第1話 チョーク一本とスラムの子どもたち
初投稿です。
12月11日改稿
目が覚めたとき、世界は灰色だった。
低い雲が垂れ込めていて、湿った空気が喉に張りつく。
鼻を刺すのは、腐りかけた野菜と泥と人の体臭が混ざった匂いだ。
ここがどこなのか、わからない。
何をしていたのかも思い出せない。
ただひとつ――
右手に握られた白いチョークの感触だけが、やけに馴染んでいた。
「おい、兄ちゃん。死んでねぇよな?」
声の方を見ると、やせた少年がこちらを覗き込んでいた。
頬はこけているのに、目つきだけは鋭い。
「……ああ。生きてるよ」
「ここで寝てっと、蹴られて金取られんぞ。
運がよかったな。今日は“見回り”が来なかったから」
“見回り”という言葉が、妙に引っかかった。
役人か、用心棒か、それとも教団の誰かか。
あまりろくな相手ではなさそうだ。
「ここは?」
「バルツの“底”だよ。
上の連中が見たくねぇもんが全部落ちてくる場所」
スラム、というやつだろう。
上半身を起こし、自分の服を確かめる。
擦り切れたけれど一応は服と呼べるもの。財布のようなものは見当たらない。
記憶は霧がかかったように曖昧なのに、
チョークだけはしっかり指に馴染んでいる。
少年がそれを指差した。
「それ、何?」
「これは……」
名前はわかる。けれど、自分とどう関係があるのかが抜け落ちていた。
「……たぶん、僕が一番まともに扱えるものだ」
近くの木の板に目をやる。
壁に立てかけられた、泥で汚れた板。まだ書けそうだ。
そっとチョークを当て、線を引いた。
キュッ――。
白い線は、迷いなくまっすぐ伸びた。
少年が目を丸くする。
「お、おお……曲がらねぇ……!」
言われて、ようやく自分でも気づく。
手は震えていないし、線はまったくぶれていない。
口が勝手に動いた。
「線が曲がるのはね、“どこへ向けて引くか”決めてないからだよ」
「は?」
「行き先が決まってないと、手が迷う。
迷えば震える。震えれば、線は曲がる」
「……よくわかんねぇけど、なんかかっけぇな」
少年が笑う。その声に釣られるように、周囲から子どもたちが集まってきた。
「なになに?」「字か?」「なんか書いてる!」
服はボロボロ、頬はこけている。
それでも、目だけはよく動いている。
「兄ちゃん、字読めんの?」
「少しくらいなら」
そう答えた瞬間、空気が変わった。
このあたりでは、“字が読める大人”はかなり珍しいらしい。
少なくとも、子どもたちにとっては。
僕は板の上に丸をひとつ描いた。
「これはなんだと思う?」
「……丸」
「そうだね。でも、これは“君たち”でもある」
「オレら?」
「うん。簡単な形に見えるけど、中身はいろいろ詰まってる」
子どもたちは顔を見合わせて、同時に首をかしげた。
「ねぇ」
僕は丸から目を離さずに尋ねる。
「君たち、なんでここで暮らしてるの?」
さっきの少年が肩をすくめた。
「決まってんだろ。ここしかねぇからだよ。
仕事もねぇし、飯もねぇし、親もここだったし。
“静かに働いて文句言うな、神さまは見てる”ってさ」
後ろの子が、誰かの真似をするような口調で続ける。
「“沈黙は美徳です”って、教会のおばさんも言う」
別の少女が、小さな声で歌い始めた。
口を閉じて 目を閉じて
おとなしくしていよう
声を出さずに 涙も見せず
静かな子は良い子だよ
他の子たちも、自然とその歌を口ずさみ始める。
「それ、どこで覚えた?」
「ちっちゃいころからずっと聞いてた。
教会のおばさんが、寝る前に歌うんだよ」
僕は心の中でうなずいた。
(うるさくするな、文句を言うなって言葉を、
歌にすれば“優しいこと”みたいに覚えられる。
よくできているけど……残酷なやり方だな)
「じゃあさ」
僕は丸の横に線を引き、子どもたちの方を向いた。
「今、“ムカついてること”ってある?」
「いきなりだな!」
「あるに決まってんだろ」
最初は笑いながらだったが、すぐに本音が出始めた。
「飯が少ねぇ」「寒い」「役人が蹴る」「スープ薄い」
僕はそれをひとつずつ板に書いていく。
飯が少ない
寒い
蹴られる
スープが薄い
「これ全部、“なんで?”ってつけられる」
「なんで?」
「そう。“なんで飯が少ないのか”
“なんで蹴られるのか”
“なんでスープが薄いのか”」
促すと、子どもたちは次々と声に出し始めた。
「なんで飯が少ねぇんだよ!」
「なんで寒いのほっとくんだよ!」
「なんで蹴られなきゃなんねぇんだよ!」
「なんでスープ、あんな水みてぇなんだよ!」
板は“なんで”で埋まる。
僕はチョークを置き、子どもたちを見回した。
「“なんで?”は、何も持ってない人間が最初に持てる武器だよ」
少年たちが息を呑む。
「“そういうもんだ”で飲み込めば、そこで終わる。
でも“なんで?”って思い続ければ、
いつか“こうしたい”が出てくる」
最初の少年が、少し拗ねたような顔で言った。
「……でもよ、考えたって変わんねぇだろ」
「変えられるかどうかは、わからない。
でも、“変えようとするかどうか”は、今すぐ自分で決められる」
言いながら、自分でも不思議だった。
どうしてこんなふうに言い切れるのか。
理由は思い出せないのに、言葉だけが迷いなく出てくる。
それでも、口から出た以上、引っ込めるつもりはなかった。
さっき歌を歌っていた少女が、おそるおそる手を上げる。
「名前……なんて呼べばいい?」
自分の名前を探そうとして、頭の中をまさぐる。
だが、霧の奥に隠れてしまったように出てこない。
少し黙ってから、正直に言った。
「……思い出せない」
子どもたちがざわつく。
「でも、さっき君たちが言ってた呼び方は悪くない」
「どれ?」
「“先生”」
口に出した瞬間、胸の奥で何かがすっと落ち着いた。
「あ、それいいな」
「じゃあ先生!」
「先生だ!」
笑い声が路地裏に広がる。
さっきまでの重たい空気とは違う、少しだけ明るい声だ。
僕はチョークを握り直した。
「じゃあ先生から、最初の宿題を出そう」
「しゅ、しゅくだい……?」
一斉に嫌そうな顔になる。
「今日の夜、寝る前でいい。
頭の中でいいから、一つだけ“なんでだろう”を考えてみて」
「なんで?」
「そうやって考えるのが、もう宿題の一部だよ」
笑いが起きる。
「答えは出なくていい。
“なんでだろう”って一瞬でも立ち止まれたら、今日は合格」
そう言って、僕はチョークをポケットにしまった。
これが、この街での僕の最初の授業だった。
あとから振り返れば、
ここからすべてが始まっていたのだとわかる。
──街を少しずつ変えていくことも。
──教団と正面からぶつかる日々も。
──そして、自分がどこかで壊れていく未来も。
今の僕は、そのどれも知らない。
ただチョーク一本と、
スラムの子どもたちの目だけを頼りに、
前を向いて立っていた。
誤字脱字はお許しを




