↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/56

12

魔獣は、今日もおとなしく檻の隅に丸くなっていた。

鋭い爪は地面に伏せ、赤黒い瞳はただリシェルを追うだけ。牙を剥くことも、唸ることもない。


「……今日も、会いに来たわよ」


リシェルが静かに声をかけると、魔獣はぴくりと耳を動かし、のそりと身を起こした。

そして檻の鉄格子まで近づき、鼻先を金属にすり寄せるように押し当てた。


「……くーん……」


切なげな鼻声が漏れる。それは猛獣のものとは思えない、小さく哀しい声だった。

リシェルはしゃがみ込み、そっと指先を檻の隙間から差し出す。魔獣はその手をぺろりと舐めた。


「ふふ。……あなたの名前、“くーん”って鳴くから、“クーちゃん”にするわ。いい? クーちゃん」


「くーん……」


まるで答えるかのように、魔獣はもう一度、同じ声を漏らした。

それを聞いて、リシェルは頬を緩めた。


「……うん、決まりね」



◇



数日後には、誰もが驚く変化が現れ始めていた。


リシェルが呼べば、魔獣は尻尾を揺らしてやって来る。

「クーちゃん」と声をかければ、返事をするように「くーん」甘い声を出し、身体を檻の隙間に寄せてくる。


リシェルは、丁寧に獣の毛を梳いてやった。

始めは、『クーちゃんが貴族の令嬢だとしたら、少しでも綺麗に見目好くしてあげたい』という気持ちからだった。

だが、一緒に過ごす時間が長くなると情が移り初め、純粋な愛情から魔獣の世話をするようになっていった。


最初は固く荒れていた毛並みも、浄化魔法を何度も重ねることで、次第に光沢を取り戻していく。

日々、光を帯びるように変わっていく毛並みに、魔術師団長すら「これは……本当に同じ個体か?」と首をひねるほどだった。


その様子を見ていたシオンは、ある日つい無意識に口を尖らせた。


「……カイル、見たか? あの魔獣、リシェルにすっかり懐いてやがる」


「見た。リシェルが隣にいるときだけ、完全に牙を引いてる。おまけに、舌まで出して嬉しそうにしてたな。……ちょっと、むかつく」


「カイルもか」


「シオンもか」


ふたりは同時に息を吐き、顔を見合わせた。


アランですら、「こりゃ、ほんとにクラリスかもしれんな。あいつは人懐っこい性格だったから」と真顔で呟く始末。


「いや、どうだろう……が、確かに……」


シオンは迷っていた。確証は、ない。ただ、変化だけは明らかだった。


――もし、あれがクラリスだったら?


それとも、獣に成り果てた第三王子・ドレイクが、何らかの理由で懐いているのだとしたら?


誰もが黙して先を語らなかった。



◇



「こんな場所にいつまでもいさせては……この子が可哀そうだわ」


ある日のことだった。クーちゃんは、今日もリシェルにすり寄り、尻尾を振っていた。


いつものように檻の前でクーちゃんをブラッシングしていたリシェルが、ふと漏らした言葉に、護衛たちは狼狽した。


「……今、何と?」


「私の部屋に檻を移してほしいの。この子、毎日ひとりで冷たい地下にいるのよ。もしかしたら、伯爵令嬢かもしれないのに、こんな扱いじゃ……」


「リシェル様、それは――元は伯爵令嬢だったとしても今は魔獣ですよ!?」


魔術師が顔をしかめ、即座に反対する。しかし、リシェルの瞳は真剣だった。


反対しなければならない、みんなそう思った。

だが、聖女様の言い出したことに、反対できる者はそう多くはない。

頼みの綱のシオンは、カイルとアランを連れて辺境の森に探索に行っている。

クラリスかドレイク、どちらかが化身した魔獣を探しに行ったのだ。

「しばらく帰って来れない」と言い捨てて。


「……責任はすべて私が負います」


そう言いきったリシェルに、誰もこれ以上の反論はできなかった。



◇



檻は、リシェルの部屋の隅に設置された。


「何かあったらすぐに大声を出してください。絶対に扉の鍵を開けないように。何か魔法をかけられたら、すぐに浄化するように」


魔術師たちがくどくどとリシェルに注意をして、去っていった。


リシェルは、振り向いて檻を見た。

部屋の雰囲気に合わせ、木製の装飾で覆われたそれは、一見すると調度品のようにすら見えた。


「クーちゃん、ここなら、寂しくないね」


魔獣は嬉しそうに尻尾を振り、リシェルの足元に鼻先を押し当てた。

毛並みはもう、まるで絹のように艶やかで、あの地下牢の中で暴れていた凶獣の面影はどこにもない。どうみても甘えん坊の大きなペットだ。


——かわいい


そう思った。リシェルは優しい動物が大好きなのだ。


夜。


ふと目を覚ましたリシェルは、違和感に気づいた。

――重い。……あたたかい。


「……え?」


もぞ、と動いたシーツの上には、大きな黒い獣が、すっかり丸くなってリシェルの腕に顔をうずめていた。


「……クーちゃん……!?」


クーちゃんは、リシェルの驚いた声にぱちりと目を開け、くーん、と一声鳴いた。

そして、ごろんと仰向けになって、お腹を見せる。


「ちょ、ちょっと……どうやって檻から……!?」


朝になって確認すると、檻の鍵は開いており、自分で手を伸ばして鍵を開けた痕跡があった。

――やはり知性があるようだ。

それから毎日、クーちゃんは夜ごと鍵を開け、リシェルの隣へとやって来る。


初めは驚いたリシェルも、数日経てば、もう当然のように毛並みに指を滑らせながら、まどろむようになっていた。もう、鍵もかけていない。


「……甘えん坊なんだから、もう……」


彼女の声は、まるで子守唄のようにやさしい。

クーちゃんはその膝に頭をのせ、まるで母のぬくもりを求めるように身を委ねた。



――ドレイク。

オルドヴァ王族に名を連ねる男。

だが、彼は1歳の時までしか母の愛を知らなかった。


リシェルのあたたかさが、自分に向けられた初めての温もりに感じた。

ドレイクはクーちゃんとして、檻を出てまで、ただリシェルのそばにいたかった。


彼女の手のひらが、自分を撫でるたびに、心の奥の何かが癒されていく。

鋭かった爪も剥きだした牙を、少しずつ、忘れてゆく。

ドレイクは、今まで生きてきた年月の中で、一番の幸せを噛み締めていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。