第32話 帰還とざわめき
32話です
12月14日改稿
少女を連れてスラムへ戻ると、
路地の空気が、目に見えて揺れた。
「……戻ってきたぞ」
「本当に……返されたのか?」
「先生が……?」
人々の視線が、一斉に集まる。
そこにあったのは、昨日までの疑念や恐怖ではない。
――信じきれない、という戸惑いだった。
ミナが、声を殺して走ってくる。
「先生……! 本当に……本当に……!」
言葉にならないまま、彼女は少女の肩を抱いた。
少女の弟も遅れて駆け寄り、姉にしがみつく。
「姉ちゃん……っ、よかった……!」
少女はその場で崩れるように泣き出した。
しばらく、声を上げることすらできず、
ただ小さく震えながら、僕の服を掴んで離れなかった。
「先生……怖かった……」
か細い声が、途切れ途切れに続く。
「暗くて……ずっと閉じ込められて……
誰もいないのに……歌が……」
「歌?」
思わず、問い返す。
「“静かでいましょう、静かでいましょう”って……
同じ声が……ずっと……」
(音による反復暗示……)
考えるより先に、身体が反応する種類の支配だ。
子どもに使うには、あまりにも露骨で残酷だった。
ミナが唇を噛みしめる。
「……そんな部屋に……
ひどすぎる……」
リオは何も言わず、周囲を睨みつけていた。
人々の表情が、少しずつ変わり始める。
怒りと、恐怖と、戸惑いが、同時に浮かんでいる。
それでも――
昨日までとは違う。
「……助けたんだ」
「本当に……取り返した……」
小さな声が、連なっていく。
僕は少女の頭に、そっと手を置いた。
「今日は家で休もう。
無理に話さなくていい」
少女は、服を握ったまま、小さく頷いた。
弟が、涙でぐしゃぐしゃの顔で僕を見る。
「先生……ありがとう……!」
その言葉に、周囲が息を呑む。
だが、その空気を切り裂くように、怒声が飛んだ。
「何をしている!!」
全員が振り返る。
そこにいたのは、少女の父親だった。
顔は怒りで赤く、呼吸が荒い。
「勝手に教会から連れ出して……
お前、何様だ!」
少女がびくりと震え、父の背に隠れる。
父親は僕の胸倉を掴んだ。
「教団の指示を軽んじるのか!?
司祭さまのもとで祈れば、
あの子は静まるはずだったんだ!」
周囲が凍りつく。
僕は、声を荒げなかった。
「ひとつだけ、聞かせてください」
父親の目を見る。
「娘さんが、泣き叫んでいたとき――
あなたは、どこにいましたか?」
父親は言葉を失った。
「責めているわけではありません」
静かに続ける。
「ただ……
“教団が正しい”と言われるたびに、
あなたは娘さんを見る目を、
少しずつ失っていた」
父の手が、わずかに震えた。
「……うるさい……」
「娘さんが一番怖かったのは、
閉じ込められたことじゃない」
少女が、震える声で言う。
「……お父さん……
帰りたかった……」
父は、その声に目を見開いた。
そして、ゆっくりと、僕の胸倉から手を離した。
沈黙。
少女を見つめ、言葉を探し、
何も言えないまま――父は娘を抱き寄せた。
(届いたな)
僕は一歩下がり、頭を下げる。
「責めていません。
ただ、今日からは……
教団の言葉より、
娘さんの声を聞いてあげてください」
父は何も答えず、
娘を抱いたまま、路地の奥へ消えていった。
その背中を、誰も止めなかった。
スラムの空気が、静かに変わる。
背後で、誰かが呟く。
「……先生、教団に勝ったのか?」
「すげぇ……」
「一人で……」
だが、すぐに別の声が混じる。
「……でも……
これ、放っとかれるわけないよな……」
「教団が……黙ってるはずがない……」
正しい予感だった。
僕は空を見上げる。
(司祭は、必ず次の手を打つ)
風の中に、
その気配が、はっきりと混じっていた。
誤字脱字はお許しください。




