第70話 食べる前に、考える
70話です
朝。
井戸の周りは、
昨日よりも静かだった。
人が減ったわけではない。
むしろ、集まっている。
だが――
動きが遅い。
水を汲み、
桶を置き、
一度、地面を見る。
それが、
当たり前の動作になり始めていた。
◇
ミナは、
いつもの時間に井戸へ来て、
気づいた。
……昨日、
自分が寄せた泥が、
さらに端へ動いている。
(……誰かが……
続けてる……)
名前は分からない。
顔もはっきり思い出せない。
だが――
“同じことをした誰か”がいる。
それだけで、
胸の奥が少し温かくなった。
◇
桶を洗っていると、
隣に立った女が言った。
「……あのさ」
ミナは振り返る。
「昨日……
あんた、
ここ掃いてたよね?」
責める口調ではない。
確認する声だった。
「……はい」
「じゃあ……
今日は、
うちがやる」
ミナは、言葉に詰まった。
「……え……?」
女は、少し照れたように目を逸らす。
「毎日だと……
しんどいでしょ」
それだけだった。
命令でも、
相談でもない。
ただの、
“申し出”。
ミナは、
何も言えず、
深く頭を下げた。
◇
倉庫の前。
リオは、
昨日より長く、
人の動きを見ていた。
掃く人。
掃かない人。
通り過ぎる人。
(……昨日と……
同じ人ばっかじゃねぇ……)
気づいてしまった。
“自然に決まっていない”ということに。
そして――
続けるには、
“仕組み”が要ることに。
(……先生……
これ……
そのままだと……
続かねぇ……)
だが、
先生は、
まだ何も言わない。
◇
昼前。
倉庫に、
先生が現れた。
相変わらず、
何も持っていない。
だが、
視線だけは、
街を見ている。
先生は、
地面にしゃがみ込み、
チョークで小さく書いた。
線。
点。
昨日と同じ。
だが今日は、
その横に、
小さな円を一つ足した。
誰も質問しない。
先生も、
説明しない。
ただ、
円の中に、
小さく書く。
・
一つだけ。
「……一人?」
誰かが、
小さく呟いた。
先生は、
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、
次の円を描いた。
◇
午後。
井戸の近くで、
小さな揉め事が起きた。
「なんで、
うちばっかり……」
声は荒れていない。
疲れた声だった。
集まった人々が、
困ったように立ち尽くす。
そのとき、
年配の男が言った。
「……毎日じゃなくて……
交代にしねぇか?」
一瞬、
空気が止まる。
誰も反対しない。
だが、
誰も賛成とも言わない。
沈黙。
“考える沈黙”。
「……じゃあ……
今日は、
この辺の家で……」
曖昧な言い方。
だが、
それでよかった。
誰かが、
うなずく。
誰かが、
掃き始める。
仕組みは、
まだ歪だ。
だが――
“始まり”としては、
十分だった。
◇
夕方。
倉庫の中で、
子どもたちが、
小さな声で話している。
「……お腹……
今日は、平気……」
「……昨日は……
痛かった……」
大人たちは、
それを聞いて、
顔を曇らせる。
食べることは、
生きることだ。
だがこの街では、
同時に――
危険でもある。
先生は、
子どもたちの近くに座り、
静かに言った。
「今日は、
“食べない勇気”の話をしよう」
一瞬、
空気が張り詰める。
「お腹が空いているとき、
すぐ食べるのは、
悪いことじゃない」
誰も否定しない。
「でも――
“食べない”という選択が、
自分を守ることもある」
ミナは、
息を呑んだ。
(……食べる前に……
考える……)
先生は、
続けた。
「それは、
怖がることじゃない」
「“確かめる”ことだ」
水。
手。
器。
まだ、
名前は出さない。
だが、
次に来る授業の影が、
確かにそこにあった。
◇
夜。
教団の見回りが、
倉庫の前を通る。
騒ぎはない。
集会もない。
だが――
人が、
勝手に動いている。
命令なしに。
祈りなしに。
「……気味が悪い……」
誰のせいでもない。
それが、
一番、
支配しづらい。
◇
ミナは、
家に戻り、
手を洗った。
昨日より、
少し長く。
理由は、
説明できない。
でも――
“分かった気がする”。
教育は、
声じゃない。
今日の街は、
誰にも叫ばせず、
誰にも命じず、
それでも――
一歩、
前に進んでいた。
食べる前に、
考える。
掃く前に、
見る。
話す前に、
比べる。
先生は、
それを
“授業”とは呼ばない。
だが――
街は確かに、
学び始めていた。
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誤字脱字はお許しください。




