第68話 声を出す前の授業
68話です
先生が広場を去ったあとも、
街は、しばらく動かなかった。
誰も声を出さない。
誰も帰ろうとしない。
ただ、立ったまま、
あるいは座り込んだまま、
地面に引かれた二本の線を見つめている。
沈黙が、
ゆっくりと街に沈んでいった。
◇
ミナは、胸の奥がざわついていた。
(……何も言われてないのに
頭の中が……うるさい……)
さっきまで、
「話す」とか
「声」とか
そういう言葉に身構えていたはずなのに。
今は違う。
声を出さなくても、
考えが勝手に動いてしまう。
視線が、
線から井戸へ移り、
井戸から路地へ移り、
路地から――子どもたちの足元へ移る。
ミナの隣で、リオが小さく息を吐いた。
「……なぁ」
「なに?」
「先生さ……
今日、なんもさせてねぇよな」
「……うん」
「なのにさ……
頭、止まらなくねぇか?」
ミナは、小さく頷いた。
◇
広場の端では、
何人かの大人が井戸の方を見ていた。
誰かが言い出したわけじゃない。
ただ、
自然と目が向いただけだ。
井戸の周りには、
昨日降った雨の名残が残っている。
ぬかるみ。
流れ込んだゴミ。
踏み固められた土。
そこから、
ほんの少し離れた場所に、
洗い場がある。
ミナは、はっとする。
(……あ)
昨日、
お腹を壊した子どもたち。
全員が、
同じ井戸を使っていた。
でも――
同じ水を使っても、
平気な子もいた。
(先生……
答え、言ってないのに……)
気づく。
自分の中で、
「違い」を探している。
◇
「……なぁ」
今度は、後ろの方から声がした。
大人の声だ。
だが、
大声ではない。
誰かに向けたというより、
自分に向けた声だった。
「雨のあとさ……
井戸の周り、
片づけた家と、
そのままの家……
あったよな……?」
それに、誰かが答えたわけでもない。
けれど、
数人が無言で頷いた。
沈黙の中で、
同意が伝わる。
ミナの背中が、ぞくりとする。
(……声、出してないのに
話が……進んでる……)
◇
リオは、地面に残された線を見つめていた。
二本の線。
先生は、
何も消していない。
(……気づく
……試す
……続ける)
言葉が、
頭の中で勝手に並ぶ。
(今日の俺たち……
気づいてる段階だよな)
試してもいない。
続けてもいない。
ただ、
「今までと違う」ことに
気づき始めただけだ。
リオは、
それが妙に安心だった。
(……いきなり変われって
言われてない)
◇
しばらくして、
人々は少しずつ散り始めた。
だが、
話しながらではない。
それぞれが、
何かを考え込んだまま、
自分の生活へ戻っていく。
ミナは、家に帰る途中、
井戸の横で足を止めた。
水面を覗き込む。
澄んでいるように見える。
でも、
雨のあとだ。
(……見えないだけで
混じってるもの、あるよね……)
その夜、
ミナは母にこう言った。
「ねえ……
明日、井戸の周り……
一回、掃いてみない?」
母は不思議そうに見たが、
否定はしなかった。
◇
その頃。
教団の塔では、
強硬派の司祭が眉をひそめていた。
「……騒ぎは?」
「ありません」
「反論は?」
「……ありません」
司祭は苛立った。
沈黙は、
本来、支配の結果であるはずだった。
だが今、
その沈黙は――
従っていない。
(……何も命じていないのに
何かが……動いている……)
司祭は、
地味な不安を覚えた。
叫びもない。
抗議もない。
ただ、
静かに“考えられている”。
それが、
一番、気味が悪かった。
◇
翌朝。
井戸の周りが、
少しだけ、きれいになっていた。
誰がやったのか、分からない。
掃除をしたという声もない。
だが確かに、
ゴミは減っていた。
ミナはそれを見て、
胸が少し熱くなる。
(……先生
これが……
声を出す前の授業……)
リオも気づいていた。
(誰も命令してねぇ
誰も褒められてねぇ
でも……
街、変わり始めてる)
そのとき、
遠くで鐘が鳴った。
いつもより、
少し遅れた音。
街は振り向かない。
ただ、
自分たちの足元を見ていた。
沈黙の中で、
街は――
確かに、
一歩目を踏み出していた。
まだ声はない。
だがそれは、
声を失っている沈黙ではない。
“話す準備をしている沈黙”。
先生の授業は、
まだ――
始まったばかりだった。
誤字脱字はお許しください。




