第72話 煮るという革命
72話です。
朝。
井戸の水面に、
小さな湯気が立っていた。
誰かが、
鍋を置いている。
火は弱い。
ぐらぐら煮えてはいない。
ただ――
「温めている」。
ミナは足を止めた。
(……昨日までは……
生水だった……)
◇
鍋のそばにいたのは、
名も知らない中年の女だった。
「……煮てるの?」
ミナが尋ねると、
女は少し困ったように笑った。
「煮てるってほどじゃないよ。
“温めてる”だけ」
「なんで……?」
「腹壊す子がいなくなったろ。
昨日は」
ミナは息を呑む。
(……偶然じゃないって……
みんな……思い始めてる……)
女は続けた。
「石、置いてたろ。
掃いた日と、
腹壊した日」
「全部じゃないけど……
雨のあとが多かった」
声は小さい。
だが、
迷いが少ない。
「だから……
火、使ってみた」
◇
倉庫。
先生は、
その話を聞いて、
何も言わなかった。
ただ、
チョークで書いた。
水
↓
火
↓
腹
三つの単語を、
一直線に。
リオが首をかしげる。
「……それ、
合ってんのか?」
「まだ分からない」
先生は即答した。
「でも――
“確かめる価値はある”」
ミナは気づく。
(……断言しない……
でも、止めもしない……)
◇
昼前。
別の場所でも、
鍋が出始めた。
だが問題は、
すぐに起きた。
「薪が足りねぇぞ!」
「誰が使った!」
「煮るなら、
全員分だろ!」
声が荒くなる。
火は、
水と違って
“有限”だ。
燃やせば減る。
集めなければ尽きる。
ミナの胸がざわつく。
(……来た……
資源っていうやつの話……)
◇
先生は、
広場の端で、
それを見ていた。
そして、
地面に描く。
丸を三つ。
「これは、
鍋」
線を引く。
「これは、
火」
さらに、
短い線をいくつも。
「これは、
薪」
誰も、
説明を求めない。
もう、
見るだけでいい。
「質問」
先生が言う。
「全員分を煮るとき、
一番先に足りなくなるのは?」
沈黙。
やがて、
誰かが言った。
「……火」
別の声。
「いや、薪だ」
先生は頷く。
「どっちも正解。
だから――
“全部一気に”は、無理だ」
ざわめき。
◇
「じゃあ、
どうする?」
先生は、
答えを言わない。
代わりに、
円を二つ重ねて描いた。
「煮る日」
「煮ない日」
その間に、
小さな点。
「試す日」
ミナは、
はっとする。
(……段階……)
「毎日、
全員分を煮なくていい」
「まず、
“危なそうな日”だけ」
誰かが言う。
「……雨のあと?」
「そう」
「じゃあ……
子どもだけ?」
「それも、ありだ」
先生は、
否定しない。
◇
リオが小声で言った。
「先生……
これ……
給食じゃねぇけど……」
「前段階だね」
先生は、
小さく笑った。
「“食べ物を決める前に、
水を決める”」
◇
午後。
煮た水と、
煮ていない水。
二つの桶が置かれた。
誰も命令しない。
ただ、
母親たちが、
子どもを見る。
(……今日は……
煮た方かな……)
その判断が、
一人ひとりに委ねられる。
結果――
腹を壊した子は、
出なかった。
◇
夜。
倉庫で。
ミナが、
小さく尋ねる。
「先生……
これ……
前に言ってた科学……?」
先生は少し考え、
「半分は、科学」
と言った。
「残りは?」
「生活」
「それをつなぐのが、
教育だ」
ミナは、
胸が熱くなるのを感じた。
(……学校じゃない……
でも……
ちゃんと“学んでる”……)
◇
教団の見回りが、
また報告する。
「……火の使用が……
増えています」
「祈りは?」
「……増えていません」
司祭は、
歯を食いしばった。
「火を使えば、
神に頼らなくなる……」
だが、
止める理由がない。
清潔。
静か。
死者なし。
“悪”がない。
◇
夜更け。
井戸のそばで、
小さな鍋が
まだ温かい。
誰かが、
ふたを閉める。
明日のために。
それはもう、
施しでも、
命令でもない。
街が自分で選んだ、
“安全”。
革命は、
叫ばない。
ただ――
静かに、
煮えていく。
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誤字脱字はお許しください。




