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書類に目を通す手が、ふと止まる。

夜の静寂が王太子の執務室を包む中、シオンは椅子にもたれて目を伏せた。


気づけば、心に浮かんでいたのはリシェルのことだった。


なぜ――。


「なぜ、ずっと、彼女の心の叫びを聞かなかったのか?」


己の心に問いかける。

思い返せば、レイモンドと再び顔を合わせたあの日から、何かが狂い始めていた。

怒り。憎悪。

元婚約者たちを陥れたあの男への憤りの感情に、すべてを支配されていた。


「……復讐することしか、見えていなかった」


リシェルの不安も、痛みも、声さえも。

すべて視界からこぼれ落ちていた。まるで最初から、存在していなかったかのように。


いや――違う。見ないようにしていたのだ。

足を止めて、振り返ることができたはずなのに、それをしなかった。


「まるで、魔法にかけられていたみたいだな……」


冗談のように笑ってみせたが、それは自嘲だった。胸の奥では本気だった。


もしかしたら、あの日。レイモンドに会ったあの日――

あの男の“増幅の魔法”に、自分もかけられていたのかもしれない。

それと知らず、望まぬほどに膨れ上がった復讐欲に心を奪われ、暴走していたのではないか。


だが、シオンの中にある“復讐したい”という欲望を増幅させるなど、復讐の対象であるレイモンドにとって自殺行為だ。

では、レイモンドは、朦朧としている意識の中で、ほとんど無意識で増幅魔法をかけてしまったのだろうか。


「……どちらにしろ、引き返せてよかった」


今さらの後悔では遅いかもしれない。

でも、それでも――リシェルが、まだ自分を想ってくれているのなら。


ふと、机に置かれたドレイクの肖像画に目を落とす。

つい先ほど、カイルが持ってきたばかりのものだった。

紫の瞳。リシェルと瓜二つの面差し。


最初に魔獣とリシェルを見たときは、心臓を掴まれたように嫉妬した。

彼女が心を許し、懐いている相手が、自分の知らない男だったから。

姿は魔獣だとしても、中身は成人した男なのだ。


それにあの距離感は異常だった。

もしかしたら、彼女の想いはもう、自分の知らないあの男へと移ってしまったのではないかと。


だが、血の繋がった兄だったのだ――彼は。

リシェルと同じく、大聖女の血を引く者。

恋愛感情ではなく、家族としての絆だったと知れたときの、胸を撫で下ろす安堵感。


リシェルの止めるのも聞かずに、魔獣を切り殺さなくて良かった。

シオンは心の底から安堵した。

もし、切り殺していたら、永遠にリシェルを失っていたかもしれない。


「……リシェル。もう、二度と一人にしない」


どれほどの痛みを、あの子に背負わせてきたのか。

それでも、笑って手を差し出してくれるなら──

今度こそ、離さない。


「リシェル」


強く閉じた瞳の奥で、誓いのようにその名を呼んだ。



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