第56話 沈黙が歩き出す日
56話です
12月16日改稿
翌朝。
スラムの空は曇り、光の差さない灰色だった。
いつもと同じ路地。
いつもと同じ井戸。
いつもと同じ壁の汚れ。
――それなのに、街の空気だけが昨日と違う。
歩く人の足取りが少しだけ遅い。
目線の高さが少しだけ上がる。
口を閉ざす理由が、少しだけ変わる。
(沈黙が……歩いている)
そう感じるほど、沈黙に「重さ」があった。
ただ黙っているのではない。
“黙り方”が揃い始めている。
◇
ミナとリオは倉庫の前で僕を待っていた。
ミナは落ち着かず、何度も街路を振り返る。
リオは腕を組んだまま、やけに黙っている。
「先生……今日……なんか、街全体がざわざわしてる……」
「ざわざわ?」
「声があるわけじゃないのに……心だけが動いてるみたいな……」
リオが低くうなずく。
「歩いてる奴らの顔、昨日と違う。
“怯えてる”じゃねぇ。……目が、開いてる」
「“意思のある沈黙”が始まっているね」
ミナが息を呑んだ。
(沈黙に……意思……?)
「恐怖の沈黙は、縮む。
でも意思の沈黙は、広がる」
僕はそう言って、倉庫の扉を開けた。
◇
中には、いつもより子どもが多かった。
昨日の倍。いや、それ以上だ。
怯えた顔もある。
でも、それより強いものが混ざっている。
――来たい。
――知りたい。
――確かめたい。
ミナとリオは顔を見合わせた。
「先生……こんなに来るの、初めてだよ……」
「街が考え始めてる証拠だね」
僕は壁にチョークで書く。
【なにを えらぶのか】
【だれが きめるのか】
【こえのない こえ】
ミナが小さく呟く。
「……“声のない声”?」
「沈黙の中には声がある」
僕は子どもたちを見回し、ゆっくり言った。
「大きく叫ぶ声より、ずっと強い声がね」
子どもたちは息を潜めて聞いている。
僕は続ける。
「恐怖で黙る沈黙には、力がない。
でも“意思で黙る沈黙”は、支配者にとって最も扱いづらい」
リオがぼそっと言う。
「……教団が一番嫌がる沈黙ってことか」
「そう。だから今、塔の中は混乱している」
ミナが震えた声で聞いた。
「先生……どこまで揺れてるの、教団……?」
「“意思の沈黙”に触れた瞬間、支配者は必ず焦る。
塔は今日、大きく揺れるよ」
◇
その瞬間だった。
倉庫の外を何人もの足音が走り抜け、
そのあとに大声が続いた。
「塔で争いだ!」
「司祭が怒鳴り合ってる!」
「奉仕登録の紙、回収止まったぞ!」
子どもたちが怯えて寄り添う。
ミナは窓の隙間から外を見て、息を呑んだ。
「せんせい……ほんとうに……塔から、人が……!」
塔の階段を、何人もの見習いが駆け下りていく。
門の周りで指示が飛び、声がぶつかり、引っ込む。
――声が漏れている。
それだけで、異常だった。
通りを歩く市民たちが、一斉に塔のほうを見る。
近づかない。騒がない。笑わない。
ただ――沈黙で見ている。
その沈黙が、塔を圧していた。
◇
しばらくして、スラムの中年男が倉庫に駆け込んできた。
「先生! 大変だ……!」
「落ち着いて。何があった?」
男は荒い息で言う。
「塔の中で……司祭同士が……掴み合いになったって……!」
「掴み合い?」
「誰かが止めたらしいけど……
“登録は強制だ”派と、“今は刺激するな”派が割れて、
もう滅茶苦茶だ……!」
噂は膨らむ。
だが、芯は同じだ。
――塔は割れている。
――命令系統が揺れている。
リオが口笛を吹く。
「おいおい……教団、終わってんじゃねぇのか?」
「まだ終わらないよ」
僕は淡々と答えた。
「ただ、“揺れの第二段階”に入っただけだ」
ミナが不安そうに僕を見る。
「せんせい……これから、どうなるの……?」
僕はチョークを取り、壁に一本の縦線を引いた。
│
線の左に書く。
【しはい】
【おそれ】
右側に書く。
【じゆう】
【えらぶ】
「塔の中で争っているのは、この線だよ」
ミナが見つめる。
「……線……?」
「支配から自由へ。
恐怖から選択へ。
街と教団は今、この線の上で揺れている」
ミナの胸の奥に、熱いものが広がる。
(先生は……ほんとうに、街を“線”ごと揺らしてる……)
◇
そのとき――
倉庫の前に、黒衣の影がひとつ落ちた。
昨日、“沈黙の質”を報告した使いだ。
深いフード。乾いた足音。
ミナとリオが同時に身構える。
僕は扉を開けた。
「ご用ですか?」
男は、昨日より明らかに揺れていた。
声が整っていない。
「……先生。塔が……沈黙に飲まれています」
「飲まれて?」
「街の沈黙じゃない。
塔の中の沈黙が……何かを恐れている」
ミナが息を呑む。
(塔の中の沈黙……先生が変えたのは街だけじゃ……)
男は声を低くした。
「司祭は今日、重大な誤りを犯しました」
「誤り?」
「“奉仕登録は誇りである”と言い出したのです」
リオが苦笑する。
「あーあ……言っちまったか……」
男が続ける。
「なぜ“誇り”と言い始めたのか……
司祭が……恐怖に追われているように見えた」
ミナの背筋が冷たくなる。
(誇り……先生が言ってた……奪いに来るって……)
男はさらに低く言った。
「だが街は、誰ひとり反応しませんでした。
歓声も、感謝も、涙も……出なかった」
僕はゆっくり答える。
「人の誇りは、奪うものじゃない。
与えるものでもない。
“自分で持つもの”です」
男は俯き、しばらく動かなかった。
そして、かすれる声で聞いた。
「……先生。あなたは……街に何をした?」
僕は静かに言った。
「沈黙を、自由にしただけです」
男は顔を上げられなかった。
――その沈黙は、同意ではない。
恐怖でもない。
“理解してしまった沈黙”だった。
◇
その頃、塔の最上階。
司祭は窓辺に立ち、街を見下ろしていた。
沈黙している。
今日も変わらず沈黙している。
だが――昨日より深い。
「黙っている……なぜだ……
なぜ動かぬ……
なぜ私を見上げぬ……」
呟きは弱い。
沈黙は支配の武器だった。
だが今、その沈黙が司祭の喉元を締め上げている。
(沈黙に……負けている?
私が……?)
初めて司祭の胸に浮かんだのは、恐怖ではなかった。
――疑問だった。
しかも、消せない種類の。
塔にもまた、
【選ばされる側】が生まれつつある。
そしてそれこそが――
支配の終わりの始まりだった。
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誤字脱字はお許しください。




