第101話 善意の名をした線
101話です。
朝の準備は、滞りなく進んでいた。
鍋は並び、
水は満たされ、
役割も、自然に分かれている。
誰が決めたわけでもない。
だが、誰も迷わない。
◇
「今日は、あの人が火番だな」
「昨日もそうだった」
軽い声。
確認の声。
◇
ミナは、その会話に引っかかりを覚えた。
(……“昨日も”って……
いつから、数えてるんだろう……)
◇
昼前。
倉庫に、先生はいなかった。
代わりに、
いつもの円も、線もない。
子どもたちは、
自然と集まってきている。
◇
「先生、今日は来ないのかな」
「忙しいんじゃない?」
◇
誰も不安がらない。
それが、少し不思議だった。
◇
外で、声がする。
「なあ……」
「ちょっといいか」
大人の声。
◇
鍋の近くで、
三人が立ち止まっていた。
◇
「昨日さ……」
「理由、言わなかっただろ」
◇
言われた男は、戸惑った顔をする。
「……言わなきゃ、だめか?」
◇
「いや、だめじゃない」
「ただ……」
言葉が濁る。
◇
「みんな、心配してたからさ」
◇
責める調子ではない。
怒りもない。
むしろ、気遣いだ。
◇
ミナの胸が、ざわつく。
(……これ……
昨日の授業で言ってた……
“善意の線”……)
◇
男は、しばらく黙ったあと、
短く言った。
「……私用だ」
◇
空気が、一瞬だけ止まる。
◇
「私用って……」
「どんな?」
◇
問いは、柔らかい。
声も、穏やかだ。
◇
だが――
そこには、はっきりした方向があった。
◇
男は答えなかった。
◇
すると、
別の声が重なる。
「まあ、いいじゃないか」
「やることはやってる」
◇
救う声。
庇う声。
◇
その瞬間、
ミナは気づいた。
(……今……
“分かれた”……)
◇
理由を聞く側。
聞かなくていいと言う側。
◇
どちらも、善意だ。
◇
どちらも、
「街のため」だと思っている。
◇
先生の言葉が、
遅れて胸に浮かぶ。
――善意は、揃ったときに怖くなる。
◇
倉庫に戻ると、
先生がいた。
何も描いていない。
ただ、座っている。
◇
ミナは、我慢できずに聞いた。
「先生……
今日……
変な空気だった……」
◇
先生は、少し考えてから答えた。
「うん。
線が一本、引かれたね」
◇
「誰が引いたんですか……?」
◇
先生は、首を振る。
「誰でもない」
◇
「だからこそ、消しにくい」
◇
ミナは、唇を噛む。
「……悪いこと、した人はいないのに……」
◇
「そう」
先生は、静かに続ける。
「“悪意のない正しさ”が、
一番、扱いが難しい」
◇
先生は、
床に小さな印を描いた。
線ではない。
点でもない。
ただの、角。
◇
「ここが、境目だ」
◇
「質問が、
“考えるため”から
“測るため”に変わった」
◇
ミナは、息を呑む。
(……測る……
誰が、どこにいるか……)
◇
「測り始めると、
人は安心する」
◇
「安心すると、
揃えたくなる」
◇
「揃えると――」
◇
先生は、
言葉を止めた。
◇
「……揃わない人が、
目に入る」
◇
外で、笑い声がする。
いつも通りの街だ。
◇
でも、
ミナはもう分かってしまった。
この街に、
“見えない印”が
刻まれ始めていることを。
◇
それは、
まだ名前を持たない。
誰も、
「悪意」とは呼ばない。
◇
けれど――
次に何かが起きたとき、
その印は
“当然の顔”で使われる。
◇
先生は立ち上がり、
倉庫の扉を開けた。
「今日は、何もしない」
◇
「ただ――
どんな“質問”が、
どんな顔で投げられるか、
見ておこう」
◇
その日の夕方。
街では、
「大丈夫か?」という言葉が、
昨日より少しだけ、
重く響いていた。
誰もそれを、
疑問に思わなかった。
チョークシリーズは他の先生の物語もありますのでよろしければご覧ください。




