第73話 誰が火を見るのか
73話です。
翌朝。
井戸のそばに置かれた鍋は、
きれいに洗われていた。
だが――
火は、ついていなかった。
ミナは首をかしげる。
「……今日は、煮ないの?」
近くにいた女が、
気まずそうに視線を逸らした。
「……薪がさ。
誰の分を使うか、
決まってなくて……」
ミナは胸の奥が、
すっと冷えるのを感じた。
(……来た……
“みんなのため”が、
“誰の責任か”になる瞬間……)
◇
倉庫。
先生は、
何も聞かずに頷いた。
そして、
床に円を描く。
円の外に、
小さな点を一つ。
「これは、火」
円の中に、
点をいくつも。
「これは、人」
リオが眉をひそめる。
「……外にあんのかよ」
「うん」
先生は淡々と答える。
「火は、
街の“外”にある」
「水は、
最初から街にあった」
ミナは、
はっとする。
(……だから……
水は誰のものでもない……
でも火は……
“誰かが用意したもの”……)
◇
昼前。
井戸の周りで、
小さな言い合いが起きた。
「昨日は、あの家が多く使ったろ」
「子どもが多いんだよ」
「じゃあ、うちはどうなるんだ」
声は低い。
だが、刺がある。
誰も悪くない。
だからこそ、
止まらない。
◇
先生は、
少し離れた場所で見ていた。
止めない。
介入しない。
ただ――
リオに、
ぽつりと言う。
「今、何が起きてる?」
リオは、
少し考えてから答えた。
「……火が足りねぇんじゃなくて……」
「うん」
「……決める奴が、
いねぇんだ」
先生は、
小さく頷く。
「正解」
◇
夕方。
再び、
鍋は空のままだった。
腹を壊す子はいない。
だが、
皆が気づいている。
(……続かない……)
沈黙が、
少し重い。
◇
その夜。
倉庫で。
先生は、
チョークを持つ。
だが、
文字は書かない。
代わりに、
線を一本。
そして、
その線の上に、
小さな丸を並べる。
「これは、当番」
ミナが小さく息を呑む。
「……当番……」
「便利な仕組みだよ」
先生は言う。
「責任を分けられる」
「不公平が見えにくい」
リオが口を挟む。
「じゃあ、それでよくねぇか?」
先生は、
すぐには答えない。
「当番には、
弱点がある」
ミナが尋ねる。
「……なに?」
「“失敗したとき”、
責めやすい」
沈黙。
「火が足りない」
「鍋が汚れた」
「誰かが腹を壊した」
「その全部が、
“今日の当番”のせいになる」
ミナは、
胸が痛くなる。
(……確かに……
昨日も……
“誰がやった”って話に……)
◇
先生は、
チョークを置いた。
「だから――
今日は、当番を作らない」
リオが驚く。
「え?
じゃあ、どうすんだよ」
先生は、
ゆっくり言った。
「“やりたい人”が、やる」
ざわめき。
「ただし――」
先生は、
一拍置く。
「やった人は、
“褒められない”」
ミナが目を丸くする。
「……え?」
「感謝はする。
でも、評価しない」
「偉いとも言わない」
「責任も、
押しつけない」
リオが首をかしげる。
「……それ、
やる意味あんのか?」
先生は、
静かに答えた。
「“役割”にしないためだ」
◇
翌朝。
鍋のそばに、
一人、女が立っていた。
昨日とは、別の人。
火を起こし、
静かに水を温める。
誰も声をかけない。
しばらくして、
もう一人来る。
薪を、
そっと置く。
それだけ。
◇
昼。
三人。
夕方。
五人。
名前は呼ばれない。
順番も決まっていない。
だが、
火は消えなかった。
◇
ミナは、
その様子を見て思った。
(……これ……
ルールじゃない……
でも……
ちゃんと回ってる……)
◇
夜。
先生は、
何も言わなかった。
ただ、
井戸の湯気を見ている。
リオが、
ぽつりと呟く。
「……先生」
「うん?」
「これ……
いつか、
決めなきゃいけなくなるよな」
先生は、
少しだけ笑った。
「そうだね」
「でも――」
一拍置く。
「“決めなくても回る経験”がないと、
“決めたルール”は、
必ず壊れる」
リオは、
黙った。
その言葉が、
深く沈んだからだ。
◇
火は、
誰のものでもない。
だが、
誰かの手で守られている。
それを、
街は初めて知った。
支配でも、
命令でもない。
“関わり”という形で。
革命は、
今日も音を立てない。
ただ、
火が消えない。
それだけで――
街は、少し変わった。
誤字脱字はお許しください。




