第105話 理由を言えない人
105話です。
朝の市場は、いつも通り開いていた。
魚は並び、
野菜は籠に積まれ、
人々は値を確かめながら歩く。
◇
ただ一つ違うのは――
視線の向きだった。
◇
以前は、
品物を見る目だった。
今は、
人を見る目が増えている。
◇
それは鋭さではない。
敵意でもない。
“確かめる目”だ。
◇
ミナは、
その視線を背中に感じながら、
水袋を抱えて歩いていた。
(……見られてる……)
◇
理由は分からない。
何かした覚えもない。
◇
でも、
昨日からずっと、
同じ感覚が続いている。
◇
倉庫に着くと、
入口の紙がまた変わっていた。
◇
「理由が書けない場合は、無記名で構いません」
◇
ミナは、
一瞬、息を止める。
(……書けない人のことまで……
想定されてる……)
◇
リオが、
低く言った。
「……ずいぶん、親切だな」
◇
皮肉ではない。
事実としての違和感だった。
◇
先生は、
その紙を一瞥し、
何も触れない。
◇
授業は、
今日も短い。
◇
先生は、
地面に何も描かず、
ただ言った。
「今日は、
“言えない理由”の話をする」
◇
誰かが、
小さく身じろぎする。
◇
「理由がないから言えない人もいる。
でもね――」
◇
先生は、
一人ひとりを見る。
◇
「理由が“言葉にならない”から、
言えない人もいる」
◇
ミナの胸が、
ぎゅっと縮む。
◇
(……それ……私だ……)
◇
「感じた違和感。
でも説明できない。
証拠もない。
数字にもならない」
◇
「それは、
考えていないんじゃない」
◇
「考えすぎて、言葉が追いついていないだけだ」
◇
その言葉に、
何人かが目を伏せた。
◇
「でも、
外からは区別がつかない」
◇
「“考えていない人”と
“言えない人”は、
同じ沈黙に見える」
◇
空気が、
少しだけ重くなる。
◇
「だから――」
◇
先生は、
言葉を選んだ。
◇
「沈黙に、
意味を決める人が現れる」
◇
リオが、
ぽつりと言う。
「……決める人って……誰だ?」
◇
「一番、
安心したい人だよ」
◇
その答えに、
誰も笑わなかった。
◇
昼過ぎ。
井戸のそばで、
小さな会話が交わされていた。
◇
「……あの人、
理由、出してないらしい」
◇
「書いてないの?」
◇
「うん。
昨日も、一昨日も」
◇
声は低い。
悪意はない。
◇
ただ、
事実を共有しているだけだ。
◇
「……気づいてないのかな」
◇
その言葉が、
宙に残る。
◇
ミナは、
遠くからそのやり取りを聞き、
足が止まった。
◇
(……気づいてない……
って……)
◇
次の声が続く。
「それとも……
気づいてて、言わないのか?」
◇
沈黙。
◇
誰も答えない。
でも、
全員が同じ方向を見る。
◇
“理由を言えない人”のほうを。
◇
夕方。
倉庫に戻ると、
先生が珍しく、
紙を手に取っていた。
◇
書かれているのは、
短い文。
◇
「分からない、という理由では足りませんか」
◇
先生は、
それを読み終え、
静かに畳む。
◇
「……足りない、と思う人が増えたな」
◇
リオが、
腕を組む。
「先生、
これさ……」
◇
「うん」
◇
「もう、
質問が“安全じゃない”ところまで
来てねぇか?」
◇
先生は、
すぐに否定しなかった。
◇
「質問自体は、
まだ善意だ」
◇
「でもね――」
◇
「質問を向けられる側が、
“答えないと危険”だと感じた瞬間、
それは質問じゃなくなる」
◇
ミナの喉が、
ひくりと鳴る。
◇
(……悪意じゃない……
でも……)
◇
夜。
市場の灯りが落ちる頃、
新しい囁きが生まれていた。
◇
「……理由を言えない人って、
ちょっと怖くない?」
◇
それは、
誰かを傷つける言葉ではない。
◇
だが――
誰かから距離を取る理由にはなる。
◇
先生は、
その夜、
ノートに一行だけ書いた。
◇
「悪意とは、
誰かを疑うことではない。
疑っていいと思える空気が生まれることだ。」
◇
窓の外。
誰かが、
そっと紙を裏返す音がした。
◇
街はまだ静かだ。
だが、
沈黙の中に、
**“選別の目”**が芽を出している。
誤字脱字はお許しください。




