12
魔獣は、今日もおとなしく檻の隅に丸くなっていた。
鋭い爪は地面に伏せ、赤黒い瞳はただリシェルを追うだけ。牙を剥くことも、唸ることもない。
「……今日も、会いに来たわよ」
リシェルが静かに声をかけると、魔獣はぴくりと耳を動かし、のそりと身を起こした。
そして檻の鉄格子まで近づき、鼻先を金属にすり寄せるように押し当てた。
「……くーん……」
切なげな鼻声が漏れる。それは猛獣のものとは思えない、小さく哀しい声だった。
リシェルはしゃがみ込み、そっと指先を檻の隙間から差し出す。魔獣はその手をぺろりと舐めた。
「ふふ。……あなたの名前、“くーん”って鳴くから、“クーちゃん”にするわ。いい? クーちゃん」
「くーん……」
まるで答えるかのように、魔獣はもう一度、同じ声を漏らした。
それを聞いて、リシェルは頬を緩めた。
「……うん、決まりね」
◇
数日後には、誰もが驚く変化が現れ始めていた。
リシェルが呼べば、魔獣は尻尾を揺らしてやって来る。
「クーちゃん」と声をかければ、返事をするように「くーん」甘い声を出し、身体を檻の隙間に寄せてくる。
リシェルは、丁寧に獣の毛を梳いてやった。
始めは、『クーちゃんが貴族の令嬢だとしたら、少しでも綺麗に見目好くしてあげたい』という気持ちからだった。
だが、一緒に過ごす時間が長くなると情が移り初め、純粋な愛情から魔獣の世話をするようになっていった。
最初は固く荒れていた毛並みも、浄化魔法を何度も重ねることで、次第に光沢を取り戻していく。
日々、光を帯びるように変わっていく毛並みに、魔術師団長すら「これは……本当に同じ個体か?」と首をひねるほどだった。
その様子を見ていたシオンは、ある日つい無意識に口を尖らせた。
「……カイル、見たか? あの魔獣、リシェルにすっかり懐いてやがる」
「見た。リシェルが隣にいるときだけ、完全に牙を引いてる。おまけに、舌まで出して嬉しそうにしてたな。……ちょっと、むかつく」
「カイルもか」
「シオンもか」
ふたりは同時に息を吐き、顔を見合わせた。
アランですら、「こりゃ、ほんとにクラリスかもしれんな。あいつは人懐っこい性格だったから」と真顔で呟く始末。
「いや、どうだろう……が、確かに……」
シオンは迷っていた。確証は、ない。ただ、変化だけは明らかだった。
――もし、あれがクラリスだったら?
それとも、獣に成り果てた第三王子・ドレイクが、何らかの理由で懐いているのだとしたら?
誰もが黙して先を語らなかった。
◇
「こんな場所にいつまでもいさせては……この子が可哀そうだわ」
ある日のことだった。クーちゃんは、今日もリシェルにすり寄り、尻尾を振っていた。
いつものように檻の前でクーちゃんをブラッシングしていたリシェルが、ふと漏らした言葉に、護衛たちは狼狽した。
「……今、何と?」
「私の部屋に檻を移してほしいの。この子、毎日ひとりで冷たい地下にいるのよ。もしかしたら、伯爵令嬢かもしれないのに、こんな扱いじゃ……」
「リシェル様、それは――元は伯爵令嬢だったとしても今は魔獣ですよ!?」
魔術師が顔をしかめ、即座に反対する。しかし、リシェルの瞳は真剣だった。
反対しなければならない、みんなそう思った。
だが、聖女様の言い出したことに、反対できる者はそう多くはない。
頼みの綱のシオンは、カイルとアランを連れて辺境の森に探索に行っている。
クラリスかドレイク、どちらかが化身した魔獣を探しに行ったのだ。
「しばらく帰って来れない」と言い捨てて。
「……責任はすべて私が負います」
そう言いきったリシェルに、誰もこれ以上の反論はできなかった。
◇
檻は、リシェルの部屋の隅に設置された。
「何かあったらすぐに大声を出してください。絶対に扉の鍵を開けないように。何か魔法をかけられたら、すぐに浄化するように」
魔術師たちがくどくどとリシェルに注意をして、去っていった。
リシェルは、振り向いて檻を見た。
部屋の雰囲気に合わせ、木製の装飾で覆われたそれは、一見すると調度品のようにすら見えた。
「クーちゃん、ここなら、寂しくないね」
魔獣は嬉しそうに尻尾を振り、リシェルの足元に鼻先を押し当てた。
毛並みはもう、まるで絹のように艶やかで、あの地下牢の中で暴れていた凶獣の面影はどこにもない。どうみても甘えん坊の大きなペットだ。
——かわいい
そう思った。リシェルは優しい動物が大好きなのだ。
夜。
ふと目を覚ましたリシェルは、違和感に気づいた。
――重い。……あたたかい。
「……え?」
もぞ、と動いたシーツの上には、大きな黒い獣が、すっかり丸くなってリシェルの腕に顔をうずめていた。
「……クーちゃん……!?」
クーちゃんは、リシェルの驚いた声にぱちりと目を開け、くーん、と一声鳴いた。
そして、ごろんと仰向けになって、お腹を見せる。
「ちょ、ちょっと……どうやって檻から……!?」
朝になって確認すると、檻の鍵は開いており、自分で手を伸ばして鍵を開けた痕跡があった。
――やはり知性があるようだ。
それから毎日、クーちゃんは夜ごと鍵を開け、リシェルの隣へとやって来る。
初めは驚いたリシェルも、数日経てば、もう当然のように毛並みに指を滑らせながら、まどろむようになっていた。もう、鍵もかけていない。
「……甘えん坊なんだから、もう……」
彼女の声は、まるで子守唄のようにやさしい。
クーちゃんはその膝に頭をのせ、まるで母のぬくもりを求めるように身を委ねた。
――ドレイク。
オルドヴァ王族に名を連ねる男。
だが、彼は1歳の時までしか母の愛を知らなかった。
リシェルのあたたかさが、自分に向けられた初めての温もりに感じた。
ドレイクはクーちゃんとして、檻を出てまで、ただリシェルのそばにいたかった。
彼女の手のひらが、自分を撫でるたびに、心の奥の何かが癒されていく。
鋭かった爪も剥きだした牙を、少しずつ、忘れてゆく。
ドレイクは、今まで生きてきた年月の中で、一番の幸せを噛み締めていた。




