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授業が終わった放課後の時間。シオンとエリザベスは王都の町でデートをしていた。
王都でも有名な老舗カフェでテーブルを挟んで座っている。
護衛(自称)のカイルは、背後の席にアイリーンと一緒に座っていた。つまり、彼らもデート中だ。
「このケーキ、とっても美味しいですわね」
エリザベスはうれしそうに微笑み、小さなフォークで苺のショートケーキを口に運ぶ。
シオンもカップを手にしながら、少し表情を和らげた。
「気に入ってもらえてよかった。ここは、父上と昔来たことがあるんだ。弟たちには内緒の話だけどね」
「まあ、陛下と?」
「子供の頃だけど。あの時はここを貸し切りにしてさ。楽しかったな。後で、母上に責められたよ。『私も行きたかったのに!』って。母上は出産間近で外出は無理だったんだ」
エリザベスは目を細めて頷くと、そっとバッグから小さな包みを取り出した。
「シオン様。これ、受け取っていただけますか?」
「ん? ……これは?」
包みの中には、手縫いのハンカチが入っていた。
白地に金糸で控えめに刺繍が施されており、角には小さく「E」の文字。
「先日の、剣の授業で少し手を切っていらっしゃったでしょう? あのとき、すぐに包帯を用意できなかったのが悔しくて……」
「これは……エリザベスが?」
「はい。私、刺繍が得意なんです。だから、もしまた怪我をされたら……これで拭いてください。それに、私、自分の分もお揃いで作ったんですよ」
そう言って、エリザベスは、“S”の文字が刺繍されたハンカチを見せた。シオンのSだ。
彼女の可愛さが胸に沁みた。シオンは笑みをこぼすと、丁寧に包み直しながら言った。
「ありがとう。もったいなくて使えないから、怪我しないようにするね。それに、君とお揃いなら、大事に取っておかなくちゃ」
エリザベスの頬がゆっくりと赤くなり、俯いた。
「シオン様がお怪我をされたら、私は……きっと、泣いてしまいますわ」
シオンもエリザベスの声を聞きながら赤面した。自分のことで泣いてくれるという、健気な彼女のことを、とても愛しく思えたのだ。
静かに流れる優しい時間。
この時はまだ、政略結婚の相手という関係を越えた、確かな愛情と信頼があった。
しばらく続いていた、放課後デート。
それはある日、突然終わりを告げた。
「今日は、都合が悪いみたいなんだ」
カイルと二人でカフェに行ったシオンは、店でエリザベスからの手紙を受け取った。
端正な筆跡で「シオン様 急用ができました エリザベス」とだけ書かれていた。
「うん。俺もだ」
カイルも自分宛ての手紙を受け取り肩を落とした。
その日からだった。
エリザベスが、少しずつ距離を取るようになったのは。
観劇の日。
かねてから二人で行こうと楽しみにしていた日だった。約束の時間になっても、エリザベスは現れなかった。あんなに楽しみにしていたのに。
「何か、あったのかな。まさか、事故?」
シオンは心配になり、女子寮を訪ねたが、『外出届が出ています。外出先はご実家です』と管理人に言われた。
礼を言うと、馬車を走らせてエリザベスの実家であるエルバート公爵家を訪れた。
応対に出たのは、エリザベスの母だった。
「まあ……シオン殿下。娘は着替えに帰って来て、つい先ほど出かけたところですが……殿下とお約束があったのでしょうか?」
「観劇に行く約束だったのですが、連絡がないまま、姿を見せなくて」
「まあ、そんなご無礼を。先ほど出かける際、特に何も言っておりませんでした。普段通り笑顔で出かけていきましたのに。どういたしましょう」
驚いた様子の夫人を置いて、シオンは馬車に戻った。
揺れるカーテンの向こうで、思わずため息が漏れる。
そして謝罪もないまま、翌日、授業の合間の昼休みになった。
カイルが肩をすくめながら言った。
「最近、アイリーンが誘いを断るんだよな。用があるって。クラリスも一緒にどこか行ってるみたいだし。以前約束していたデートも当日キャンセルだよ、嫌になるな」
「アイリーンもなのか?」
「うん。何かあったのかな? シオンのところも?」
「エリザベスも、最近あまり話さなくなって。避けられてる、というほどでもないけど、以前と違う。突然、約束をキャンセルするし。昨日なんて、観劇の約束を連絡なしで来なかったんだよ。説明も謝罪も、今のところないままだ。あんなにいいかげんな子じゃなかったのに」
二人の間に沈黙が落ちた。
騒がしい昼休みの空気の中、ここだめ、妙に静かな島のように感じられる。
「俺たち……何か、嫌われるようなことしたか?」
カイルがぼそりと呟く。
「わからない。多分していないと思うけど、気づかずにしているのかもしれない。本人たちに確かめるべきだろうか。ほんと、どこがいけなかったんだろうな」
シオンは自問するように目を伏せた。
喧嘩したわけではない。誤解されるようなこともしていないはずだ。
何か、気持ちが少しずつ、ずれ始めている気はする。
そのずれの正体が、まだ何かもわからないままに。
◇
翌日の昼休み。
以前ならテーブルに並んでいたはずの三人の女生徒たちは、今日も現れなかった。
「……また、来ないな」
カイルが空になった席を見つめて呟いた。
「うん」
シオンも、浮かべた微笑みに、わずかな寂しさを滲ませる。
何も言ってくれないと言うことが、こんなに辛いとは思わなかった。
するとそのとき、躊躇いがちに近づいてくる姿があった。
アランだった。少し気まずそうに、手に昼食の入った袋を持っている。
「……俺も、ご一緒させてもらっても、いいですか」
「アラン?」
カイルが目を丸くする。
「クラリスに断られ続けているんです。この前、『これからは、殿下たちと6人でランチしようよ』って言っていたのに、“先に食べたから”とか、“今日は図書室に行くの”とか……まあ、要するに連れてきてもらえません。でも、見たところ、お二人の婚約者も来ていないんですね」
苦笑しながら、ぽつりと自虐的に言うアランに、カイルが肩をすくめる。
「俺の婚約者もそんな感じだよ。じゃあ三人仲間だな。ここ座れよ」
カイルが空いている隣の席を、ぽんっと叩く。
「僕の婚約者も同じだよ」
シオンが笑ってうなずく。
アランは一瞬、ためらいがちにシオンを見た。
「……ここにやって来ていうのも変ですが、殿下と並んで食事するなんて、本当にいいんでしょうか?」
「敬語はいいから、普通にしゃべれよ」
カイルが口を挟む。
「それに“殿下”じゃなくて、シオンな。俺みたいに、呼び捨てで呼んでやって」
「そうそう」
シオンが優しく微笑む。
「そんな風に“殿下”なんて言われると、僕もそわそわしちゃうよ。敬語も止めてくれ」
アランは一拍置いて、少し頬を赤らめながら、言葉を選ぶようにして言った。
「……わかった。じゃあ、シオン。俺もよろしく」
「こちらこそ、よろしく。アラン」
その瞬間、三人の間にあった微妙な壁が、すっと取り払われた気がした。
もう“婚約者を中心としたグループ”ではない。
“男三人の、心を支え合う関係”が、ここに静かに始まった。
笑い合いながら、ランチの籠を開く。
気づけば、誰も婚約者の話をしなくなっていた。
◇
数日後の昼休み。
三人の少年たちは、場所を移動して、木陰に配置されたテーブルを囲んでいた。
彼らは婚約者が来ることをすっかり諦め、もっと涼しくて3人で食べるのに適した場所を見つけたのだ。
「なあ、シオン。昨日のあれ、美味かったな。レモンの砂糖漬け入りケーキ。あれ王宮のレシピなのか?」
カイルが明るく笑って口にする。
「うん。以前、エリザベスが家から持ってきてくれてね。母親の実家の料理人が考案したらしい。甘さ控えめで僕も気に入って、それから王宮でも作ってもらっている」
「……えっと………」
“エリザベス”
その名を聞いた瞬間、三人の間にふと静寂が落ちた。
なんとなく、気まずい空気が通り過ぎる。
だが、それを破るように、近くのベンチに座っている女子生徒の賑やかな声が、風に乗って流れてきた。
「……ねえ、知ってる? 最近、公爵令嬢のエリザベス様たちがレイモンド様と一緒にお茶してるんだって。昼休みの時間帯って聞いたから、今頃、どこかでしてるはずよ」
「ええ?レイモンドって、あの平民の?」
「そう。王子様ってあだ名の。まあ、確かに顔は王子様っぽいかな。……彼、なんだか、不思議な存在っていうか、なぜか人気あるよね? でも、うーん……」
「言いたいことはわかる。つまりさあ、いくら王子様っぽいっていっても、しょせん“ぽい”ってだけじゃない。本物の王子様のシオン様には負けるわよ。あんな素敵な婚約者がいるのに、エリザベス様、どうかしちゃったんじゃないの」
「だよねー。自分の婚約者の方が素敵だろって言いたいわ。あんなことして、殿下に捨てられたらどうする気だろ。でもさあ、みんな、『王子様ぁー』ってきゃあきゃあ騒いでるよね。よくわからないわー」
シオンが思わず顔をあげる。
カイルも同じように振り返って、気まずそうに言った。
「アイリーンも、その“みんな”の中に、入るのかな」
「クラリスも、だな。そのお茶会で見かけたって、先日誰かに聞いたよ。恥ずかしくなるな」
アランの口調は静かだったが、目はどこか怒りを帯びていた。
「でも、ほんと、なんでだろうな。レイモンドって、剣も弱いし、勉強以外の才能は特にないって噂なのに、女子の間で大人気だ。だけど、あの子たちのように、冷静な子もいるんだな」
カイルが唇を尖らせて続けて言う。
「シオンのほうがよっぽどいいに決まっているのに。……いや、それを言えば、俺たちだって、あいつ以上だろ。顔も、剣の腕も、中身も全部」
「ありがとう、カイル」
「うん、俺も一応礼を言っておこう」
励ましてくれるカイルの気持ちがうれしくて、シオンが思わず礼を言う。隣でアランも苦笑しながら礼を言った。
だが、シオンの心の中にほんの少し影が差す。
エリザベスが心変わりしたとは、思いたくない。だけど、現状はそうとしか思えない。
「単なる誤解だと思いたいけど」
「でも、実際に誰も来なくなってるからな。婚約者の立場って案外脆いものだな」
アランがポツリと落とす。
「あーなんか、むしゃくしゃするな! 男三人だけなら、明日から一階にあるカフェテリアに行こうか?」
カイルがヤケになったように叫んだ。
「それもいいな。あそこは男子校舎内だから、女子禁制だ。いっそさっぱりするぜ。」
アランが力強く頷き、シオンもそれに同調した。
「僕も賛成だ。明日からカフェテリアに行こう。奥に王族専用ルームがあるから、良かったら二人を招待できるよ」
「おー! すごいな! シオン、招待してくれ!」
「さすがだな。是非、招待してくれ」
「じゃあ、後でカフェに連絡を入れておくよ。本当は警備上、僕はあそこで食べるように言われてるんだ」
「ちょっと、俺、緊張してきたぞ」
「俺もだ」
三人は朗らかに笑い合った。