A ′.君の形
またなんか思いついたので書きました。
ややこしいですが、Aパートの前半部分と後半部分の間の話です。
【A ′】
200X年
「おっと!?」
カゴに鞄を入れる間も惜しんで、急いで自転車に跨ろうとしたのがいけなかったのだろう。勢い余って肩に提げていた通学鞄の金具をサドルに引っ掛けてしまったようで、体がつんのめる。
「……うわぁ、やっちまった。なんだってこんな時に……」
自転車のサドルを見遣ると、その座面、たった今金具が引っ掛かったと思しき箇所が裂けてしまっていた。その内側から、黄色いスポンジのクッション材がチラリと顔を覗かせている。
今年の夏は酷暑で、屋外で強い直射日光を浴び続けた合皮は急激に劣化が進み、破れやすくなっていたのかもしれない。
今朝は珍しく寝坊をしてしまい、部活の朝練に遅刻しそうで慌てて学校へ出発しようとした矢先のこの不運である。ついてない!
放っておくとますます亀裂が広がりそうで気にはなるが、今はとにかく、朝練に向かわなければならない。間に合わなければ、きっと顧問にボッコボコにされる……。
遅刻の恐怖に駆られながら自転車を漕ぐのに必死で、いつしか座面の傷のことからは意識がだんだん逸れていった。
幸い、ギリギリ朝練開始の時刻前に練習場に辿り着くことができた。本来、通学に使用する自転車は指定された駐輪場に停めてこなければならないのだが、とにかく時間に間に合わせることだけを考えていたので、練習場の真裏に直で乗りつけていた。
……人通りも少ない所だし、一日くらいなら置いといてもバレないかな?
雨風を避ける庇もなく陽の光に晒されたその空間に自転車を停め置き、俺は急いで朝練へと向かった。
◆
「げっ、雨降ってきたぜ」
授業間の休み時間、誰かがそう呟く声が聞こえた。教室の窓から外を見てみると、今朝はすっきり晴れていたはずの空がいつの間にか灰色にかき曇り、ポツポツと雨粒を落とし始めていた。
「うわぁ、マジかよ……。今日は悉くついてないなぁ」
今朝は急いでいたこともあり、天気予報を見る暇もなかった。当然、傘など持ってきてはいない。部活が終わって帰る頃までにはやむといいのだが……。
そんなことを考えながら窓の外を眺めているうちに、視界の隅に映ったシルエットに、無意識に視線が吸い寄せられる。
窓際の席に座る、同じクラスの女子、ユリさんだ。ちょうど彼女も降り始めた雨に気づいて窓の外へ顔をむけているようだった。
湿り出した大気の中でも彼女の少し赤みがかったボブカットはサラリと靡くようであるが、そのお人形さんのように整った横顔はなんだかアンニュイな表情を浮かべている。
その佇まいに、思わず目が釘付けになってしまう。
最近は妙に彼女のことを意識してしまっていけない。
ユリさんは俺にとっては高嶺の花と呼ぶべき存在で、委員会活動などでたまに一緒になって世間話をするようなことこそあれど、特別懇意にしてもらっていると言えるほどの仲ではない。彼女からすれば、俺は何十人といるクラスメイトのうちの一人という認識だろう。
それなのに、最近の俺は妙に、彼女のことを意識してしまうことが増えていた。
理由は分かりきっている。
二週間ほど前、俺は放課後のこの教室で、“ユリさんが俺宛に書いた物と見せかけた”ラブレターを自分の机の引き出しから発見したのだった。まあ厳密に言うと、その手紙には差出人名も宛名も書かれてはいなかったのだが。
それは俺のノートに“ユリさんの物と思しき数本の髪の毛”とともに挟み込まれていて、俺を勘違いさせて笑いものにしようというその趣味の悪さへの嫌悪感から、俺はその場でラブレターも髪の毛も両方ゴミ箱にぶち込んで帰っていってしまった。
その時の後味の悪さも少しずつ薄れてきた一方で、俺はあれ以来、以前にも増してユリさんのことを意識してしまうことが増えていっているような気がした。
あの日以降、ユリさん本人も、なんだかボーッとした顔をしていることが多いような。
勿論、それは単なる偶然だろう。彼女は一学年上の先輩と付き合っていると噂されていて、それはほぼ事実だと思われる。だから俺のような一クラスメイトにラブレターを書く理由もないし、あの件をきっかけに俺の印象にユリさんのことがこびりついてしまっただけだ。
そんなことを考えていると、まるで俺の視線に気がついたかのように、ユリさんの目線がこちらに向けられたように見えた。
俺を見てる、と今まさにそういう風に考えてしまっていることこそが、彼女のことを意識し過ぎている証拠だ。
実際俺と目が合ったようにも思われる彼女の視線を、たまたま君越しに外を見てただけだよ、とでもいうような素振りで俺は外す。
◆
放課後の部活を終えて練習場を出ると、昼間降っていた雨はやみ、すっきりとした夕焼け空が広がっていた。
朝から色々とついていない一日だったが、帰り道くらいはさっぱりした気持ちで帰れそうだと思いながら、教室に置いておいた荷物を回収していく。引き出しの中身を浚おうと椅子を引いた時に、脚貫にかけられた雑巾がふわりと揺れたのが見えた。
鞄を提げて駐輪場に赴くが、そこに着いてから、そういえば今朝は自転車を練習場の横に停めたままだったと思い出す。
人気も無くなった練習場そばへと舞い戻り、裏へ回ると自転車はそこに置かれたままになっていた。
見回りの先生に発見され撤去されてはなかろうかとここに来るまでの間冷や汗をかいていたのだったが、なんだかんだで最後は強運を掴めたらしい。
そう思いながら、自転車に跨ったのだが……。
「ぎゃっ!!? つめたっ?!」
サドルに落とした臀部、その接地面にジワッとした不快感と冷たさが立ち昇ってきて、驚いた俺はバッと座面から飛び退き、その場所を確認する。
撤去されていなかったことへの安心感からすっかり意識から抜け落ちていたのだが、今朝ついた傷が全ての原因だった。
昼間降った雨水がサドルの内部、クッション材の黄色いスポンジの中に染み渡り溜まってしまっていたのだ!
なんとか自転車ごと引っくり返して中の水を抜こうとするが、人間の体重を支えられるぐらいの大きさを持つスポンジは染み込んだ水分を強力に蓄えて吐き出そうとしない。
このままでは、俺が体重をかけるたびにジワッジワッと尻に水の冷たさと気持ち悪さが押し寄せてくることになる。
「うえぇ、嫌だなそれは……」
初めはずっと立ち漕ぎのままで家まで帰ろうかと思ったのだが、俺の家は学区内でも端っこの方で学校から遠く、部活の重い荷物も載せて立ち漕ぎし続けるのはあまり現実的ではない。歩きながら手で押して帰るのも難儀だ。
「んーどうするかな……」
そこでふと、先ほど教室でチラリと視界に入った雑巾のことを思い出す。俺が使っている雑巾は元々厚手の丈夫なタオルを母親が縫い直して作ってくれた物で、二学期になってから持って来た物なのであまり使い古してもいない。
……全く抵抗感がないではないが、直で雨水の冷たさに耐えながら帰るよりはマシか。
そう考えて、俺はもう一度、校舎の方へと踵を返す。
◆
昭一君が荷物を持って教室を出ていった後、私は彼の椅子の脚貫に吊られてブラブラと揺れながら物思いに浸っていた。
……あの独り言のようなラブレターをヒントのつもりで挟んだ髪の毛と一緒にゴミ箱に入れられるのを見た時は流石にショックだったけれども、一方で『確かに彼ならああするんだろうな』とだんだん腑に落ちてきていた。
ひとの気持ちが書かれたものをゴミ箱へ直行させるのはちょっとどうなんだろうと思うものの、今のクラスの雰囲気の悪さは私も分かっているつもりなので、そういう風に受け取られるような形を取った私も悪かったんだろう。そう考えられるくらいの冷静さが戻りつつある。
だからわざわざ自分の身体を昭一君の雑巾に変化させてこうしてブラブラしてるのは、なんというか、禊とか反省とかいうのは変だけれども、そうしたい気分だったから。
今の私は雑巾ぐらいがお似合いかな?みたいなね。ふふふふ……。
不思議なもので、しばらく雑巾の姿に身をやつしていたうちに気持ちも軽くなってきた。
誰もいなくなったしそろそろ帰ろうかなぁと思っていた矢先、廊下の方から足音が聞こえてきて、私は揺らしていた身体をピタリと止める。……誰かがこの教室に入ってきた。
誰だろうかと思っていると、噂をすればそれは昭一君だった。
忘れ物でも思い出したのだろうか、この席へ真っ直ぐ近づいてくる。
というか、その視線がずっと私の方を向いてるような……。
えっ、えっえっ、えっ?
私?!!
昭一君は椅子の脚貫に雑巾に擬態してじっとぶら下がっていた私をつまみ上げると、それだけが目当てだったとばかりに回れ右してすぐに教室を後にする。
状況がよく飲み込めないまま、いつもよりも大きな廊下の景色がどんどん前から後ろへと通り過ぎていく。
彼の手の中で、ドキドキしている胸の高鳴りを悟られぬよう必死に押し殺す。どうして雑巾を家に持って帰ろうとしているのだろうと考えながら。
そうして辿り着いたのは、校舎の裏側の方だった。運動部の練習場所になっている辺り。
そこに、彼の自転車が停めてあった。荷物はカゴの中に入れられたままになっている。
「……うん、大きさは申し分ないな」
私を一度広げて何かを確認したように頷くと、彼はもう一度私を二つ折りに畳んだ後、自転車のサドルに押し付けようとしていた。目の前には、一直線に裂けた箇所のある座面のカバーと、そこから覗く黄色いスポンジが迫る。
ふえっ…………?
◆
つ、つめたっ!冷たい〜!!
やめてやめて昭一君!!
私は水が染み込んだ座面と、彼のお尻との間の緩衝材にされようとしていた。
スポンジから滲み出る水分がジワジワと私の身体、折り畳まれたその下半分に移ってきて、すごく変な感じ!
「問題は乗っかった時なんだよなぁ……。全部堰き止めてくれるといいんだけど」
そう言いつつ、座面に私を乗せたまま、サドルとお尻で私をサンドイッチしてやろうと昭一君が自転車に跨る。彼のお尻が眼前に迫る。
や、やだぁ!やだぁ!
少しずつ昭一君がサドルに体重をかけてくる。私の上半分が、彼の身体とピッタリ密着してしまっている。うわぁ、昭一君のお尻すごくあったかい……。部活終わりということもあり、彼の流した汗の匂いと、制汗剤の香りとが混ざり合ってなんとも独特な感じ。うわぁ、これクセになりそう……。
やがて、水分の不快感が許容範囲まで緩和されたのが分かったのだろう。彼はついに、私の上にその全体重を預けてきた。
ふ、ふにゅうううぅぅ!!?
私の身体は今、サドルの全面をすっぽり覆い隠すような形で被せられ、さらにその上から昭一君の体がずっしり乗っかっている状態だ。
座面から染みた水分で少し硬さを持ち始めた私の身体は、昭一君が体重をかけている箇所、そのまんまの形へと押しつぶされているのだった。
う、うわわわっわわ! なんなのこれ!?
今どんな感じなの?!
硬かったり柔らかかったりしてるんだけど?!!
一体何がどんな風に当たってるのこれ?!!
当然ながら、上から昭一君の体が覆いかぶさっているので、私からは何も見えない。
ただただ、昭一君の跨っている箇所の感触と、あとは座面と彼の身体の間との温度差が私に伝わってくる。
自転車を漕いでいるうち、昭一君の体温はだんだんと高くなってきたようで、密着している私にもその熱さがダイレクトに伝わってくる。
一方で、サドル自体は私が緩衝材になっていることもあって彼の体温は伝わらずに冷たいままだ。
その結果、私は上半分は非常に熱く下半分は非常に冷たいという、極端な状況に追い込まれていた。
これじゃあ、上は大火事、下は大水だよぉ!!
感覚が変になるうぅ!!
昭一君の家は学区の中でも端の方なので、まだまだ漕ぎ終わるには時間がかかる。
彼の両脚の躍動と、密着しているところから伝わってくる感触と体温に身を任せ、ほとんど気が遠くなりかけながら、私は彼の家に到着するまでの間じっと耐え続けることを強いられるのだった……。
◆
自宅の軒下に自転車を停めたあと、昭一君はまず雨水で湿ったお尻をなんとかしたかったようで、家に入ってすぐシャワーを浴び始めたようだった。
彼が降りたあと、私は座面にかけられたままになっていて、もしかしたら明日の朝までその存在を忘れられかねないような様子だった。
私の身体は彼の跨っていた箇所の形のまんまで、その表面は早くも少しずつカピカピに乾き始めていた。
「…………っ♡…………♡」
あの極限状態に少しでも身体を適応させようと努めた結果、大変不本意ながら、今の私はちょっとしたトランス状態に陥っているようだった。
あるいは、身体の上半分と下半分とがそれぞれ激しい温度差に晒されたことによって、私の感覚を混乱させ、変な気分に陥らせているのかもしれなかった。いやそうに違いない……。そうじゃないと困る……。
男の子の身体にも柔らかい所はあるんだとか知らなかったし、ずっと体温に晒されてたせいでこっちまでなんか火照ってる感じだし、汗と制汗剤が混ざったあのいいにお……じゃなかった、独特な匂いもしばらく忘れられなさそうだし、本当にあの人は……。
おのれ、昭一君め……。この私にこんな辱めを味わわせるなんて、許すまじ……。
やっぱり彼は、私にとって要注意人物なんだわ……。
今後も引き続き、彼の動向を注視し、情報を集めておかなくては……。
まぁでも、今はちょっとこのまま休憩していこうかな……。
本当は早くこの場から離脱した方が良いんだろうけど、でも体力が戻り切らない状態で無理に逃げない方がいいよね。
もうしばらく昭一君の形のまま、こうしていたい……じゃなかった、こうして周囲の様子を窺っているのが最善手なんじゃないのかな? いや、きっとそうに違いない……。
「…………♡…………♡」
そうして私は、身体に残る彼の体温や香りの名残を感じつつまどろみながら、窓の向こうから微かに聞こえてくるシャワーの音にしばし耳を傾けていたのだった。