第100話 理由を聞かれる日
100話です。
朝の空気は、昨日と変わらなかった。
鍋は出され、
水は運ばれ、
火は――
少し遅れて点いた。
それだけの違い。
◇
「……今日、遅くない?」
誰かが言った。
責める声ではない。
確認するような、軽い声。
◇
「さっきまで来てなかったよな」
「寝坊かな」
笑い声も混じる。
◇
ミナは、そのやり取りを聞きながら、
胸の奥が小さく波立つのを感じていた。
(……昨日なら……
誰も気にしなかった……)
◇
火を見る役の男が、遅れて現れた。
「悪い。子どもが熱出してさ」
「ああ、そりゃ大変だ」
誰も怒らない。
誰も責めない。
◇
それなのに。
ミナは気づいてしまった。
(……みんな……
“理由”を聞いて……
納得してる……)
◇
その日の配膳は、問題なく終わった。
量も同じ。
流れも同じ。
誰一人、困っていない。
◇
それでも、
昨日とは違う何かが、
確かに街に残っていた。
◇
倉庫で、子どもたちが集まる。
先生は、今日は円を描かなかった。
代わりに、
地面に小さな四角を描いた。
「今日は、
“やらなかった話”をしよう」
◇
沈黙。
◇
「昨日、
火を見る人が来なかったら、
どうなったと思う?」
子どもたちは顔を見合わせる。
◇
「誰かが代わりにやった」
「ちょっと困った」
「待った」
◇
先生は頷く。
「全部、正しい」
◇
「じゃあ、もう一つ」
間を置く。
「今日、
来なかった“理由”は必要だったかな?」
◇
空気が、少し張る。
◇
ミナは、正直に答えた。
「……分からない……
でも……
聞いて、安心した……」
◇
先生は、その言葉を否定しない。
「うん。
安心するのは自然だ」
◇
「でもね」
声を落とす。
「理由が“必要”になった瞬間、
“やらない自由”は半分になる」
◇
誰かが、息を呑む。
◇
「昨日までは、
“やらない”は、そのまま置いておけた」
「でも今日は、
“やらない”に説明がついた」
◇
先生は、四角の中に点を打つ。
「説明は、
理解のための道具だ」
「でも――」
点の外に、もう一つ点を打つ。
「使い方を間違えると、
“線を引く道具”にもなる」
◇
リオが、眉をひそめた。
「線……?」
◇
「“納得できる理由”と、
“納得できない理由”」
◇
誰も言葉を出さない。
◇
「今日は納得された」
「でも、もし次があったら?」
◇
ミナの喉が、きゅっと鳴る。
(……次は……
“また?”って……
思われる……?)
◇
先生は、
その沈黙を肯定するように続けた。
「そのとき、
誰も『悪意』を持たなくても――」
「街は、
“見る目”を持ち始める」
◇
倉庫の外。
配膳のあと片付けをする大人たち。
何気ない視線。
何気ない確認。
「今日は来てるな」
「今日は遅かったな」
◇
記録はない。
名前も出ない。
けれど――
覚えられている。
◇
「監視っていうのはね」
先生は、静かに言った。
「高い塔からじゃなくても始まる」
◇
「“気にしている”という行為が、
積み重なった先に生まれる」
◇
ミナは、胸の奥が冷えるのを感じた。
(……怖い……
でも……
誰も悪くない……)
◇
先生は、最後にこう言った。
「だから――」
「“やらない理由”を、
すぐに差し出さなくていい」
◇
「理由を話すかどうかも、
選んでいい」
◇
誰かが、ほっと息を吐いた。
◇
「明日も、
鍋は炊く」
「でも――」
一拍置く。
「“やらなかったこと”を、
すぐに測らないでほしい」
◇
倉庫を出ると、
夕暮れの街が広がっていた。
静かだ。
穏やかだ。
それでも――
人の視線は、
昨日よりほんの少しだけ、
長く留まるようになっている。
誰もそれを、
悪意とは呼ばない。
まだ。
だがその瞬間こそが、
悪意が生まれる直前だった。
チョークシリーズは他の先生の物語もありますのでよろしければご覧ください。




