第71話 線と丸だけの仕事
71話です
朝。
井戸の周りに、
奇妙なものが増えていた。
誰かが置いた、小さな石。
それも一つや二つじゃない。
井戸の縁に、
規則性もなく、
だが――
「適当」でもない配置で、
石が並んでいる。
ミナは立ち止まった。
(……昨日は……
こんなの、なかった……)
◇
「それ、誰が置いたの?」
ミナが声をかけると、
近くにいた年配の女が肩をすくめた。
「知らないよ。
気づいたら、あった」
別の女が言う。
「昨日、
誰が掃いたか……
分からなくなってさ」
「喧嘩になりそうだった」
「だから……
石、置いた」
説明はそれだけ。
だが、
ミナは分かってしまった。
(……これ……
“記録”だ……)
名前も、
文字も、
責任の押し付けもない。
ただ――
「やった」という痕跡。
◇
倉庫。
先生は、
それを見ていた。
遠くから。
何も言わずに。
リオが小声で言う。
「……先生。
あれ……
勝手に始めてますけど……」
「うん」
「止めないんですか?」
先生は首を振った。
「止める理由がない」
「でも……
ぐちゃぐちゃですよ」
「最初は、
必ずそうなる」
先生は、
床にしゃがみ込み、
チョークで書いた。
一本の線。
その横に、
丸を三つ。
「これは……?」
リオが尋ねる。
「一日」
「丸は?」
「やった数」
リオは眉を寄せた。
「……それだけ?」
「それだけ」
◇
昼前。
井戸の周りで、
また声が上がった。
「昨日、
誰が二回やった?」
「分からないだろ」
「石、増えてるぞ」
一瞬、
空気が険しくなる。
そのとき、
若い男が言った。
「……一回でいいんじゃね?」
沈黙。
「一回なら……
誰がやったか、
覚えてられる」
別の声。
「……確かに」
完璧じゃない。
効率も悪い。
だが――
“続けられる”。
先生は、
遠くでそれを聞き、
小さく頷いた。
◇
午後。
倉庫の中。
先生は、
壁に何も書かない。
ただ、
石を一つ持ち上げ、
床に置く。
「これは……
“一人分の仕事”だ」
子どもたちが、
じっと見る。
「じゃあ、
これが十個あったら?」
「……十人?」
「そう」
先生は、
石を動かさない。
「でもね」
視線を上げる。
「十個あっても、
十人やったとは限らない」
ざわり。
「一人で、
二つやったかもしれない」
「逆に、
誰もやってない日が、
あったかもしれない」
ミナは、
息を呑んだ。
(……これ……
数の話だ……
でも……
式がない……)
先生は、
淡々と続ける。
「だから――
“数だけ”を見ると、
間違える」
「大事なのは、
“比べる”ことだ」
◇
その夜。
腹を壊す子が、
一人も出なかった。
偶然かもしれない。
だが、
母親たちは、
気づいてしまう。
(……昨日……
水、気をつけた……)
(……手、洗った……)
因果は、
まだ見えない。
だが、
“関連”は、
感じられる。
◇
翌朝。
井戸の石は、
少し整っていた。
多すぎない。
少なすぎない。
誰かが、
勝手に動かした形跡。
ミナは、
思わず笑った。
(……先生……
何も言ってないのに……)
倉庫で、
先生は言った。
「今日は、
“名前を書かない当番”の話をしよう」
ざわつく。
「名前がないと、
サボる?」
「責任が分からない?」
先生は、
首を振った。
「名前があると、
“責める”が先に来る」
沈黙。
「名前がないと、
“足りない”が先に見える」
子どもも、
大人も、
その違いを感じ取る。
◇
教団の見回りが、
報告する。
「……井戸の周りが……
静かすぎます」
「揉め事は?」
「……ありません」
「祈りは?」
「……増えていません」
司祭は、
苛立った。
「では、
なぜ……
街は……」
答えはない。
命令がないのに、
動いている。
数字があるのに、
支配できない。
これほど、
不気味なことはない。
◇
ミナは、
家に戻り、
今日のことを思い返す。
誰も、
「当番表」を作っていない。
誰も、
「命令」していない。
それなのに――
井戸は、
昨日より、
少しだけ綺麗だ。
(……これ……
教育……?)
先生は、
それを
教育とは呼ばない。
ただ、
“線と丸”を置いただけ。
だが――
街は、
数字と仕事を、
自分たちのものにし始めていた。
次に来るのは、
きっと――
「食べてもいい水」と、
「食べてはいけない水」。
そして、
“安全な一食”という、
とても危険な発想。
街は、
もう止まらない。
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