戊型海防艦戦記
架空戦記創作大会2025冬参加作品。お題➀作品となります。よろしくお願いいたします。
私が艦長をしたのは、戊型海防艦の「浜名」と「知多」でした。
海防艦と言うのは、太平洋戦争開戦後に帝国海軍が船団護衛を主目的に急速建造した小型護衛艦のことです。それ以前は、旧式の戦艦や装甲巡洋艦を沿岸警備や練習用に使用するために使われていた艦種でしたが、太平洋戦争がはじまる直前に北方海域の警備用に新規建造された「占守」型から、小型護衛艦に用いられたのは、良く知られているとおりですね。
それまで、せいぜい守るべき航路は台湾や南洋諸島までと想定していたのが、太平洋戦争で南方資源地帯を占領したゆえに伸びた航路を守るべく、ようやく船団護衛の必要性を痛感した帝国海軍が、この海防艦を慌てて作り始めました。
「占守」型を基にした「択捉」型や「鵜来」型は、護衛艦としては装備も艦型も優れていましたが、その分建造に手間のかかる艦でした。これらは、甲型と言われますね。その甲型を簡易化した乙型も建造されましたが、それでも足りなくて、思い切ってより切り詰めて艦名も番号となった丙型丁型も建造されました。
広く海防艦と呼ばれる艦は、ここまでの艦でしょうね。
ところが、その後建造された戊型こと「十和田」型と「三浦」型は、それまでの海防艦とは全く違う建造思想の下で作られました。それゆえに、最近でも商業誌に水雷艇や護衛駆逐艦と書かれたりしていましたね。確かに、戊型はそれらとほぼ同じサイズの艦でしたが、その建造目的はまさしく海防艦でした。
さて、当時海防艦の最大の天敵と言えたのが、潜水艦でした。現代では原子力機関も実用化されて長時間潜航も可能となった潜水艦ですが、太平洋戦争時はディーゼル機関とバッテリーの組み合わせゆえに、バッテリーの充電範囲でしか潜航行動ができませんでした。水中での速力はせいぜい10ノット程度で、潜っていられる時間も短かったのです。
当然、海防艦などの対潜艦艇も、そうした性能の潜水艦を制圧することを念頭に建造されています。最高速力はせいぜい20ノット、丙型や丁型に至っては18ノットも出ませんでした。しかし潜航中の潜水艦を狩りだすのなら、それで十分と目されたわけです。
しかし、三国同盟を締結したドイツで画期的な新動力(ヴァルター機関)を搭載した新型潜水艦が建造中で、その能力は水中最高速力も潜航可能時間も、これまでの潜水艦とは比べ物にならない程のものになる見込みだという情報がもたらされます。
さらに我が海軍艦政本部でも高速潜水艦を研究中で、近い将来これまでにない水中高速性能を誇る潜水艦を、連合国側も投入してくる可能性が浮上していたのです。
もちろん、そんな潜水艦が投入されれば、既存の海防艦では性能不足です。先ほども申しましたが、既存の艦は全て最高速力が20ノットにも満たない艦ばかりでしたから。
そこで艦政本部では、近い将来出現するであろう敵高速潜水艦に対処できる高速海防艦の設計を開始しました。しかし、新規に艦を設計していては時間が掛かり過ぎます。
だからそれまでに建造された艦の設計図が、そのまま流用されました。一つは水雷艇の「鴻」型。もう一つは「松」型駆逐艦です。
水雷艇は戦前軍縮条約対策に、その排水量制限の対象外となる水雷戦闘用艦艇で、実質的には小型駆逐艦でした。一方「松」型は太平洋戦争開戦後、急速に消耗する駆逐艦や、能力が不足した旧式駆逐艦の代替目的に建造が開始された戦時急造駆逐艦です。
戦時急造の「松」型はともかく水雷艇を模範としたことに、現在でも批判がありますね。というのも、戦前設計の艦艇は戦時における急速建造を全く想定せず、その建造コストも工数も大きかったからです。
ただ一応言い訳をさせてもらえば、水雷艇ベースの戊型海防艦も、簡易化できるろことは簡易化した設計になっていました。実際に乗艦した私が言うのだから、間違いありません。
それに設計を流用するということは、それだけ時間を節約できるということです。むしろ、そちらの意味の方が大きかったでしょうね。
「鴻」型流用の海防艦が「十和田」型で「松」型流用の艦が「三浦」型です。それまでの海防艦がいずれも島の名前だったのに対して、戊型海防艦は命名基準が見直されて湖と半島の名前となりました。これは海軍上層部が戊型を海防艦に分類したものの、それまでの海防艦とは一線を画す性能だったため、敢えてこうしたと聞きます。それから、駆逐艦や水雷艇ではないことを敢えて強調するためとも。
まあ、現場の私には本当かどうかわかりませんでしたが。
私がそれまで乗り込んでいた掃海艇の艦長から「十和田」型の「浜名」艦長に就任したのは、昭和18年の12月でした。その頃既に米潜水艦の跳梁は著しく、商船の被害は鰻登りの様相を呈していました。
「浜名」は前年の2月に舞鶴で起工されて、この年の10月に竣工したばかりの新鋭艦でした。遠くから見ると、精悍な水雷艇と間違えそうになるシルエットでしたが、近づくとすぐに水雷艇でないのがわかりました。
まず、水雷艇の象徴とも言うべき魚雷発射管が載っていなかったことです。これは「松」型ベースの「三浦」型も同じで、両艦が海防艦に分類されたのも、この魚雷発射管の全廃であったからと、後に私も聞きました。
また主砲もそれまでの平射砲から口径はほぼ同じながら高角砲での12,7cm単装砲を3基搭載していました。機銃も南方で鹵獲したボフォースの40mm単装機関砲2基に25mm連装機銃4基と、乗り込んだ私はさながら針鼠かと思いました。
ただこれでも、この頃激化する敵航空機の空襲に対しては、力不足だと後々思い知ることになります。
それから、爆雷も旧来の投射器と投下軌条でしたが、最大で100発まで搭載可能と、これも大きく強化されていました。
こうした充実した対空・対潜兵装に加えて、当時の「浜名」には比較的良い乗員が集められていました。もちろん、既に戦争3年目に突入していたので、応召兵や新兵の割合も多くいましたが、それでもかなり数の古参の駆逐艦や海防艦、掃海艇経験者が集められていました。
当時続々と完成する海防艦にあって、これは望外な人事でした。それだけ、上層部としては実質的に水雷艇の「浜名」を優遇していたということでしょうね。
この頃の海防艦をはじめとする新造艦では、乗員の錬成不十分で実戦投入され、短期間で戦没した艦も多かったですから。
加えて彼らの多くが、戦没艦の生存者だったのも、ある意味幸運でした。彼らが身をもって体験した実戦の経験談は、実戦経験のない新兵や応召兵、さらに言えば比較的な安全な防備隊での勤務経験しかない私にとっても非常に有益なものだったからです。
私が就任した「浜名」はその後、舞鶴を中心とした日本海側で訓練を行い、翌年の1月に実戦配備となりました。
舞鶴から横須賀に回航された「浜名」は、船団を護衛してトラック島に向かいました。船団は5隻の輸送船に、本艦と旧式の二等駆逐艦と海防艦が1隻ずつ護衛に付いていました。
東京湾を出て、小笠原諸島沿いに南下しましたが、早速問題になったのが「浜名」と他の艦との速力の差でした。「浜名」は28ノットの俊足を誇りましたが、二等駆逐艦は老朽化で25ノット、海防艦は18ノット、そして雑多な編成の輸送船に至っては一番遅い船が12ノットでした。
ただこの問題は、出港前の会議で判明済みだったので、そこで「浜名」と二等駆逐艦がが実質的な前衛として先行し、船団の左舷ならびに右舷に展開。船団は5隻が3隻と2隻の2列縦隊に並び、その後方を海防艦が守るというものにしました。
こちらとしては、輸送船には3隻と2隻の横隊にしたかったのですが。こうすると、横腹を晒す船を減らして、敵潜水艦の被害を抑えられると思ったのですが、残念ながら船団を組む輸送船の連携が難しいのと、どの船を外側(つまり被雷率の高い位置)に置くかが問題となり、結局縦隊となりました。
東京湾を出ると、もうそこはどこに米潜水艦が潜んでいてもおかしくない海域です。本土近海であっても、こちらの対潜兵装や対潜網の貧弱さを衝いて敵潜水艦は仕掛けてきます。
対する我が船団は、しばらくは館山を発進した基地航空隊機の援護を受けつつ、水測員が新開発の三式水中調音機で敵潜水艦の聴知に努めましたが、やはり最後の頼みは見張り員の眼でした。
戦後当時の連合軍が既にアズディックと言うアクティブ式のソナーを備えていると知った時は、これは勝てないと思ったものですが、この時はもちろんそんなことは知らず、あるものに頼るだけです。
そして、この時は幸運にも米潜水艦の襲撃を受けることなく、サイパン島を経由してトラック島に無事に到着することができました。
船団全てを送り届けてやれやれと思っていた矢先、我々に襲い掛かったのが、米機動部隊による大規模空襲でした。
予定では我々は本土向けの船団を護衛して、その日の午前中に出港する予定でした。そのため、ボイラーに既に点火して、機関を全てぶん回せる状態にあったのですが、これが幸いしました。
敵機の空襲が始まるや否や、私は抜錨と出港、さらには戦闘配置を慌ただしく命じました。
寝耳に水の空襲でしたが、敵機が来た以上戦うだけです。敵機が有効射程に入ったところで「撃ち方はじめ!」を命じました。
その後のことは、正直よく覚えていませんね。何せひたすら、対空射撃しつつ自分に向かってくる敵機を回避するだけでしたから。しかも、最初の内は他の艦船がひしめく錨地内でしたからね。錨地を出たところで、ようやく持ち味の高速と大火力を活かせる状態になりました。
ただ激しい戦闘の中ですからね。最終的に「浜名」は15機の撃墜破を報告していますが、戦後米国側の被害報告と照らし合わせると、せいぜい5機の撃墜と言うのが、正直な戦果だったようです。
それでも、最終的に空襲の終了まで1発の被弾、被雷もなく、戦死者も機銃掃射の3名に留まったのは、あの状況では奇跡と言えましょう。
米国の報告でも「高い防空火力を有する新型フリゲート」を記されたようで、以後米国側は「
十和田」型をそれなりの脅威としてマークしたようです。
ですが、こうした本艦の奮戦も、トラック基地と在泊艦艇壊滅の前では、あまりにも小さな輝きでしかありませんでした。
「浜名」はその後、改めて弾薬や燃料を補給し直し、奇跡的に空襲を生き残った特務艦の「宗谷」と大破しつつも、なんとか沈没は免れた「愛国丸」他数隻の艦艇と共に本土へ帰還しました。
全く九死に一生を得ましたが、本艦の損傷は軽微でしたので、呉で整備を終えるとすぐさま南方航路の護衛艦として投入されました。
それからは、ドック入りでの整備期間を除けば、ほぼ船団護衛で海上に出ているという状況が続きます。
上も本艦に期待したのか、護衛する船団は決まってその頃には貴重となっていた高速貨物船やタンカーが含まれる重要船団ばかりでした。
ですが、先ほど申した通り、対潜装備が貧弱なゆえに、米潜水艦に先手を取られて護衛対象を幾度となく撃沈されてしまいました。それどころか、本艦自身が魚雷攻撃を受けてヒヤッとしたこともありました。
こちらも水中聴音器と自慢の高速を活かして、何度となく対潜戦闘を行いましたが、何分相手は水中の見えない敵ですからね、中々戦果を挙げたと自信をもっては言えませんでした。
確実に戦果を挙げたのは2回で、1回は爆雷で損傷を与えた敵潜水艦が浮上してきたので、高角砲の連続射撃を加えて撃沈した時です。後に救助した敵兵から艦名の「シーラインオン」を確認しています。
もう1回は戦後米側の記録から判明したことですが、こちらが撃沈不確実としていた潜水艦で「ガーナード」でした。ただ同艦の撃沈の際は、他にも数隻の海防艦や旧型駆逐艦も爆雷を叩きこんだので、協同での戦果ですね。
私は「浜名」を9月に退艦しましたが、同艦はその後レイテ沖海戦に参加した後、多号作戦で損傷を負い、マニラで敵の空襲に遭って力尽きました。幸いだったのは、乗員の多くは日本本土に帰還する艦に乗れたことですね。現地に取り残されていたら、悲惨なマニラでの市街戦か、ルソン島の山間部を逃げ回ることになったでしょうからね。
私も戦後組織された「浜名」の戦友会に参加できなくなっていたでしょう。
話を戻すと、私は9月に「浜名」を退艦し、今度は同じ戊型に類別される海防艦「知多」の艦長となりました。
先ほど申した通り、同じ戊型で「知多」が属した「三浦」型は「松」型駆逐艦の設計を流用した艦なので「浜名」よりも一回り大きな艦でした。「松」型との違いと言えば、やはり雷装がなくその分12,7cm連装高角砲1門と機銃が増設されているのが違いでした。
ただやはり、戦前の流麗なスタイルが残っていた「浜名」に比べて無骨という印象を受けましたね。艦内の様々な設備も簡素化されており、より戦うためだけの船と言う色が濃くなっていました。
乗員も以前にも増して召集兵や少年兵の割合が増えて、戦況の悪化を如実に感じ取れましたね。
それは訓練期間にも表れて、着任後わずか2週間余りの訓練のみで出撃となりました、最初の任務は香港と海南島を経由してサイゴンまで行き、日本に戻るというものでした。
ただ出撃直後から沖縄や台湾が空襲を受け、さらにフィリピンに米軍が上陸と言う状況の中での南下でした。もっとも、敵味方の視線がそちらに集中している間に往復できたとも言えましょう。この時期としては奇跡的に、復路で小規模な空襲を受けただけで済み、護衛した4隻の輸送船全てを無事に日本に連れ帰ることができました。
その間にフィリピンにおける決戦は、我が方の大敗北に終わったのはよく知られているとおりです。日本本土に帰還後次なる任務のために南下した際に、日本へ帰還する「大和」「長門」「榛名」「金剛」とすれ違いましたが、その痛々しい姿に連合艦隊も終わりだと実感したものです。
ただ我々護衛艦艇にとっての戦いは、ここからが正念場でした。途絶寸前の南方航路を日本へ向かう最後の輸送船を守るのが、我々の責務でした。
11月に再度南下した「知多」は、今度は海南島からの鉄鉱石輸送を行う輸送船を護衛しました。
しかしこの時は、潜水艦に加えて大陸からの米爆撃機の攻撃を受けました。我々も必死に反撃しましたが、結局上海に着くまでに全ての輸送船を沈められてしまいました。
その後も3回南方からの輸送船団護衛を試みましたが、内2度までも守るべき輸送船が全滅の憂き目に遭いました。幸い「知多」は大きな損傷を受けずに済みましたが、護衛艦が守るべき対象を守り切れないのでは意味がありません。
最後の3回目で、ようやく船団を守り切って六連島まで帰投できましたが、これは奇跡的に米潜水艦との接触が1回切りだったのと、途中悪天候で敵機の来襲がなかったからです。船団自体もわずか3隻に過ぎず、本土に持ち込めた物資はごくわずかなものでした。
そしてこの直後、南シナ海にハルゼー機動部隊が進入し、ついに南方との航路は完全に絶たれました。
「知多」は佐世保で整備を終わらせると、残る航路である日本海での任務のために舞鶴へと移動しました。
本土決戦が目前に迫る中、政府と軍上層部は出来る限りの物資を満州と朝鮮から日本本土に持ち込もうとしていました。私の「知多」も含めて、稼働残存艦艇の仕事はその日本海航路を守ることでした。
え?「大和」の沖縄特攻に出撃する話はなかったのかと?本艦は幸いなことに、先ほど申した佐世保での整備中だったので、加わることはありませんでした。
ただ同型艦の「三浦」と「渥美」の2隻は、機関故障で出撃不能となった「朝霜」と「響」の代替に出撃しました。両艦とも奮戦しましたが「大和」の沈没により作戦中止となり、帰投してきました。ただ両艦とも損傷しており「三浦」は佐世保で「渥美」は佐伯で、大破状態で終戦を迎えましたね。
だから、5月には「知多」の補充乗員に不稼働となった「三浦」と「渥美」の乗員がやってきましたね。私としては戦闘経験の豊富な乗員が加わったのは、心強かったですね。
そして本艦は残存する「雪風」「初霜」「朝霜」「響」と言った駆逐艦や海防艦と共に、日本海航路での任務に就いたわけですね。基本は羅津や清津、元山といった北鮮の港から敦賀や新潟、境港と言った日本側諸港への船団護衛ですね。
ただ当時重油の備蓄が枯渇していたので、まだタンクに備蓄が残っていた旅順や大連、青島まで取りに行ったこともありましたね。
もちろん、そうなると日本海を抜けて東シナ海と黄海に出ることになりますからね、敵の襲撃を受ける可能性も高まりますが、幸いにも我々は攻撃を受けることなく、大連まで行って艦内のタンクを満タンにして、さらに重油満載のドラム缶を艦上に積み込みました。敵襲があれば即座に投棄と言う計画でしたが、攻撃を受ければ一溜りもありません。
それでも何とかして1リットルでも重油を持ち帰るというのが、当時の日本の現実でした。
そうしてまでして燃料を確保して、我々は日本海航路の護衛兼輸送任務を行いました。護衛を行う我々自身も、搭載できるところに大豆や高粱、石炭の入った袋を載せることは日常茶飯事でした。
それまで日本海は敵から天皇の浴槽と呼ばれるほど、その侵入を許さない言わば聖域でした。しかし、それも新型ソナーを搭載した敵潜水艦が進入した6月までです。
宗谷海峡を突破して侵入した敵潜水艦が、次々と日本海で我が方の商船を撃沈していきました。
その時「知多」はちょうど清津から新潟に向かう小船団を護衛していました。ペアを組んでいたのは、駆逐艦「響」でした。
それまで日本海は安全な海でしたが、もちろん空襲の可能性があることや、一度だけ敵潜水艦が進入した前例があったので、警戒は怠りませんでした。そして幸運なことに「知多」も「響」も沈没艦から転属して来たベテラン兵を補充され、練度は高いと自負していました。
佐渡島沖に到達したとき、本艦の三式聴音器が敵潜水艦らしき推進器音を探知し、これに向かって増速して爆雷を投下しました。
さらに船団を敵潜探知位置の逆方向へ逃がした「響」も合流して、両艦で70発近い爆雷を叩きこみました。
すると、海上に浮き上がる油膜と漂流物が確認され、撃沈と判断しました。確実な撃沈確認をするなら、もう少し現場に留まるべきだったのでしょうが、船団を放り出すわけにもいかず、やむなくそこで離脱しました。
ただ戦後この戦果は確実で米潜水艦「ボーフィン」を撃沈していたとのことですね。これ以外にも富山湾でもう1隻仕留めたそうですが、結局「伊122」潜水艦を含めて多数の商船が撃沈されてしまい、またも米潜水艦に名をなさしめただけでした。
そして、いよいよ戦争自体の終わりが見えてきました。本土の空は米軍のB29や艦載機に蹂躙され、潜水艦による封鎖と機雷攻撃により、航路どころか港湾すら封鎖されようとしていました。
8月にトドメを刺すように広島と長崎に原爆が投下され、ついにソ連も参戦しました。
ソ連が参戦した時「知多」はちょうど舞鶴にいました。ようやく完成したボフォース40mm機関銃のコピー製品である五式40mm連装機関銃を25mm三連装機銃の一部に代えて搭載し、試射や弾薬の搭載を一通り終えたところでした。
このため、本艦はただちに稚内へ北上するよう命じられました。ウラジオストクから出で来るソ連艦隊が宗谷海峡を封鎖する可能性があるためです。
同行するのは軽巡「酒匂」と駆逐艦「冬月」でした。当時舞鶴をはじめとする日本海側の諸港や朝鮮南部の港に、呉や横須賀から脱出した巡洋艦以上の艦艇が、本土決戦に備えて温存されていました。
ただ実際のところ艦載機のない空母や燃料をバカ食いする戦艦は、まったく身動きが取れず、主力は我々海防艦や駆逐艦でした。なのでこの時「酒匂」が動いたのは意外でした。どうも海軍上層部は、終戦の匂いをかぎ取って、ここで残存燃料で動かせる艦艇を全て投入する腹積もりだったようです。
同様に北鮮の港には「大淀」と「雪風」が、戊型海防艦の「下北」を引き連れて、向かいました。
これが当時、何とか稼働させられる艦の全てだったのです。ただどの艦も丁型以前の海防艦に比べれば遥かに高速ですからね。我々も翌日には稚内に到着することができました。
稚内では急遽大泊に向かう陸戦隊や、武器弾薬と糧食を搭載しました。陸軍は本土決戦一辺倒で樺太や千島への増援を中々しませんでしたが、海軍では少しでもソ連の南下を抑えるべく、なけなしの陸戦隊をここで投入したのです。
そして、大泊に向かうと岸壁は避難民で立錐の余地もないほどでした。陸戦隊を搭載して来た大発やランチで送り出すと、入れ替わりに避難民が乗って来るという状況です。
ただこの時点では稚内へ向かってから、再び増援兵力を運ぶ予定でしたから、避難民の乗船は大発やランチが往復して運べた数だけでした。それでも「知多」だけでも200名は乗せたでしょうか。
しかし、その後稚内の港湾機能が樺太への増援と樺太からの避難者で飽和状態になったため「知多」は、他の2隻と別れて一度留萌にまで南下しました。これは「知多」が「松」型駆逐艦と同じく艦載艇として、小発を搭載していたからです。
そうして留萌まで南下して避難民を降ろして再度稚内へ向けて北上したのですが、潜水艦らしき推進器音を聴知したので、爆雷を投下しました。米潜に加えてソ連潜水艦出没情報もあったので。
すると、案の定30発以上投下したところで、多量の重油とキリル文字の書かれた木片などが浮き上がって来たので、ソ連潜水艦1隻を撃沈と推定しました。
ただし、我々にとっては樺太の戦況の方が切羽詰まっている状況なので、詳細な戦果確認は行うことなく北上しました。
戦後になって、この潜水艦はソ連軍のL17号潜水艦だとほぼ確実視されています。ソ連太平洋艦隊では、我々の北上を10日頃にはキャッチしており、予定を前倒して潜水艦を派遣したそうです。そのうちの1隻がL17号でした。
ついでにいうと、ソ連軍はこのほかに機雷により1隻、海防艦の爆雷で1隻をそれぞれ喪失しています。実戦経験不足な彼らが、米潜水艦に鍛えられたわが軍と戦うには、少々役不足だったということでしょうね。
そして15日には玉音放送が流れ、戦争は終結する筈でした。しかし、前線から以前ソ連軍の攻撃が続いているとの報告が入っており、我々はその後も樺太から北海道への避難を継続しました。
この間我々は、ソ連の太平洋艦隊の主力艦(巡洋艦)が出て来ないかと警戒しましたが、結局最後まで出てきませんでした。彼らは貴重な大型艦が戦闘で損傷するのを嫌ったのだとか。
そのため、我々の主な敵はソ連軍の航空機でした。こちらの航空機はほとんどないので、制空権はソ連軍が握っていました。
ただソ連の機体は航続距離が短いのと、洋上飛行に不慣れだったようで、飛んできてもせいぜい10機か20機、場合によっては単機で攻撃を仕掛けてきました。もちろん、こちらは全ての火器を動員して対空戦闘を行いました。
終戦までに撃墜したソ連機は10機ほどで、うち1機はシュトルモビク攻撃機だったのは間違いありません。何せ40mm機銃弾が命中して吹っ飛んだのを、私も艦橋から目撃しましたから。
あの時は見ていた誰もが、拍手喝采でしたね。
その後、我々は終戦後の19日まで活動を続けた後、舞鶴への帰投命令を受けました。
前日千島列島の先端にある占守島にソ連軍が上陸し、大規模な艦隊を伴っているという報告に、艦内では救援のために赴くべきという意見もあり、私も同じ気持ちでした。降伏してなお攻撃を続けてくるソ連軍に、誰もが怒り心頭だったからです。
ですが、肝心の燃料がありませんでした。我々は舞鶴に戻るのが精一杯の重油しか残していなかったのです。
これで私と「知多」の戦争は終わりました。
ただ舞鶴に戻ると、今度は復員と言う新たな戦いが幕を上げました。幸いなことに舞鶴には重巡「利根」に、北鮮と樺太から戻って来た軽巡「大淀」と「酒匂」と言った艦艇が残存していました。
本土決戦前に、米軍は海軍の残存艦艇を根こそぎにする計画で、舞鶴にも大規模な空襲を掛ける計画でしたが、それは9月上旬だったため、これらの艦艇は運よく難を逃れたわけです。
舞鶴の海軍工廠で武装を撤去し、居住区を増設した我々は各地へ向かい、残されていた同胞を日本本土に送り届けました。
そして復員業務終了後は、各国への賠償艦としてこれらの艦艇は、戦勝国に持って行かれることになりました。
ただ巡洋艦以上は、ソ連の軍備増強に繋がることを恐れた西側によって解体や原爆の標的艦としての利用となったため、賠償艦となったのは駆逐艦以下です。
当然戊型も、全て賠償艦となるはずでした。しかし、終戦後すぐに海軍の再建に動き出したグループの働きかけで、当時行われていた海上での気象観測業務に必要と言うことで、戊型と甲型の海防艦5隻ずつが日本に残されました。
もちろん「知多」もそのうちの1隻で、戦後気象観測船時代は「日間賀」で、海自への移管後は「しぐれ」として昭和40年代まで使用されたのはよく知られているとおりです。
そして、私が海自移籍後に隊司令として初めて乗り込んだ艦でもあります。
海自時代の思い出も色々とありますが、まあそれはまたの機会にということで。
御意見・御感想お待ちしています。