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その日は、午後から、学術式典と呼ばれる、公的行事が行われる予定だった。
開催場所である学園の広間に集まるために、シオンたち三人は中庭を横切る小道を歩いていた。
ふと気が付くと、女子校舎側ある小道を、レイモンドが気取った足取りで歩いているのが見えた。
左右にはエリザベス、クラリス、アイリーンが付き従い、その後ろにはレイモンドに媚びを売るような女生徒たちの姿があった。
「レイモンド様、今日も素敵……」
「うふふ、この前のお話、感動しました!」
取り巻きたちは熱を帯びた声を上げ、周囲の女生徒たちは一定の距離を取って道を譲った。
「邪魔だよ、ほら。僕たちの歩みを止めるなって」
レイモンドは顎で女生徒たちを左右に追いやり、誇らしげに胸を張る。
まるで、自分が本当の王子であるように。
その姿を、遠巻きに見ていたアランが小さく舌打ちした。
「……なんだ、あれは。女子たちを侍らせて、人気者気取りか?」
「本当に、アイリーンたちは何を考えてるんだ……。あんな子じゃなかったのに、一体どうしたんだろ」
カイルも呆れたように眉をしかめる。
しかし、それは単なる序章にすぎなかった。
式典が始まってまもなく――突如、レイモンドが声を張った。
「この国は、王族が民の模範になっていないから、若者が迷うんですよ」
その一言で、空気が変わった。
会場がざわつく。貴族たちの表情が凍りつき、騎士たちは瞬時に警戒の構えを取った。
シオンは一拍、静かに息を吸ってから立ち上がった。心臓が静かに鼓動を強める。
「……今、なんと言った?」
その声は低く、抑制されていたが、会場の隅々まで届くだけの力を宿していた。
「僕の聞き違いでなければ、『王族が民の模範になっていない』と聞こえたが……そこを、詳しく説明してもらおうか」
睨むことはしなかった。だが、視線は一瞬たりとも逸らさず、まっすぐにレイモンドを射抜いていた。
その重さに気圧されることもなく、レイモンドは口元に皮肉めいた笑みを浮かべて答えた。
「聞き違いじゃありませんよ。王族をよく知る、あなたの婚約者さんも言っていました。『婚約者が頼りない』ってね」
その瞬間、隣にいたカイルが剣の柄に手をかけた。だがシオンは、そっと手を上げて制した。
「……カイル」
落ち着けという意思だけを込めて、それ以上の言葉は要らなかった。
しかし、すぐに間に入ったのは、公爵家の夫人だった。笑顔を浮かべたまま、軽い調子で口を開く。
「まぁまぁ、若者の冗談でしょう? 深く取らないでくださいな。少し思慮が浅いだけで、悪気があるわけでは……」
だが、その軽視するような言葉が、火に油を注いだ。
「悪気がなければ、何を言っても許されると? ……なるほど、あなたのお考えでは、王家を“冗談”で貶めても構わないというわけですね」
アランが静かに、だが冷ややかに切り返す。
その目は氷のように鋭く、公爵家の当主すら一瞬、表情をこわばらせた。
だが、公爵家はなおも強気だった。
夫人の夫である公爵が口を開く。
「まあまあ、騒ぐほどのことではない。陛下たちがご臨席されていない間だけの、若気の至りでしょう。王子も、寛容でおられるのがよろしいのでは?」
シオンは、そこでようやく口を開いた。
「羽目を外していいのは、自分の家の中だけです。公の場では、その家の品位が問われます」
静かな口調だったが、その言葉には一片の容赦もなかった。
カイルがすかさず続ける。
「公の場で“王家”を揶揄することを許せば、それは国の根幹を揺るがします。その意味を、本当に理解しておられますか?」
その瞬間だった。
「そのとおりだ!」
「よく言った!」
「その言に賛成いたします!」
「王家を貶める発言は止めていただきたい!」
「シオン殿下は我らの誇りです!」
状況を静観していた貴族たちの間から、次々と声が上がった。
シオンに遠慮して黙っていた者たちが、ようやく口を開いたのだ。
会場は凍りつきながらも、次第に混沌とした空気に包まれていった。
王族への敬意と、それを踏みにじる発言を巡って、場の支配権が激しく揺れていた。
――その時、扉が開く。
国王夫妻の登場だった。
厳かな足取りで入場したその姿に、場の空気が一変する。
混乱は、いったん、収まった。だが――
その翌日、衝撃が王宮を走ることになる。
◇
屋敷の朝は、いつもより静かだった。
そんな空気を破るように、エリザベスが涼しい顔で口を開いた。
「今日、出発するわ。レイモンドと一緒に暮らすのよ」
サロンにいた公爵夫妻は、揃って言葉を失った。
「…………は?」
間の抜けた声を出したのは、公爵だった。
その隣で、紅茶を持ったまま固まっていた夫人が叫ぶ。
「な、なに言ってるのエリザベス!? “学生時代限定の恋”だって、あなた言ってたじゃないの!」
「ええ。でも、恋って素敵ね。レイモンドに本気になったの。好きな人と一緒にいたいって自然なことよね?」
そのあまりに無責任な口調に、母の顔色が青ざめる。
「ちょっと待って。今から行くの? 王宮になんの挨拶もなしに!? あなた、殿下との婚約は?」
「婚約? 解消して。だって、私は彼を選ばなかったんですもの。まあ、わたくしがいなくなったら、自然に消滅するでしょうけど」
「……っ、エリザベス!」
公爵が椅子を蹴って立ち上がる。
「どうするつもりだ。 あの平民の外国人と暮らすなんて許さんぞ! お前は我がブルックフィールド家の誇り……」
「私はあなたたちの人形じゃないわ。だから、思い通りにはいかないの」
その一言で、公爵は目を見開いた。
「……こんなことになるなら……! 殿下の言うことを聞いて、あの男と引き離しておけばよかった……! まさか、娘がこんなに愚かだったとは……」
夫人が隣で頭を抱える。
ちょっと若造の王子をやり込めていい気分になりたかっただけなのに。それが、こんな酷いことになってしまうとは。
「どうして止めなかったの……何度もチャンスはあったのに……! 陛下になんて言い訳すればいいの?」
その時、後ろの扉からそっと覗いていた執事がつぶやいた。
「私たちも、嘘をつかなければよかった。病気と偽って、殿下を裏切ったあの日から、もう道は歪んでたんだ」
周囲が混乱し、崩れていく中、ただ一人、エリザベスだけが口元に笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、皆さん、さようなら。王宮への挨拶はお父様お願いね。私は、心の赴くままに自分の道を歩いていくの。絶対に幸せになるわ」
エリザベスは扉を開け、日の光の中へと消えていった。
残された者たちは、その後に訪れる破滅を、本当の意味でまだ知らなかった。
◇
その朝。王宮に、信じ難い知らせが届いた。
「エリザベスが……いなくなった……?」
シオンは、報告を上げた近衛騎士の顔を見た。
「それは、本当か?」
「はい。身の回りの荷物を持って……どうやらレイモンドという男と共に、国外へ出たようです」
「逃亡……いや、駆け落ちか……?」
「ヴァレンタイン伯爵家ご令嬢、ヘンリエッタ伯爵家ご令嬢も……一緒だったそうです」
「なっ――!」
カイルは持っていた剣を危うく落としそうになり、慌てて掴む。
「王家を侮辱した翌日に、婚約破棄の手続きもせずに国外逃亡!? どこまでふざけているんだ!」
アランは蒼白になりながらも、冷静に状況を整理する。
「これは……単なる恋愛沙汰じゃない。もしや、彼女たちはあの男の背後にいる黒幕に騙されているんじゃないのか?」
「騙されているにしても、だからといって、こんな無責任な別れ方をしていいことにはならないぞ」
「公爵家が関与していた可能性は?」
シオンの問いに、近衛騎士は眉を寄せた。
「その線は薄いと思われます。只今、公爵家では大変な騒ぎになっている模様です。
それに、公爵家としては、エリザベス嬢が王家に嫁いだ方が、利益があるのではありませんか。他国の平民に嫁いでもなんの得にはならないでしょう」
「……確かに、それはそうだ」
シオンの声は低く、静かだった。だが、部屋の空気が一気に冷え込む。
その日のうちに、王家は正式に動いた。
◇
場所は王宮の謁見の間。
王と側近、そして側で控えるシオンたち三人。
そこに、公爵と夫人が呼び出された。
この日、アイリーンの親であるヴァレンタイン伯爵夫妻とクラリスの親であるヘンリエッタ伯爵夫妻も、事情聴取のため呼ばれている。
ヴァレンタイン伯爵夫妻はカイルに、ヘンリエッタ伯爵夫妻はアランに平身低頭で謝罪した。その後、2組の夫婦は、騎士団長と魔術師団長に呼ばれて別室に入った。
王の前で深々と頭を下げた公爵夫妻だが、謝罪の言葉は一言もなかった。
「まさか、あのような軽率な行動に出るとは、我々も驚いております。ですが、なにせ娘はまだ未成年です。若気の至りかと」
公爵は平然と言ってのけた。ここにきて、公爵家は開き直ることに決めたようだ。
「学生時代の一時的な感情でございますから。国外に出たとはいえ、いずれ戻るでしょう。まだ学生の娘がしたことです。目くじらを立てるほどのことではないかと。戻ってくるまで少し待ってやってくださいませんか」
「ほう。公爵家は責任を取らぬというのか?」
王の声が静かに響いた瞬間、空気が一変した。
「王家に嘘をつき、王子を辱め、国の信用を失墜させた。王子と婚約しながら、他の男と逃亡した。貴家の娘が行ったのは、恋ではない。裏切りだ。これは、娘を管理しなかったお前たちの責任だ」
「で、ですが……」
「言い訳は無用だ」
玉座の脇でシオンが叫んだ。
「あなたたちは、何度も機会を与えられていた。だが、エリザベスの無礼を諫めることも、王家に謝罪することもしなかった。それをせず、いつも“若気の至り”だと、一笑に付していたな。娘が王家を軽んじるのは、あなたたちの姿勢に倣っているのだ!」
公爵夫人が怒りに顔を歪める。
「うちの娘は、ただ恋をしているだけです!」
「その“恋”とやらをすれば、何をしてもよいというのか! それがブルックフィールド公爵家の考え方か! 貴様らのいう“恋”で、国民の信頼が揺らぐのだ! 王家がかような侮辱を受けて、笑って済ますとでも思ったか? 余も侮られたものだ」
王が王笏で床を鳴らして、宣言した。
「ブルックフィールド公爵家は、今をもって王宮への出入りを禁ず。
今後、我が子らに関わることも許されぬ。
また、今回の件で被った損害に対し、金一万ルクスの賠償を命ず。異議は認めぬ」
「一万……!? そんな金額、いったい……!」
「払えぬなら、領地を差し出せ」
夫人の顔が引きつり、公爵はその場で崩れ落ちるように頭を下げた。
もう、貴族社会では生きていけない。
この日の一件が、王都中に知れ渡るのは時間の問題だった。
カイルは冷たい目で見つめながら、アランに小声で言った。
「……やっとだな」
アランも、ゆっくりとうなずいた。
「王家を侮辱した代償、身に染みただろうさ」
そしてシオンは、静かに振り返った。
「俺たちは許さない。……あんな風に、俺たちを裏切った者たちを」




