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3

リシェルの手が、そっとその女性の頬に触れた。

血が滲み、荒れ果てた肌。けれど、その表情には確かに人間だった痕跡が残っていた。


「……この人を、ご存じなんですね?」


リシェルが振り返り、アランに問いかけると、アランが傍へやってきて地面に両膝を着いた。

彼は女性の顔を見下ろし、一瞬、目をぎゅっと瞑った。


そして、まるで何かを飲み込むように、眉をひそめた。


「……ありえない。だけど、顔立ちは……いや、間違いない」


アランは重く口を開いた。


「……アイリーンだ。カイルの、昔の婚約者だった女性だ」


「やはり……!」


リシェルは息を呑んだ。


「でも……彼女は、他国へ行ったのではないのですか?」


「そうだ。カイルを捨てた。平民の男に惚れて……名前は、確かレイモンドだったか。

国を出て、そいつと幸せに暮らしてると思ってた……。俺の婚約者も、シオンの婚約者も一緒のはずだ」


アランの声はひどく冷えていたが、そこには困惑も滲んでいた。

リシェルは視線を落とし、魔獣化したアイリーンの亡骸を見つめた。


彼女の体からは、もう生命の気配はまったく感じられない。

ただ、遺体として静かに横たわっているだけだった。


「……亡くなってます。最後に人間の身体に戻してあげたいですが、たぶん、無理だと思います。お顔も完全には、戻っていません。身体も……どこまで人間に戻せるかわかりません。それならいっそこのままの方が……」


アランは小さく舌打ちし、両手で顔を覆った。


「こんな姿で戻ってきたら、カイルがどう思うか……」


「……カイル様には、このお姿を見せない方がいいかもしれませんね」


「そうだな。こんな姿を見せられるわけがない。……アイツがどれだけこの女を想ってたか、傍で見てきた俺が、一番よく知ってる」


アランの瞳が、いつになく苦しげに揺れた。


「忘れたように振る舞ってたが、完全に吹っ切れてたわけじゃないんだ。今、もしこんな姿を見たら……。

まさか、アイリーンは魔獣の姿に変えられていて、カイルを襲った魔獣が彼女だったなどと言えるわけがない……。残酷すぎるぜ」


「それなら、このまま埋葬しましょう。誰にも見られないように」


リシェルは、そっとアイリーンの瞼を閉じながら言った。


アランは黙って頷くと、周囲を見渡した。


「少し離れたところに、丘があった。そこで眠らせてやろう。あんたが持っているスコップは埋葬に使うためだったのか」


「ええ……魔獣は人間が変化したものじゃないかと推測していましたから」


二人は無言で穴を掘り、静かに、丁寧に、亡骸を土へと返した。

風の音だけが通り過ぎていく中で。


埋葬を終えたあと、アランは丘に咲いていた花を植え、そっと胸に手を当てた。


「……せめて、あの世では安らかに眠れよ、アイリーン」


リシェルは、そっと祈りの魔法を捧げた。

その光は淡く辺りを包み、少しだけ、草木や花の色が濃くなったように見えた。



森の魔塔から王都の魔塔へ戻る転移陣の中で、リシェルは黙ったまま、深い思考の海に沈んでいた。

やがて、転移を終えて通路に出たところで、アランは精気のない顔をリシェルに向けた。


「どうしてアイリーンと思ったんだ? リシェルはあの魔獣が人間だとわかったから、あそこに確かめに行ったんだろう?」


「……呪いが、変でしたから」


アランが歩みを止めて振り返る。


「呪いが、か?」


「はい。……カイル様にかけられていた呪いは、“誰にも(さわ)れないし、誰にも(さわ)られない”状態にするというものでした。変な呪いですよね」


「確かに、妙だった。それに、誰の治癒魔法も通じず、医師も手を出せない。だが……それが、どうして?」


「……呪いですから、魔法とは少し違うのです」


リシェルは立ち止まり、遠くを見つめながら言葉を続ける。


「その呪いは、カイル様に危害を加えるためのものじゃない。“誰にも()れてほしくない”という、強い感情が核にあります。まるで、嫉妬深い恋人のようです。だから、ああいう形の呪いになったんだと思います」


アランが息を呑む。


「……つまり、“カイルを誰にも渡さない”ってことか?」


「はい、そのようなものだと思います。きっとそれは、“独占”なんです。誰もカイル様に()れさせたくない。そして、反対にカイル様自身も、他の女性に()れないで欲しい。

つまり、自分以外の婚約者や妻を作らせない、ということです」


「アイリーンの……歪んだ執着、ってやつか」


「ええ。愛していたから誰にも奪われたくなかった。だから、“()れられない”身体にした。誰の愛も、温もりも届かないように……」


アランは眉をひそめた。


「……まさか、じゃあシオンに呪いをかけた魔獣は——」


「……たぶん、シオン様のことを深く想っていた方です。でなければ、あんな呪いをかけないでしょう。魔法じゃなくて、呪いなんですよ? ……それは強い感情……執念に近いものかもしれません」


「エリザベスか……」


「私、確かめたいんです。もし……もしも、シオン様を襲った魔獣が人だったのなら、どうしてそうなったのか。彼女たちに何があったのか」


アランは少し間を置いてから、深く息を吐いた。


「……わかった。それは俺も知りたい。シオンを襲った魔獣は、魔塔の牢に捕らえられてるって話だったな。近々魔獣研究に使われる予定だと聞いた」


「はい。私、許可をとって、その個体に会いに行ってみます。シオン様やカイル様に内緒で」


「一緒に行こう。俺も、そいつの顔を見てみたい。シオンやカイルに内緒で、だな」


リシェルは小さく頷いた。シオンに内緒事にするのは初めてのことで胸の奥がちくりと疼いた。



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