ミナに小さく言う。
「今、何が起きてると思う?」
ミナは考える。
「……責任の……押し付け合い……?」
「半分正解」
先生は言った。
「もう半分は――
“誰も決断してない”」
リオが顔をしかめる。
「掃けばいいだけだろ」
先生は、
静かに首を振る。
「“掃く”っていうのはね」
一拍。
「“この汚れは、放っておけない”って
宣言することなんだ」
ミナの背筋がぞくりとした。
(……宣言……)
◇
夜。
倉庫で。
先生は、
またも文字を書かない。
代わりに、
線を二本引く。
一本は短く。
一本は長く。
「短い線は、今日」
「長い線は、明日」
「汚れは、
今日より明日の方が増える」
「でも――」
線の間に、
小さな点を打つ。
「掃くかどうかを決めるのは、
“今”しかない」
リオが腕を組む。
「じゃあ……
当番、作るか?」
先生は、
即答しなかった。
「当番は、
“やらない理由”を作る」
ミナが気づく。
(……当番じゃない日は……
“自分の仕事じゃない”って言える……)
先生は続ける。
「今日は、
掃く人を決めない」
「代わりに――」
視線を上げる。
「“掃かないことの結果”だけを、
みんなで見る」
◇
翌朝。
井戸の周りは、
さらに汚れていた。
子どもが、
また転ぶ。
今度は、
誰も怒らなかった。
ただ、
周囲が静かになる。
視線が、
地面に集まる。
◇
その沈黙の中で。
一人の男が、
箒を持って立った。
何も言わない。
ただ、
掃き始める。
誰も褒めない。
誰も命じない。
少し遅れて、
別の女が加わる。
さらに、
もう一人。
音は小さい。
だが、
確かに動き始めていた。
◇
ミナは、
その光景を見て思った。
(……決めてないのに……
始まってる……)
◇
夜。
先生は、
いつものように言った。
「今日は、ここまで」
誰も異論を挟まない。
リオが、
ぽつりと聞く。
「先生……
これも、
いつか決めなきゃなんねぇよな」
先生は、
火の方を見たまま答えた。
「うん」
「でも――」
一拍。
「“決めなくても困る”を
体験してからじゃないと、
“決めたルール”は守られない」
リオは、
何も言えなかった。
◇
汚れは、
放っておくと増える。
だが、
掃くかどうかは――
人が決める。
命令でも、
罰でもない。
“ここは放っておけない”
という、
小さな決断。
街は今日も、
声を出さずに学んでいた。
次に必要なのは――
「決める理由」だ。
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誤字脱字はお許しください。




