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王家主催の舞踏会前夜のこと。
「シオン様のお召し物はこちらに」
「護衛は増員しました」
「お相手のエリザベス様も明朝には公爵家より参加される予定です。公爵閣下は午前中から王宮で会議がございますので、一足先に到着されるとのことです」
準備は万端。
今夜は王家主催の舞踏会。
未来の王子妃として、エリザベスがシオンの隣に立つことは、すでに決まっている。
当日の午後になった。
シオンは正装に身を包み、控室でエリザベスを待っていた。
カイルとアランも、そわそわと支度を終えていた。
彼らも自分たちの婚約者が来るを待っている。
しかし、時刻は刻々と迫る。
エリザベスの馬車が、来ない。
シオンの胸がどきどきした。
まさか、こんな大事な日に当日キャンセルする気ではないだろうな。
エリザベスに限って、まさかそんなはずは、と首を振る。きっと、彼女は来てくれるはずだ。
だが、その期待も空しく、王宮に使者が駆け込んできた。
「し、失礼いたします! 公爵令嬢エリザベス様は……本日、体調不良のため……舞踏会を欠席されるとのことです……!」
「は……? 体調不良だと? 昨日は元気に学校に来ていたじゃないか!」
カイルが思わず声を上げる。
その報告を耳にして、エリザベスの父・ブルックフィールド公爵が、ぎょっと目を見開いた。
「なんだと? エリザベスが欠席? 私には何の相談もなかったぞ!」
公爵は本気で驚いている様子で、即座に従者を呼び、娘の行方を確認させる。
「さすがに……これは、まずいな」
アランが低くつぶやく。
「エリザベスに、何かあったのか……それとも……」
「それとも、すでに俺たちが知らない“何か”が起こってるってことか。アイリーンとクラリスも来ないしな」
カイルが言い、シオンは口をつぐんだまま、少しだけ拳を握った。
王族の舞踏会。
それは、婚約関係の周知の場でもある。
欠席は、ただの体調不良では済まない“政治的意味”を持つのだ。
重苦しい空気が、控室に立ち込める。
王宮の控室。エリザベスの欠席が告げられ、沈黙が支配した部屋の中、従者が新たに駆け込んできた。
「報告がございます! 本日、公爵令嬢エリザベス様を、王都で目撃した騎士――巡回中の騎士たちが見かけたということです」
「……誰といた?」
シオンの声が低く問う。
従者は、躊躇いながらも答えた。
「学生風の男と貴族女性3人が、連れ立って馬車に乗る姿を見たと……その中の一人がエリザベス様だったと言っています」
その瞬間、控室の空気が凍りついた。
「学生風の男? こんな大切な日にか」
公爵が低くつぶやく。信じられない、という顔で。
アランがシオンの隣で、ぐっと歯を食いしばる。
カイルは、怒りを飲み込んだように唇を噛む。
「その学生風の男ってのは、間違いなくレイモンドだな。それと後の二人は俺たちの婚約者だ」
カイルが絞り出すように言った。
「本当に、何が起きている?」アランの目が鋭く細められる。
そして、静かに立ち上がるシオン。
「体調不良と嘘をついて、王家主催の舞踏会を欠席するなんて、そんなことは許されない。今から公爵邸に行って事情を聞いてみよう。公爵もご一緒しますか?」
その声は、いつになく冷たく、深く、決意に満ちていた。
◇
公爵邸では、公爵夫人が顔色悪く応対していた。
「本当に……娘は体調不良だった、とおっしゃるんですか?」
カイルの声が低く、怒気を含んでいた。
公爵夫人が、視線を逸らしながら答える。
「ええ……ええ、少し熱が出まして。でももう平熱に」
「では、今から舞踏会に出席できますか? 王都でレイモンドと一緒にいるところを見かけた者がいますが、とっくに熱は下がっているんですね」
カイルの口調が鋭くなる。
夫人の顔色が変わった。だがすぐに取り繕うように笑った。
「それは……それはきっと、気晴らしにでも……。今は帰って来て寝ています」
「気晴らし? 王家主催の舞踏会をドタキャンして、気晴らしに、平然と男と外出ですか?」
今度はアランが冷たく問う。
「しかも、その理由が“体調不良”。そんな嘘まででっち上げたんだ」
夫人がたじろぐ。その場にいた執事も沈黙したまま。
「この件、陛下もご立腹です」とアラン。
「それは――」
公爵夫人が慌てて言いかけるが、カイルが一歩前に出た。
「娘が王族に嘘をついたというだけでも、前代未聞の不敬です」
「その上、家ぐるみでそれを隠蔽し、謝罪もない。……王家を、愚弄しているとしか思えませんが?」
ぴたりと室内の空気が凍る。
「……あの子は、本当に、シオン様のことを想っていたのです……」
夫人の声がかすれる。
「それなら、なぜこんなことを……!」
カイルが怒鳴りかけ、シオンがそれを制するように手を伸ばした。
「……もういい、カイル」
静かな、でも凍てつくような声だった。
◇
険悪な空気の中、扉が開く。
「ただいま戻りました。会議を退席すると陛下に報告に行きましたので、少し遅れました」
公爵が現れ、一礼する。年齢相応の威厳があり、紳士的な態度である。
「お帰りなさい、あなた」
公爵夫人が安心したように立ち上がる。
「殿下が少し誤解をなさっていて……」
「誤解?」
カイルが噛みつくように言う。
「王都でレイモンドと楽しげに歩いていた娘を“病気で寝込んでいる”と報告されました。しかも舞踏会は直前キャンセル。その件に関して、誤解も何もないでしょう」
「カイル、同じ気持ちだが、少し抑えて」
とシオンが口を挟む。
公爵は、夫人とシオンの顔を交互に見比べ、困ったように目を伏せた。
「……なるほど。だが、若者同士のこと、少しの息抜きであったのなら、目くじらを立てるほどのことでも……」
「公爵!」
アランが思わず声を上げる。
「王家主催の舞踏会に、事前になんの連絡もなく欠席したんですよ!? その上嘘までついて!」
公爵は静かに頷く。
「では、娘にはしっかり叱責しておきます。それでいいでしょう」
そう言いながらも、その口調にはどこか他人事のような淡々とした響きがあった。
公爵夫人は夫の言葉に満足そうに微笑み、
「やはり少し大げさに騒ぎすぎでしたわね」とすら言ってのける。
「エリザベスに会いたい。彼女の口から、話を聞く必要がある。今は家にいるんでしょう?」
とシオンが静かに尋ねる。
「ええ、戻っていますけれど……殿下とお会いするのは、少し辛いかと」
夫人が口をはさむ。
「体調が万全ではありませんし、情緒も不安定で……」
「先ほど平熱に戻ったと言ったではないか。これ以上、嘘はやめてくれ。そこの執事、案内しろ」
その一言で場が静まり返る。
エリザベスの私室前で扉を背にして、執事が一礼する。
「エリザベス様は中にいらっしゃいます。どうかお怒りを鎮めてくださいますように……」
「怒らせているのは、誰かな?」
とカイルが小声でつぶやく。
シオンは静かに扉をノックし、自ら扉を押し開けた。
エリザベスの私室
中はきれいに整えられ、病人の気配などまるでない。
エリザベスは大きな鏡台の前に座り、侍女に髪を結わせていた。
「あら……」
振り返った彼女は、一瞬目を見開き、すぐに笑顔を作る。
「シオン様。どうなさったの?」
「その問いは、こちらが聞くべきだろう」
シオンの声は静かだが、冷たい。
「君は“体調不良”で舞踏会を欠席したいと届け出た。にもかかわらず、王都でレイモンドと歩いていたと報告を受けている」
エリザベスは一瞬言葉を失うが、すぐに目を伏せて演技じみた声を出す。
「少し気分が沈んでいたの。でもレイモンドさんとほんの少し外に出たら、元気が出るかと思ったの」
「君は、レイモンドと婚約しているわけではないだろう」
その一言に、エリザベスの表情がかすかに揺れた。
「婚約とは、万能なものではないでしょう? なのに、婚約すれば、自由がなくなるの?」
「……なんだって?」
カイルが思わず前に出そうになったのを、アランが肩を押さえて止めた。
シオンはそれを制しながら、エリザベスを見つめる。
「エリザベス。君は、僕のことが嫌いになったのか?」
その問いに、エリザベスは少しの間だけ沈黙する。
やがて、ほとんど呟くように言った。
「どう説明すればいいのか、わからない。シオン様のことは、嫌いじゃないわ。でも、ちょっとわたくしが求めるものと違うかもしれない。シオン様はいつもわたくしのことを気にかけてくださって、優しいけど、なにかトキメクものがなくて」
彼女は鏡台の上の小さな手鏡を見つめた。
「でも……レイモンドさんは、私を“女性として”扱ってくれるの。なんだか胸が熱くなるし、楽しくて……小説の中にある恋をしている気分になれるわ」
その言葉に、空気が一瞬凍る。
「つまり、政略の相手である僕ではなく、“恋愛の相手”を選ぶということか?」
「そんなつもりじゃ」
エリザベスが言いかけたとき、扉がノックされた。
「レイモンド様が、お迎えに参りました」
シオンの視線が、鋭く扉の方に向けられる。
「迎え、だと……? 舞踏会の日に?」
シオンたち三人は絶句した。
階下からエリザベスの声が聞こえる。
「レイモンドさん、今日はどこへ連れていってくださるの?」
「君の行きたいところなら、どこでも。お姫様」
軽やかに笑い合う二人の声が、階段の上にいるシオンたちに突き刺さる。
「まさか、こんな大切な日に、行こうとしているのか?」
シオンが呟く。
そのまま階下に降り、エリザベスとレイモンドの前に立ちふさがる。
「エリザベス。僕との婚約をどう考えている?」
エリザベスは一瞬、目をそらす。
「私は、まだ“学生”ですもの。少しくらい、自由にしてもいいでしょう?」
レイモンドが口を挟む。
「婚約なんて堅苦しい契約は、もう古いと思いませんか? それに殿下。婚約といっても、場合によっては解消することはできるはずです」
カイルの拳がぎゅっと握られた。
その時、背後から公爵夫妻が現れる。
「学生の間くらい、もう少し大目に見ていただけませんか? まだ人生の一番楽しい時期なのですから。娘はほんの気晴らしをしているだけなんです」
母親がふわりと笑い、何食わぬ顔で言い放った。
沈黙が落ちる。
シオンの声が低く、静かに響いた。
「つまり、公爵家は“婚約者が王族を裏切っても、学生だから仕方ない”と考えるのですね?」
空気が張りつめる。
「王族を騙し、嘘をつき、王家の名誉を傷つけても、それは“ほんの気晴らしをしているだけ”と?」
父親である公爵が口を開いた。
「殿下、落ち着いてください。確かに、娘の軽率な行動は反省すべきですが、騒ぎ立てるほどのことでは――」
「騒ぎにしているのは、あなた方の方だ」
アランが低く言い放つ。
「娘が王子に嘘をついた。親として咎めるのではなく、かばうだけ。これが王家に仕える公爵の姿か」
沈黙の中、エリザベスとレイモンドは何も気にせず、出かけて行った。