14
神殿でもっとも神聖とされる中央の〈祈りの間〉へと移動した。
高い天窓から差し込む柔らかな光が、白い石の床を静かに照らしている。
万が一に備え、周囲には手の空いている神官が全員、静かに待機していた。皆、緊張を胸に秘めつつ、祈りの準備を整える。
リシェルは、中央に書かれている文様の上に立った。
ここで、自分の中に眠る「封印された力」を解き放つ――そう理解してはいたが、不安は拭えなかった。
(こんな大事になってしまって、本当に、私の中にそんな力があるの……?)
ともすれば弱気になりそうな心を、自分で叱咤激励する。
(いや、今はそんなことを考えている暇はないわ。今は自分を信じるしかないのよ。―――私はきっとできる)
目を閉じ、静かに祈りを捧げる。
その言葉は、誰かに教えられたものではなく、胸の奥から自然に湧き上がった言葉である。
母から聞いた詩歌のような、そうでないような。けれど確かに懐かしさを伴う言葉だった。
意識が薄れ、祈りに没入し始めた、次の瞬間だった。
リシェルの身体から、まばゆい光と、圧倒的な魔力が徐々にあふれ出してきた。
その場にいたシオン、カイル、アラン、そして神官たちが一斉に唖然とした顔をした。
全員が目を見開き、息を呑んだ。祈り続けるリシェルに目が釘付けになった。
最初は、小さく魔力が揺らめいた程度だった。
けれど、空気が揺れ、室内の温度がじわじわと変わっていくのがわかった。
やがて光は膨れ上がり、空気が震え、重く軋むような音が、祈りの間全体に広がっていった。
(だめ、止まらない……!)
リシェルの心は混乱の渦中にあった。
何が起きているのかわからない。けれど、自分の内側で何かが引きちぎれ、別の何かが奔流のように外へと流れ出していく感覚があった。
「力が暴走を始めたかもしれない!」
「力が巨大すぎるぞ!」
誰かの声が響く――だが、その声はリシェルの耳には入らなかった。
リシェルの目は虚ろに宙を彷徨い、どこか遠く、見えない何かに引き込まれていくようだった。
怖い、でも――。
(この先に、何かがある。何か大きなものが目覚めようとしている)
彼女の中で、“何か”が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。
神官の声と同時に、眩い光が周囲を包む。
その場にいた神官長が、驚愕の表情でつぶやく。
「……まさか。これほどの癒しの力……まさか、あの大聖女様の血……?」
「リシェル! 大丈夫か!」
シオンが駆け寄ろうとするが、放たれる魔力が嵐のように周囲を拒絶する。
神官たちは恐れおののき、古参の神官すら「これは……制御を失っている!」と蒼ざめる。
アランが歯を食いしばって叫ぶ。
「まさか、これほどの力だったとは! 近づいたら吹き飛ばされるぞ! 皆、リシェルから離れろ!」
シオンは突風に吹き飛ばされそうになりながらも、リシェルの名を呼び続ける。
「リシェル! 聞こえるか! 僕だ、シオンだ!」
すると、ほんの一瞬、リシェルの瞳に意識が戻った――。
その瞬間、シオンは駆け寄り手を伸ばし、彼女の手を握った。
バチッと、光が弾ける。
リシェルの体からあふれていた魔力が、シオンの中へと吸い込まれていくようだった。
「……っ、これは……!」
その場を見守っていた神官長が息をのむ。
「まさか、王子殿下の呪いの魔力で……リシェル嬢の暴走する力を相殺している?」
アランが呻く。
「そうか、今まで互いに助け合っていたのか! リシェルの魔力が、シオンの呪いを浄化し、同時にリシェルの体内で渦巻く魔力の圧をシオンの呪いが消していた……!」
カイルも理解する。
「つまり……リシェルも、シオンと手を繋がずにいたら、危なかったんだな? 体内で封印されていた強すぎる魔力に、身体を壊されていたかもしれなかったんだ!
これはすごい出会いだぜ!」
神官長が顔を蒼ざめさせる。
「我々が……聖女を殺すところだったのか……!」
暴走の波は次第に収まり、光が静かに消えていく。
シオンはリシェルを抱きしめるように支えながら、震える声で言う。
「もう……大丈夫だ。僕がそばにいる。だから、僕から離れないで」
リシェルはかすかに笑って、目を閉じる。
「ありがとうございます……シオン様がいてくれて、よかった……でも、まだ、これから、です。……始め……ます……」
言い終えた後、突然、空気が震える。眩い光が、まるで空間ごと裂くように溢れ出す。
「リシェル、気を付けて――! また、何か来る! 更に大きなものだ!」
シオンの叫びも届かない。
リシェルの身体が、まるで別の存在のように光に包まれていた。
治癒魔法の力。その本質は“癒し”であるはずなのに、それはまるで灼熱の太陽のようだった。
「これは……これは、ただの治癒魔法じゃない。浄化の力だ! 特大級の浄化が始まったぞ!」
神官が我を忘れて叫ぶ。
アランは剣の柄に手をかけるも、
「ああ、そうか。これほどの浄化の力でなければ、あれは解けないのか」と何かを悟ったようにそっと手を下ろす。
「全てを癒す万能の力。―――これは“神力”です」
神官長がそうつぶやいた。
シオンが目を見開く。
「リシェル……っ!」
そして、すべてが爆ぜた。
光と風の奔流。神殿の結界が破られ、天井からは神聖な文様がきらめく光の粒となって舞い降りた。
肩で息をしながら、彼女の身体を包んでいた光がやわらかく消えていく。
空気に漂っていた緊張がゆっくりとほどけていった。
そして、破れた神殿の結界が再生された。より、強固に。
そして。
静寂のなかに立つ、リシェル。
彼女の傍らにいたシオンが、シャツの袖を捲り上げ、包帯をとり、自分の腕を見つめていた。
「……腕の傷が治った……。跡形もない。…そして……呪いも解けた……」
呟くような声。その手を、ゆっくりと拳にして、握って開いてを繰り返す。
駆け寄って来たカイルとアランが、両側からシオンの身体を抱きしめた。
「本当だ。シオン、痛くない。痛くないぞ!」
「確かに痛くない! 俺もだ! まったく何も感じない!」
呪いは、消え去った。
三人は、確かめるように、そして、喜びを分かち合うように、そして、最後はお互いを称え合うように、しばらく抱き合っていた。そして、二人はリシェルを見て身体を離した。
リシェルがそっと近づいた。
「シオン様……」
「リシェル。君が、僕の呪いを解いてくれたんだね。ありがとう」
「たぶんそうだと思います。ただ……シオン様の呪いを解きたいって、ただそれだけをひたすら願って……」
見つめ合うふたりの間に、暖かい空気が流れる。
柔らかな光に包まれたその場所で、シオンとリシェルが、互いの背中に腕をまわし、抱き合った。
リシェルは力を使い果たしたのか、その身体は今にも崩れ落ちそうなほど力ない。
しかし、シオンの腕は彼女を優しく、けれど決して離すことのない強さで支えている。
「わ、私にも……できました……。シオン様がいつも、『きっとできる』って……言ってくださったから……」
リシェルの声は途切れ途切れで、それでも震えるほどの歓喜がにじんでいた。
愛する人の苦しみを終わらせることができた、その喜びに、心が満たされていた。
「ありがとう」
シオンは、自らの呪いを解いてくれた少女をそっと抱きしめたまま、涙をこぼした。
「ずっと、信じてた。君なら、きっとできるって」
その声に、傍らで見守っていた青年二人が思わず顔を伏せ、涙を流す。
――王子の親友であり、最も信頼する護衛である、カイルとアラン。
ずっとそばにいて、誰よりもその呪いの残酷さを知っていた彼らが、声を押し殺して泣いていた。
「やったな……やってくれたな、リシェル!」
カイルの喜びの声が響く。
アランは泣きながら同意した。
「封印も、呪いも、同時に解けた……素晴らしい力を見せてもらったぞ、リシェル」
シオンは、リシェルをかけがえのない宝物のように、しっかりと胸に抱きしめ直した。
彼女の手が、自分の呪いを解いたその瞬間を――。
その温もりも、震えも、すべてを、決して忘れたくなかったから。
「あなたのような方の力を、我らが封じていたとは……心よりお詫びします。そして、心より、祝福を。聖女様」
傍にいた神官が感極まったように頭を下げた。
「これほど強大な力は見たこともなければ、聞いたこともない。もしや、あの方の血筋かもしれない。“消えた伝説の大聖女様”の……。確かあの方も、紫色の瞳だったような……」
神官長がつぶやいた。