第50話 沈黙の裂け目
50話です。
12月16日改稿
奉仕登録が義務になる――
その宣告は、街の上に重く覆いかぶさった。
翌朝、スラムを歩く人々の足取りは、昨日よりも遅い。
井戸へ向かう列では、誰も顔を上げない。
会話は途切れ、視線だけが地面をなぞっていた。
だが、それは昨日までの“怯え”とは違っていた。
(……これは諦めじゃない)
(溜め込まれたまま、行き場を失っている)
崩れそうで、まだ崩れない沈黙。
それは、街が大きく揺れる直前の静けさだった。
◇
倉庫に着くと、ミナとリオが待っていた。
二人とも、顔色が悪い。
「先生……
今日、街の空気……苦しい……」
ミナは胸を押さえながら言った。
「うちの親もさ……
朝から登録紙を握ったまま、何も言わねぇ……」
声に、怒りも恐怖も混じっている。
昨日までの出来事は、
子どもたちにも十分すぎるほどの重さだった。
僕は倉庫の扉を閉め、チョークを一本取り出した。
「今日は授業はしない」
ミナが目を見開く。
「え……?
じゃあ……何をするの……?」
「準備をする」
リオが顔を上げた。
「準備……?」
僕は壁に、短い一本の横線を引いた。
それだけだった。
ミナが首を傾げる。
「……なに、これ……?」
「沈黙だ」
二人が同時に固まる。
「沈黙……?」
「うん。
教団が今まで一番使ってきた道具だ」
リオが眉を寄せる。
「それを……どうすんだよ」
「意味を変える」
ミナは理解できず、戸惑った表情を浮かべた。
「意味……?」
僕は線の下に、小さな点をいくつか描いた。
「街の沈黙は、今まで“恐怖”の結果だった。
だから教団は、それを“従順”だと判断してきた」
二人は黙って聞いている。
「でも同じ沈黙でも、
理由が“恐怖”じゃなく見えたら――
話は変わる」
リオが小さく息を吸った。
「……考えてる沈黙、ってことか」
「そう」
僕は頷いた。
「沈黙が“判断待ち”“様子見”“不信”に見えた瞬間、
教団は次の一手を打てなくなる」
ミナがゆっくり言う。
「……街が、逆らう準備をしてるって……
思わせる……?」
「正確には、
逆らうかどうか判断できない状態を作る」
街は、まだ動けない。
だが、管理できない状態にはできる。
それだけで、支配は揺らぐ。
◇
倉庫を出ると、広場で数人の大人が言い争っていた。
「もう登録する……疲れた……」
「でも、それで本当に安全になるのか……?」
二人とも、目に余裕がなかった。
ミナが小声で言う。
「先生……
助けなくていいの……?」
「助けるよ」
「でも……何もしてない……」
「何もしないように見えることが、今は一番効く」
僕は広場へ歩み寄った。
「どうしました?」
声を張り上げたわけではない。
だが、不思議と人の視線が集まる。
男の一人が、力なく言った。
「先生……
登録しなきゃ危ない……
でも、したら……何かを失う気がして……」
僕はすぐに答えなかった。
そして、こう尋ねた。
「どちらが正しいと思います?」
二人は言葉に詰まった。
「……正解は、ありません」
僕は静かに続ける。
「問題は、
その選択を、あなたたちが本当に選んでいるかどうかです」
周囲が、しん……と静まり返る。
「選ばされているうちは、
登録してもしなくても、自由じゃない」
誰かが息を呑む音がした。
「だから、今日は決めなくていい」
ざわめきが起きる。
僕は声を荒げず、続けた。
「教団は、
“決断”と“分断”を待っています。
でも――
判断を保留され続ける沈黙は、一番困る」
リオが小声で呟く。
「……判断不能にする気か……」
「そう」
僕は一度だけ頷いた。
「今日、街が沈黙を保てば、
教団は誰を処分すべきか分からなくなる」
広場の空気が、わずかに変わった。
恐怖だけだった沈黙が、
ゆっくりと“考える沈黙”に変質していく。
諦めでも、服従でもない。
様子を見る沈黙
測る沈黙
揺れる前の沈黙
教団が、最も嫌う沈黙。
僕はミナとリオに、ほんの少しだけ頷いた。
「今日の揺れは、ここからだ」
◇
その夜。
教団の塔では、慌ただしい足音が響いていた。
司祭は報告を聞き、苛立ちを隠せずに言った。
「……なぜだ」
「なぜ登録が進まない」
「なぜ、街が“静かすぎる”……」
沈黙は、支配の証ではなくなった。
それは――
先生が街に仕掛けた、
最初の反撃だった。
誤字脱字はお許しください。




