第106話 それは決まりではない
106話です。
翌朝。
市場に並ぶ籠の配置が、
わずかに変わっていた。
◇
誰かが指示したわけじゃない。
掲示もない。
注意もない。
◇
それでも――
人と人の間に、一定の距離ができている。
◇
近すぎない。
遠すぎない。
だが、
昨日までとは違う。
◇
ミナは野菜籠の前で足を止め、
その距離に気づいた。
(……あれ……?
こんなに……空いてたっけ……)
◇
隣の客は、
一歩、半歩、
自然に距離を取っている。
◇
理由はない。
衝突もない。
◇
ただ――
合わせている。
◇
倉庫へ向かう途中、
リオが低く言った。
「……なあ。
これ、誰が決めた?」
◇
先生は、
少しだけ歩調を落とす。
「誰も決めてない」
◇
「でも、
“決まりみたいに”なってきてる」
◇
倉庫に入ると、
机の上に紙が一枚置かれていた。
◇
昨日までの提出用紙とは違う。
文字も少ない。
◇
「理由を書く欄は、空けておいてください」
◇
ミナの指先が冷える。
(……空けておいて……
って……)
◇
命令ではない。
強制でもない。
◇
でも、
“そうするのが普通”という形をしている。
◇
先生は紙を持ち上げ、
皆に見せた。
「今日は、
これを使わない」
◇
ざわり。
◇
「代わりに、話をしよう」
◇
誰かが、
息を飲む。
◇
先生は、
地面に小さな四角を描いた。
「これを“道具”だと思って」
◇
次に、
四角の中に線を引く。
「使い方が決まっている道具だ」
◇
さらに、
外に小さな丸をいくつか描く。
「使う人」
◇
「質問するね」
◇
先生は顔を上げる。
「この道具は、
誰のものだと思う?」
◇
沈黙。
◇
ミナの胸がざわつく。
(……誰の……
もの……?)
◇
「作った人?」
「持っている人?」
「使っている人?」
◇
先生は答えを言わない。
◇
「じゃあ、
使う人は、
どこまで決めていい?」
◇
「使い方?」
「置く場所?」
「触っていい人?」
◇
誰かが、
小さく首を傾げる。
◇
「“危ないから”って理由なら、
どこまで制限していい?」
◇
リオが、
ぽつりと漏らす。
「……それ、
道具じゃなくても、
人に使えるよな」
◇
先生は、
頷いた。
「そう。
だからこの話をしている」
◇
倉庫の外。
誰かが立ち止まり、
中の声を聞いている。
◇
「道具は、
便利だから生まれる」
◇
「でも、
便利さを守るために、
“使う人”を縛り始めたら――」
◇
先生は、
言葉を切る。
◇
「その瞬間、
道具は、
“使う側のもの”じゃなくなる」
◇
沈黙が、
重く落ちる。
◇
その日の午後。
井戸の前で、
同じ言葉が二度聞こえた。
◇
「……あの人、
距離、近くない?」
◇
「うん……
決まりじゃないけど……」
◇
“決まりじゃない”。
だが、
守らない理由もない。
◇
夕方、
市場の端で、
一人の女が足を止めた。
◇
周囲との距離に、
自分だけが気づいていないことに。
◇
彼女は、
一歩下がる。
◇
誰にも言われていない。
注意もされていない。
◇
でも――
**“合わせたほうが楽”**だと、
体が知ってしまった。
◇
その夜。
先生はノートに、
短く書いた。
◇
「決まりは、
作られた瞬間より、
“破りづらくなった瞬間”に力を持つ。」
◇
遠くで、
紙が折られる音がした。
◇
誰かが、
何かを“当たり前”として
受け取った音だった。
◇
街はまだ、
静かだ。
だが、
静けさの中で――
選ぶ手が、少しずつ縛られ始めている。
誤字脱字はお許しください。




