16 アラン視点
【アラン視点】
あの日、シオンは泣かなかった。
婚約者エリザベスが、他国の留学生と手を取り合って去っていった日。
馬車の窓から、最後にちらりと顔をのぞかせたエリザベスは、無神経にもシオンを見て笑顔を見せた――。
それを見詰めるシオンの目は、ひどく静かで、そして……とても悲しかった。
何も言わなかった。
泣くことも、怒ることもなかった。
ただ、黙って馬車が去るのを見送っていた。
あの悲しい目。俺はあの目を忘れられない。
それからずっと、シオンの目の奥には影があった。
どれだけ明るくふるまっても、民の前で笑っても、心は沈んだままだ。
どんな言葉も、響いていないような――そんな目だった。
「女なんて、もういい」って、シオンが呟いたとき、
俺も、カイルも、その気持ちよくわかった。というより、俺らも同じ気持ちだった。
一緒に婚約者に逃げられた仲間だからな。
だが、シオンは俺ら以上に傷ついているだろう、と思った。
あれほどエリザベスを信じて、真っ直ぐに好意を向けていたシオンが、あっさり裏切られて別の男に乗り換えられたんだから。
一緒に夢見た未来を、あっさり捨てられたのだから。
それなのに――。
今、あのシオンが、恋をしている。
あの青い瞳が、こんなにあたたかく、誰かを見つめているのを、俺は初めて見た。
抱きしめているのは、あの少女――リシェル。
不思議な子だった。最初は何者かも分からなくて、治癒魔法もうまく扱えず、おどおどしていた。
けれど、シオンのそばで少しずつ変わっていった。
魔法を磨いて、シオンに必要とされて、自信を得ていった。
そして、本当にシオンの呪いを解いてしまった。
嘘みたいだった。
あの絶望の呪いを解ける人間がいるなんて、夢物語だと思っていたのに。
結局、あれほどの膨大な力がないとシオンの呪いは解けなかったんだ、と俺は理解した。
王宮で魔術師や聖女たちが、いくら解呪を試みても、成功しなかったはずだ。
神殿の結界を吹き飛ぶほどの凄まじい神力があって初めて解ける呪いだったのだ。
君はすごいな、リシェル。すごい聖女だよ。
リシェルの手が、シオンの呪いに触れた瞬間。
シオンは、まるで縛られていたものがほどけたように、リシェルを抱きしめていた。
泣いていた。
本当に、心から泣いていた。
俺は、その姿を見て――。もらい泣きした。
あの日の、馬車の窓から離れていったエリザベスの顔が、ふと脳裏をよぎった。
あれからずっと、シオンの目は曇っていたが、その曇りが、ようやく晴れた。
「やっと、次の恋をしたな……シオン」
誰にも聞こえないように、俺は呟いた。
ようやく、心の底から笑いあえる誰かに、出会ってくれた。
それが、何より嬉しかった。
リシェル。
ありがとう。
俺たちの、大事なシオンを救ってくれて。
きっと、君なら、シオンを幸せにしてくれる。
アランは、涙をぬぐいもせずに、そっと目を閉じた。
◇
夕暮れの森の小道。
一日を終え、森の家に戻る途中、リシェルは薬草籠を抱えて歩いていた。
足音に気づき振り返ったリシェルに、後ろから近づいてきたアランは微笑んだ。
「アラン様! 私、邪魔ですね」
リシェルが慌てて道を譲ろうとするので、アランは静かに首を横に振った。
「違う。……少しだけ、君と話がしたかったんだ」
少し驚いた顔をしたリシェルに、アランは遠慮がちに言った。
「君と出会ってから、シオンの顔が変わった。とても幸せそうだ」
リシェルは、その言葉の意味を理解したのか、顔を赤くした。
「そ、そうでしょうか……わたし、いつも助けられてばかりで……」
「いや。違う。話を聞いてくれ」
アランは、いつもより少しだけ柔らく言った。
「昔、シオンが、婚約者に裏切られた時、あいつは、泣かなかった。怒りもしなかった。ただ、黙ってやり過ごしたんだ」
「……」
「けどな。あれからずっと、目が笑ってなかったんだ。どんなに明るくふるまってても、あいつの傷ついたままの心を、俺たちは知っていた」
リシェルは、悲しそうにアランを見た。
シオンの孤独を、優しく包んでくれた人の顔だった。
「でも、リシェル。君がシオンの手を取って、呪いを癒したとき、シオンは、心から泣いたんだ。ありがとうな、リシェル。シオンを救ってくれて。それだけが言いたかった」
静かな風が吹いた。
リシェルは、ゆっくりと頭を下げた。
「こちらこそ、出会わせてくれて、ありがとうございます。アラン様とカイル様が、シオン様を献身的に支えられたおかげで、私たちはここで会えたのかもしれません」
アランはその意味を考え、ああ、この子はこういう風に考える子なんだな、こんな子なら安心だ、とほんの少しだけ微笑んで、歩き出した。
歩きながら手を伸ばす。
「籠、持ってやるよ」
「はい、お願いします」
リシェルは、その後ろ姿を見つめながら、そっと呟いた。
「アラン様もカイル様も、幸せにならなきゃいけませんよ。たまにはシオン様のことは忘れて自分の幸せを考えなきゃ」
「え? 何か言ったか?」
「ふふ。なんでもありません」
空は、あたたかな夕焼け色だった。