第103話 知らせておいたほうがいい
103話です。
朝、鐘は鳴らなかった。
それだけで、
街の空気は少しだけ軽かった。
◇
井戸のそばで、
二人の大人が話している。
声は低い。
笑顔もある。
「昨日のあれさ……」
「ああ、見てた」
◇
“見てた”。
その言葉が、
もう特別ではなくなっている。
◇
ミナは水桶を運びながら、
その会話を聞いてしまった。
(……昨日の、通過の話……)
◇
「問題なかったよな」
「うん。ちゃんと理由もあった」
◇
理由。
まただ。
◇
倉庫に着くと、
先生はまだ来ていなかった。
その代わり、
入口のそばに紙切れが置いてある。
◇
小さな紙。
文字は少ない。
「何かあれば、声をかけてください」
◇
誰が置いたのか、
書いていない。
◇
子どもが聞く。
「これ、なに?」
◇
大人が答える。
「親切だよ。
困ったら、
ちゃんと伝えられるだろ」
◇
ミナは、その紙を見つめた。
(……“伝える”って……
誰に……?)
◇
先生が来たのは、
いつもより少し遅かった。
◇
紙に気づき、
何も言わず、
それを拾って畳む。
◇
そして、
ポケットに入れた。
◇
「今日は、少し歩こう」
◇
街を一周する。
それだけの授業だった。
◇
途中、
先生は立ち止まらずに話す。
「昨日ね、
街に“役割”が生まれた」
◇
誰もが知っている。
けれど、言葉にされるのは初めてだ。
◇
「今日は、
その役割が“連絡”に変わる日だ」
◇
ミナの胸が、きゅっと縮む。
◇
通り角で、
小さな騒ぎがあった。
◇
子どもが、
決められた場所ではないところで
遊んでいた。
◇
「こら、そこは……」
◇
注意の声。
強くない。
◇
だが、
別の大人が言う。
「まあまあ。
でも、一応……」
◇
「一応、何?」
◇
「先生に……
伝えといたほうがいいかもな」
◇
その場が、
一瞬だけ静まる。
◇
子どもは、
遊びをやめた。
◇
ミナは、
その様子から目を離せなかった。
(……何も起きてないのに……)
◇
先生は、
歩いたまま言う。
「今のがね」
◇
全員が、
息を詰める。
◇
「“知らせる”が
“正しい行動”に変わる瞬間だ」
◇
誰かが、戸惑って言う。
「でも……
悪いことじゃないだろ?」
◇
先生は、否定しない。
◇
「悪くない。
むしろ、
最初は“善意”だ」
◇
「困る前に、
知らせておいたほうがいい」
◇
「問題が起きる前に、
共有しておいたほうがいい」
◇
「全部、
間違っていない」
◇
ミナは、思う。
(……じゃあ、どこが……?)
◇
先生は、
足を止めた。
◇
「“誰が決めるか”だよ」
◇
静かだが、
はっきりした声。
◇
「何が問題か」
「何を知らせるべきか」
「誰に伝えるのか」
◇
「それを、
“自然に正しい人”が
決め始めたとき」
◇
先生は、
地面を指した。
◇
「そこに、
境目が生まれる」
◇
誰かが、言う。
「境目……?」
◇
「知らせる側と、
知らせられる側」
◇
「説明する側と、
説明を求められる側」
◇
ミナは、
昨日の“通過”を思い出す。
◇
理由が通れば、安心。
通らなければ――。
◇
「その境目はね、
見えない」
◇
「でも、
越えられない人が
必ず出る」
◇
歩きながら、
先生は続ける。
◇
「知らせることが増えると、
次は“残す”が欲しくなる」
◇
「残す……?」
◇
「言った、言わない」
「聞いた、聞いてない」
◇
「そういう争いを避けるためにね」
◇
ミナの背中が、
ぞくりとする。
◇
(……それ……
昨日の紙の続きだ……)
◇
倉庫に戻ると、
朝の紙が、増えていた。
◇
「気づいたことは、書いてください」
◇
誰も命じていない。
誰も強制していない。
◇
それでも、
鉛筆が置かれている。
◇
先生は、
その紙をじっと見た。
◇
「これも、善意だ」
◇
誰かが、うなずく。
◇
「でもね」
◇
先生は、
ゆっくりと言う。
◇
「善意は、
集まると“基準”になる」
◇
「基準は、
外れる人を作る」
◇
ミナは、
息をするのを忘れた。
◇
「今日の授業は、ここまで」
◇
誰も不満を言わない。
◇
むしろ、
考え込んだ顔で散っていく。
◇
夕方。
井戸のそばで、
ささやき声がした。
「……あの家、
最近、静かすぎないか?」
◇
「一応……
書いとく?」
◇
ミナは、
その言葉を聞いてしまった。
◇
振り返ると、
紙と鉛筆を持った手が、
少しだけ震えている。
◇
(……悪意じゃない……
でも……)
◇
空は、
相変わらず曇っていた。
◇
街は今日も平和だ。
誰も捕まらない。
誰も怒鳴られない。
◇
ただ一つだけ、
昨日と違うことがある。
◇
「気づいたこと」は、
もう“自分の胸の中”に
留めなくていいことになった。
◇
その夜。
先生は、
ポケットから畳んだ紙を取り出し、
そっと火にくべた。
◇
燃える紙を見つめながら、
小さく呟く。
「……次は、
“書かなかった理由”が
問われるな」
◇
炎が揺れ、
紙は灰になった。
◇
街のどこかで、
鉛筆が、静かに走り始めている。
誤字脱字はお許しください。




