第104話 書かなかった理由
104話です。
朝の井戸は、静かだった。
水を汲む音だけが、
一定の間隔で響いている。
◇
紙は、もう特別なものではなくなっていた。
倉庫の入口。
井戸のそば。
市場の端。
どこにでも置かれている。
「気づいたことは、書いてください」
◇
命令ではない。
お願いですらない。
ただの“案内”。
◇
それでも、
多くの人が立ち止まり、
紙を見るようになった。
◇
書く者もいる。
書かない者もいる。
だが――
“書かなかった者”の理由は、
誰も聞かなかった。
◇
ミナは、
紙の前を通り過ぎるとき、
いつも胸が少し苦しくなる。
(……何も気づいてないわけじゃない……)
◇
ただ、
言葉にするほどの確信がない。
それだけだ。
◇
先生は、
いつも通り、何も言わない。
◇
授業は、
今日も短かった。
◇
先生は、
机代わりの箱に腰掛け、
ぽつりと聞いた。
「昨日、
紙に何か書いた人はいる?」
◇
数人が、
ゆっくりと手を挙げた。
◇
「ありがとう」
それだけ。
◇
「じゃあ、
書かなかった人は?」
◇
誰も手を挙げない。
◇
ミナも、
リオも、
ただ黙っている。
◇
先生は、
責めることも、
理由を聞くこともなかった。
◇
「今日はね、
“書かなかったこと”について考えよう」
◇
空気が、
わずかに張りつめる。
◇
「書かなかった理由は、
人それぞれだ」
◇
「気づかなかった」
「確信がなかった」
「余計なことをしたくなかった」
◇
「どれも、
間違いじゃない」
◇
ミナは、
少しだけ息を吐いた。
◇
「でも――」
◇
先生は、
言葉を選ぶ。
◇
「“理由がある沈黙”と
“理由を聞かれない沈黙”は、
似ているようで違う」
◇
リオが、
小さく眉をひそめる。
「……どう違うんだ?」
◇
「理由がある沈黙は、
自分のものだ」
◇
「でも、
理由を聞かれない沈黙は――」
◇
先生は、
間を置いた。
◇
「“空白”になる」
◇
誰かが、
喉を鳴らす。
◇
「空白はね、
放っておくと、
誰かが“埋める”」
◇
ミナの背中が、
ひやりとする。
◇
(……昨日の……
“静かすぎないか”……)
◇
授業が終わると、
人々は静かに散った。
◇
その日の昼。
市場の端で、
小さな揉め事が起きた。
◇
「……あの件、
誰も書いてなかったらしいぞ」
◇
「え?
でも、見てた人はいるはずだろ」
◇
「うん。
でも……
誰も“書いてない”」
◇
その言葉が、
妙に重く落ちる。
◇
ミナは、
その会話を聞いて、
足を止めた。
◇
(……書いてない……
それが……問題に……?)
◇
別の声が続く。
「……じゃあ、
隠してるってことか?」
◇
空気が、
変わった。
◇
誰も名前を出していない。
誰も責めていない。
◇
それでも、
“疑い”が、
形を持ち始める。
◇
夕方。
倉庫の入口に、
新しい紙が置かれていた。
◇
「書かなかった理由があれば、教えてください」
◇
ミナは、
その文字を見つめた。
◇
理由。
◇
書かなかったことに、
説明が求められる。
◇
(……いつの間に……)
◇
先生は、
その紙を見て、
何も言わない。
◇
ただ、
静かに畳み、
ポケットに入れる。
◇
「今日は、ここまで」
◇
帰り道。
リオが、
低い声で言った。
「……先生」
◇
「うん」
◇
「これ……
ちょっと、おかしくなってきてねぇか?」
◇
先生は、
すぐには答えなかった。
◇
街の様子を、
一度、見回す。
◇
紙を見る目。
書く手。
見て見ぬふりをする視線。
◇
「おかしいよ」
◇
あっさり言う。
◇
「でもね、
これは“悪意”じゃない」
◇
「じゃあ……なんなんだよ」
◇
「“安心したい気持ち”だ」
◇
ミナは、
その言葉を胸の中で繰り返す。
◇
安心したい。
だから、
知らせる。
だから、
書く。
だから、
理由を求める。
◇
その夜。
誰かが、
紙に書いた。
◇
短い一文。
「特に気づいたことはありません」
◇
それを見た別の誰かが、
首を傾げる。
◇
「……それ、
わざわざ書く必要ある?」
◇
そして、
こう続けた。
◇
「“気づかなかった”ってことを、
書いてるのは……」
◇
言葉は、
最後まで出なかった。
◇
だが、
沈黙が続きを語っていた。
◇
書かなかった理由。
書いた理由。
そして――
書いたこと自体の理由。
◇
街はまだ平和だ。
誰も裁かれない。
誰も連れていかれない。
◇
ただ一つ、
昨日より確かに進んだことがある。
◇
“何もしなかった”ことが、
説明を求められ始めた。
◇
先生は、
灯りの下で、
ノートを閉じる。
◇
小さく、独り言のように言った。
「……質問が、
危険になる一歩手前だな」
◇
窓の外。
誰かが、
紙をめくる音がした。
誤字脱字はお許しください。




