Pre-A.いいかげんに城
なんとなく200X年の時系列について掘り下げてみたくなったので書いてみました。
ちなみにタイトルはただの駄洒落です。意味は特にありません。
【Pre-A】
200X年
給食を食べ終えて、私は女子更衣室に指定されている空き教室に向かい、午後からの体育のために制服である長袖の黒いセーラー服から半袖の体操服へと着替え始めていた。
人一倍少食な私は一人前の給食を食べ終えるのも一苦労で、片付けが昼休みの時間に食い込んでしまうことも珍しくない。しかし今日はパンの献立だったので袋のまま持って帰れるのと、前もって当番の人に量を少なくしてもらうようにお願いしていたおかげで、他の人たちよりも早めに昼休みに入れるよう給食の片付けを終えることができていた。
こうして時間に余裕を持って動けるように手配しておいたのは、この後の昼休みに委員会の会合が予定されていたからだった。その会合が始まる前に、一足先に着替えを済ませておこうというわけだ。
二学期に入ってから、私は昭一君と二人一組でクラスの文化委員を担当している。
毎年秋に文化発表会が開催されるこの中学では、当然ながら二学期が最も文化委員の仕事量の多い時期にあたる。私は学年主任の先生から次期生徒会の役員のポストに就く気はないかと半ば公然と打診されていて、自分としてもその提案を前向きに受け取っていたところだったから、この期の文化委員に自薦したことは(客観的に見ても)ごく自然な成り行きであったと言える。
一方、経緯は異なるものの……昭一君が男子側の文化委員を担うことになったことも、ある意味では必然だったと言えよう。私のような事情がある生徒でもなければ、わざわざこんな部活動も学校行事も忙しい時期に仕事量の多い文化委員なんかになりたがる者など基本的にはいない。あるいはやや傲慢が過ぎる考えかもしれないが……私とお近づきになりたいと目論んで文化委員に立候補したがるような男子がいた可能性も、ゼロではなかったかもしれない。ただ、そうしたリスク(将来的な不確実性の振れ幅という、本来の意味としてのリスク)はなるべく取り除いておきたいという観点から、早い時点で既に“露払い”の布石は打っていた。特に私が一学年上のセンパイと付き合っているという噂はクラス内では周知のことだし、そうした状況下であからさまに私に接近しようという動きは誰であろうと取りづらいだろう。そんな訳で、クラスメイトの中でも落ち着いた性格であるが故に最終的に貧乏くじを引くことになりがちな昭一君が文化委員を引き受ける羽目になった時も、その結果についてどう感じるかはともかく、誰もその過程を不自然に思う者はいなかったはずだ。
……こんな風に説明してしまうと、よっぽど私にとって昭一君が関心を引く存在なのだなと思われてしまうかもしれないけど、そういうつもりは全然ないんだって。
ほら、中学二年にもなってみると、本当に色々なことが気になって、面倒事はなるべく早いうちに遠ざけておきたくなるんだよ。周りは誰も彼も思春期真っ盛りな子供ばっかりだからさぁ、勿論私も含めて。
幸い色々な巡り合わせのおかげで、この田舎の公立中学という一種殺伐とした部分もある環境の中でも、私自身は居場所を確保しながら学校生活を送れている。しかし、もし少しでも条件が違っていたら、私のように目立つ特徴のある生徒はイジメられるまではいかなくとも、出る杭は打たれるといった感じで多少惨めな思いをしながら日々を送っていた可能性だってあったと思う。小学生の頃にお母さんからチラッと『私立中学を受験する気はない?』って提案されたことはあったけれど、最近になって何故あの時そんなことを聞かれたのかぼんやりと分かってしまった気がした。勿論、私立に行けば万事上手くいくかと言えばそれは別問題だけど……。
ただそんな中でも、ピアノが弾けるという特長を活かして合唱や校歌斉唱の伴奏を引き受けたり、学年が上の先輩たちとも仲良くしたりして、“安全で快適”な学校生活が送れるように自分なりに頑張ってきた。そこに打算的な考えが介在していないと言えば、嘘になる。けれども、役割を引き受けることで有り難がられることを嬉しく思ったり、先輩たちと交流する時間が刺激的に感じられたりしているのは嘘ではない。色んな種類の人間が入り乱れる公立中学という茫洋の中で、最も効率的でハイリターンな選択肢を選んでいくというのは別におかしな行動ではないだろう。
そういう意味では、昭一君とペアで文化委員になれるように状況を整えておいたのも、メリットが大きいからそうしただけのこと。
彼自身は授業の成績を引き合いに出して「ユリさんと違って自分は頭が悪い」なんて自嘲することがあるけれども、私からすると昭一君はちゃんと頭が回るし他人の気持ちも考えられる人だから、頭が悪いってことはないと思う。
極端な場合、例えば同級生の中でもとりわけ血の気が多い人が相手だと、そもそも意思疎通を図ること自体が困難なケースなんかも正直あったりするんだけれど、昭一君の場合はそんなことはない。
だから、“ある日突然一対一で告白してくる”という危険性も考えなくて済む。ある意味、それが一番重要かもしれない。
センパイと付き合っているという情報が抑止力になっているとは言え、それでも何かを拗らせて玉砕前提で特攻してくる人というのは稀にいる。身の周りで気にしなければならない爆弾が一つ増えるというのは、なかなかに肝が冷えるものだ。
恐らくそうした“不幸な事故”の発端になるのは、思春期特有の不安定さから心のどこかに火がついてしまったような、そういう衝動的なものだろう。かく言う私自身もそれに似たもの、自分の中から湧いてくる欲や好奇心に従ってセンパイと付き合っている部分も少なくないので、そういう行動に出る人の気持ちも全く分からないではない。
だからこそだろうか、昭一君のような人と一緒にいる時間というのは、もしかするとセンパイと一緒にいる時以上に、安心感のようなものがあるのかもしれない。どちらかと言えば、程よく打ち解けた兄弟姉妹と一緒にいる時のような、そういう安心感が。
やっぱり私もこういうお年頃なのでセンパイみたいな人にドキドキしたいという気持ちが心の中の大部分を占めているのだけれど、実際にドキドキする時間が増えれば増えるほど、時にはホッと一息つきたくなるというのが本音だったりする。
昭一君が内心で私のことをどう思っているかは分からないが、『そこまで悪い印象は持たれてはいまい』という謎の自信があった。
逆に私の側からすると、彼のことを“教室では目立たないけれども、実は結構慕われてそうな人”と思っている。……ぶっちゃけてしまえば、個人的にクラスの男子の中で一人選べって言われたら、昭一君になるのかもしれない。でも、今のところは特別親しい間柄って訳じゃないし、一緒になった時も大した雑談以上の話なんかはしない。
昭一君がどういう人なのか気にならないと言えば嘘になるけれど、余計な詮索をした結果今の彼との居心地の良い距離感が変わってしまうというのは惜しい。そもそも、今の状況であまり調子に乗ったことをして、センパイや周囲の人たちにそのことがバレてしまったりしたら、浮気になっちゃうからね。
まだ人も少ない更衣室で、体操服に着替え終わった。女子の体操服は、下は赤いハーフパンツ、上は伸縮性のある半袖の白いシャツに襟と両袖口の三箇所に生地の緩み防止用の赤い縁が付けられた所謂丸首と呼ばれる物が指定されている。また、各生徒の判別のためだろう、胸部全面に白地の大きな名札を縫い付けるよう決められていて、私の着ている体操服前面にも私の苗字と学級名が太い黒マジックの文字で記されている。その名札の上、丸首の左胸のところには、赤い校章のマークが小さくプリントされている。
壁掛け時計に目をやる。ここまでの段取りが想定以上にスムーズだったおかげで、会合まではまだ時間がある。委員会がある時、私と昭一君は会場である会議室で現地集合をすることがほとんどだった。
ちなみに体育の授業は男女別に行われるのだが、男子は今日教室で座学だと聞いているので、昭一君の方は体操服に着替える必要はない。彼はいつも給食を食べ終わるのが早いので、今頃はどこかで時間を潰しているのではないだろうか。
大体こういう空き時間ができた時などは、昭一君は図書室に立ち寄っている場合が多いらしい。これは別に私が彼の行動パターンの統計を取っているとかそういう訳じゃなくて、直接彼自身との雑談で手に入れた情報である。
……そこでふと気づく。時間的に余裕があるし、条件も揃っている。もしかしたら“アレ”ができるかもしれない。
心拍数が少しずつ上昇する。どうしようかなと躊躇する気持ちもないではなかったが、図書室のあるフロアの方へとりあえず足を向けてみることにする。
この学校の図書室は、会議室よりも二つ上の階の隅っこにある。
校舎の古さを物語るモルタル材の灰色が所々剥き出しになった階段を上っていき、視聴覚室や音楽室などの特別教室が多く並ぶそのフロアへと到着する。
まだ昼休みに入りかけの時間帯ということもあり、図書室へと続く廊下に人通りは少なかった。人目がないことを確認の上、私は図書室から最寄りの女子トイレへとこっそり入り、個室の鍵を閉める。
上手くできるだろうか。だんだん緊張が高まってきて、やっぱりやめようかという考えも首をもたげてくる。でも、こういうチャンスはそうそうあるものではない。
やるだけやってみようと覚悟を決めて、自分の身体に宿っている秘密の能力を発動し、変身を開始する。
実は私の身体には、姿形を変える能力が備わっているのだ。具体的には、身につけている衣服を巻き込んで媒介にして、粘土のように流動的な形態を経由して元とは全く違う姿へと変身することができる。これは私にとっての最重要秘密事項で、学校内で私のこの能力のことを知っている人は誰もいない。付き合っているセンパイにも秘密にしている。変な奴だと思われそうで怖いし、もしこの先誰かに秘密を打ち明けるとしても、よっぽど親密になった相手じゃなければ勇気が出ない気がする。たまに、この世で自分一人だけが人間じゃないヘンテコな生き物であるように思える時があって、寂しくなることもないではないけれど……。
まず最初に、私の着ている丸首体操服に縫い付けられた白い名札の表面、黒マジックで書かれた私の名前、その文字の輪郭がグニュグニュグチュグチュと波打ちほぐれていって、やがてだんだん違う文字の形へと変わっていく。
「んっ……!っ………………!」
見た目では名札の上の黒い文字がうねっているだけに見えるかもしれないが、私の感覚的には自分の身体の内側で何かが少しずつ書き換わっていくような、そういう奇妙なくすぐったさが神経を昇ってきていた。吐息が個室の外に漏れないように、必死に両手で口を抑える。
そうしている間に名前の“書き換え”が完了し、元の名前とは全く違う苗字、『冬田』という文字が名札の表面に定着する。そしてその新しい名前と整合させようと、今度は私の肉体そのものが変化を始める。私自身の容姿からかけ離れて、脳内に浮かべたイメージ像をトレースすることで、ある人物と瓜二つの姿へと変貌していく。
「…………!…………っ!」
身体の表面がグニグニとうねって変質していく感覚に、思わず鼻腔から息が漏れる。
私の赤みがかった地毛が真っ黒な色に染まっていき、ほんのり内巻き気味のボブカットだった髪型も肩にかかる手前ぐらいの長さまでシュルンと伸びる。顔立ちも一度原型を残さないぐらいにグニャグニャと粘土の塊みたく歪んでいった後、元の顔よりも丸っこい目鼻立ちを目指して変形していき、やがて私や昭一君にとっては見慣れている『冬田さん』の顔が現れ、定着していく。また、同級生と比べても特に小柄で華奢な私の体格も、身を包む体操服ごと内側からほんのり大きくなっていく。身長が数センチメートル高くなり、申し訳程度だった胸の膨らみも発酵が進んだパン生地のごとく若干大きくなって、体操服の生地越しにもそのフニッとした発達途上の柔らかさを主張し始める。
こうして私は、隣のクラスの同級生『冬田さん』の姿へと変身を遂げた。
冬田さんと私とは一年生の頃に同じクラスで、お互いピアノが弾けるという共通点もあり、特に親しくしていた子だ。二年に進級してからはクラスは隣同士別々になったものの、今でも二クラス合同で行われる体育の授業や音楽室で顔を合わせることは多く、一緒になった時は仲良くお喋りしたりする関係が続いている。
と同時に、冬田さんと昭一君の間にもある関係がある。こういう田舎の中学ではままあることだが、彼らは従兄妹同士なのだ。だから小さい頃から正月などの親族の集まりの場でたまに顔を合わすことがあったのだそうな。冬田さんから聞いたところでは、当時の昭一君は今よりももっとヤンチャな子供で、家にあるラジカセなんかを勝手に分解してしまって怒られたりしていたんだとか。そういったエピソードは普段の教室における彼の寡黙で大人しいイメージとはギャップがあって、とても新鮮に感じられた。
逆に、昭一君にも雑談の流れで当時の冬田さんの様子を聞いてみたことがある。「親戚の子供の中でも男同士で遊ぶことが多かったし、小学校も違ったからそこまでよくは知らないよ」としつつも、「今よりももう少しお転婆で活発な感じだったような……」という情報が得られた。小学校ぐらいまではうなじの辺りで二つ結びにしたいかにも女の子という感じの髪型で、不意に脈絡もなく我儘を言ったりして男の子を振り回すところを見たことがあったそうな。こちらも、今の彼女の落ち着いた雰囲気からすると意外で興味深かった。
後日冬田さんに会った時にその話題について水を向けてみると、「それは昔の話だから……子供の時のことだから……」と頬をほんのり朱に染めながらパタパタと手のひらを横に振って反論してきた。私が何かからかうようなことを言うと、彼女はそうやって羞じらうようなリアクションを取ることがあった。
ちなみに、興味本位で「イトコ同士って実は結婚できるらしいよ。もしかして冬田さんたちにもそういう可能性が……?」と彼女に冗談めかして探りを入れてみたことがある。それに対しては彼女は眉を顰めて渋い顔を作りながら「いやぁ……それはないかな。別に仲悪いとかではないんだけど……」というマジ回答を返してきた。たまに会う程度の親戚同士の関係性というのはそういうものなのだろう。それを聞いた私は、別に自分がそういう対象として昭一君を見ているつもりもないのに、なぜか内心ホッとしていた。まるで最初からそういう回答を期待していたかのような自分に気づいて、我ながら不思議な気持ちになったりした。
余談だが、冬田さんが同じクラスの松山君と良さげな雰囲気になってきているらしいという噂を聞いたのは、それから少し後のこと。
さて、そんな冬田さんの姿に私がなぜ化けたのかと言うと、前々から一度正体を隠した状態で昭一君に接触してみたいと考えていたからだった。当然、この格好で昭一君に話しかければ、彼は私を『ユリさん』ではなく『冬田さん』と認識するはず。『委員会とかで時々一緒になるユリさん』の前では見せないような面を、『イトコの冬田さん』が相手なら見せるかもしれない。
さっき更衣室から出た後の通りがかりに隣のクラスを覗いた時には、冬田さんはまだ給食の後片付けをしている最中だった。おそらく今は更衣室でようやく着替え始めたぐらいだろう。だからこの瞬間は、冬田さんの姿に化けた私が本物の冬田さんとバッティングする恐れはないはず。姿を勝手に借りるのは悪いことだと分かってはいても、こういうことは前々から試してみたいと思っていたもので、結局好奇心には勝てなかった。誓って冬田さん自身の評判を下げるような行為などは取らないので、どうかご勘弁を……。
個室から出て、上手く変身できているか自分の姿を洗面台の鏡で確かめる。自分以外の人間に変身する場合は、単なる物品になりすます時と違って、見た目だけではなく表情や一挙手一投足などにも気を配らなければならないので難易度が高い。だから、こうして他者変身まですることは滅多にない。幸いなことに冬田さんの見た目や仕草は私にとっても見慣れたものなので最低限はシミュレートできるし、体格も私と大幅には変わらないので違和感も少ない。
「あ、あ、あー……」
喉の内側、声帯を微調整して冬田さん本人の声に近づけていく。
実際のところ声質や仕草までもを完全にコピーすることは困難なのだが、図書室の中で身体を大きく動かしたり大きな声を出したりすることはないのである程度は誤魔化せるはず。
最悪、冬田さん本人ではないとバレそうになったら、何かしら理由をつけて急いで離脱しよう……。
大前提として、こうした危険を冒してまで昭一君に接触を試みるのはひとえに、彼に関する多面的な情報を集めておくことによって、ひいては私のこの快適な学校生活をより盤石なものにするためである。
基本的に昭一君は温厚な人だけれども、時々気難しい雰囲気を醸し出すことがある。私としては、無意識のうちに彼の気に触るようなことをして折角の居心地が良い関係性を台無しにしてしまうような事態はなるべく避けたい。かと言って、付き合っている彼氏がいる手前、昭一君についての情報収集を表立ってすることも難しい。そうなると、選択肢としては変身能力を活かし正体を隠しながら密かに偵察をすることが最適解だという結論に達したわけだ。普段とは違う角度から昭一君への理解を深めることによって、少しでも彼の地雷を踏んでしまうリスクをヘッジしようという訳である。
あくまでそうした大義名分のための偵察活動なのだと、私は自分自身を納得させている。本当だってば。無論、『それ普通にストーカー行為では?』と客観的に指摘されれば何も言い返せないような所業だという自覚はあるので、誰にも正体がバレないうちに完遂することが必須条件である。
これまでに、彼の持ち物である雑巾や給食当番のエプロンになりすまして潜伏したことなら何回かある。しかし、他者変身という形で昭一君に接触するのは今回が初めてだった。なんだか、すごく胸がドキドキしている。自分だとバレないようにしないといけない緊張感も勿論あるのだが、それと同時に『冬田さん』という仮面越しに昭一君と接触しようとしているという状況が生み出す高揚感もそこに含まれているような気がした。
物品に化ける場合は、自分が生物なのだと悟られぬようその場から微動だにせず、心を無にして一切のリアクションを起こさないようにすることが基本だ。その場合のドキドキ感は、かくれんぼで鬼役から身を隠している際のそれに似ている。
対して他者変身の場合には、自分の存在へ向けられる認知自体を錯誤させる必要がある。こうして冬田さんの姿に化けた今の私の身体のこの表面は間違いなく自分自身の素肌そのものであるはずだが、同時に着ぐるみで全身を包んでいるような感覚をも覚えているのだった。
『冬田さん』を模した着ぐるみの内側に潜んだ私自身を悟らせず、同時にこの『冬田さん』というガワこそが私の正体であるという風に思わせなければならない。その状況が私に背徳感を覚えさせ、胸の高鳴りに拍車をかけているのかもしれなかった。
この動悸を起こしているものは魅惑的でこそあれ、不愉快ではなかった。
昭一君との時間の中で安心感を確保したいがためにこのような心情に自らを陥れるというのは、なんだか倒錯的にも思われる。しかしそもそも、普段彼と一緒にいる時の安心感があってこそ、このドキドキが生じているのだとも言え、これらは一枚のコインの裏表のように不可分なものであるという考え方もできる。
……ついでにもう一つ付け加えると、私は冬田さんという娘を、結構魅力的な女の子だと思っている。彼女は普段おとなしい性格だからクラスの中心人物として脚光を浴びるようなこともないし、有名な女優さんやモデルさんみたいな分かりやすく秀でた容姿をしている訳でもないため男子連中からアイドル扱いをされているような様子もない。でも、私から見ると彼女が醸し出す品が良くて落ち着いた雰囲気はいかにも“女の子”っていう感じがして、個人的にはもっと彼女とお近づきになろうとする男子がいてもいいんじゃないかと思ったりしている。
そんな“可愛らしい女の子”の姿に自分を重ねるというのは、悪い気はしなかった。世間一般的にストレートとされる嗜好を持つ女子でも、時には同性の娘の可愛さにキュンと胸がときめくようなことがあってもおかしくはあるまいと私は思う。こと今の私みたいにその“可愛い子”の姿そのものになるという状況は、ある意味そんなシチュエーションの極北と言えるのではないか。
鏡に映る自身の姿を見ながら、『やっぱりこの子って可愛いよね』と思っている自分がいる。まるで私の魂があの子の身体に乗り移ったかのような、そんな錯覚に陥りそうだ。思わず自分の手で身体のあちこちを触って感触を確かめてみたくなりそうなところを、生憎今日は時間が限られているので、最低限の確認を終えると私は女子トイレを後にして、図書室の方へと足を向けて廊下を歩き出した。
◆
カラカラカラ……と軽い音を立てながら図書室の扉が開く。
室内のそこかしこに閲覧用の低い木製テーブルと椅子が整然と並べられている。その周りを囲んで空間を埋めるように背の高い本棚がいくつも配置され、それら全面に大量の背表紙がズラリと棚差しされている。
ザッと見渡してみると、やはり昼休みになって間もない図書室にまだ生徒の人影は少なかった。おかげで目標人物一人に対してのみ意識を集中させることができそうだ。
リノリウムの床を歩いて行き、自分よりも背の高い本棚の陰から奥のテーブルを覗いてみると、予想通り昭一君はそこにいた。木製テーブルの上に委員会用に携えてきたと思しき筆記用具とメモ帳を置き、背もたれ付きの木製の椅子に背中を大きく預けるように腰掛けて、何やら分厚い文庫本を読み耽っている。その背表紙に私は興味を引かれた。
この学校の図書室にはブラックジャックや火の鳥などの漫画本も一定数蔵書されていて、昼休みに訪れる生徒間で毎日のように争奪戦が起こる。彼もそれらの漫画を読みに来ることが多いという。なので、今日もてっきり漫画を読んでいるのかと思いきや、彼の手元の文庫本は何かの小説のようだった。
私はあまり読書家ではないので彼がどういう小説を好むのかという話まではしたことがないのだが、彼がどういう本を好んで読んでいるのか気になった。それに、話しかけるにあたってとっかかりとしても使えそうだ。
遠目で少し観察するだけで撤退するプランも想定しながら入室したものだが、実際に彼を目の前にしてみると、結局は緊張よりも彼に話しかけてみたいという好奇心が優った。冬田さんの歩く姿をイメージしながら、なるべく音を立てずそろりそろりと昭一君の方へと近づいていく。
「やぁ。何読んでるの、昭一?」
「──うおっ、ビックリした。……え、何、急にどしたの?」
周りをうろちょろしていては却って悪目立ちするに決まっているので、昭一君の斜め後ろからさっさと小声で話しかけてしまう。本物の冬田さんを真似しようとして静かに歩いて行ったつもりが、結果的に接近する気配そのものを消し去ってしまっていたみたいで、死角から突然話しかけられる形となった昭一君は驚いた様子でこちらを振り返った。
「あはは、ごめんごめん。
通りがかりにたまたま昭一を見かけたから、何の本を読んでるのかなぁって気になって」
その反応にこちらもたじろいでしまったのを悟られないよう半歩下がって身体の後ろで両手をイジイジしつつ、どうすれば自然な話し方に聞こえるだろうかとその場で一生懸命考えながら、周りに響く声にならない程度の音量で言葉を繋いでいく。今更ながら、昭一君と冬田さんが言葉を交わしている場面はこれまで数えるくらいしか目にしたことがないことに気づく。勢いだけを頼りに話しかけてしまったことを若干悔やみつつも、普段とは違うノリで昭一君と会話をしているという状況がだんだん楽しくなってくる。
普段『昭一君』と君付けで呼んでいる相手を『昭一』と呼び捨てにしているのだと意識するだけでも妙にドキドキする。いつもはややかしこまった口調が多い彼が、私に向かって砕けた感じの口調を投げかけているのがなんだか不思議な感じだ。
「あ、そう、珍し……。いやまぁ、別に良いんだけど……。
えっと、気になってた小説をね、ちょっと流し読みしてただけで」
どうやら、実際に昭一君は普段学校で冬田さんと言葉を交わすこと自体が少ないようだった。大した用事もないのに話しかけてきたイトコに対して最初昭一君は若干訝しむような態度を示していたが、訥々とこちらの言葉に答えてくれる。
私が昭一君の持つ文庫本、そのソフトカバーを覗き見ようと身を屈めたので、彼も読んでいる途中のページに指を差し込んだまま私が見やすいようにこちらへ黄土色の背表紙を向けてくれる。大体半分ぐらいまで読み終わっているようだ。
その背表紙には『城 カフカ』という、この上なくシンプルな題名と作者名が載っていた。
「かふか?」
海外の作家さんだろうか。どこかで聞いたことはありそうな名前の響きだが、本にはあまり詳しくないのでピンとこない。
「『フランツ・カフカ』っていう昔のチェコの作家が書いた小説やね。
二十世紀を代表する作家……だとかなんとか、何かで書いてあるのを読んだことがあったから、最近ちまちま読んでるところなんだけど」
チェコの人かぁ。どうりで分からんわけだ。
昭一君って、たまにこういう硬そうな感じの本を読んでることがあるんだよね。
いつもの私だったら『却って話を盛り下げちゃうかも』という理由であまり踏み込まないところなんだけど、折角の機会なのでどういう本なのか尋ねてみる。
「へー、なんかすごそう。どういう話?面白い?」
「うーん…………どういう話、か……」
彼はすごく難しそうな顔をして、どう説明したものか考えているようだ。
「正直、まだよく分からないというか……。
別に難解な言葉とか文体とかを使ってるわけじゃないんだけど、内容自体がすごく抽象的な感じで、『こういう話です』って言い表しづらいんだよなぁ」
いつも以上に辿々しい彼の語り口に都度相槌を入れながら、言葉の続きを待ってみる。
「どういう話……。
ある村にやってきた主人公の測量師が雇い主に会うために城に向かおうとするんだけど、自分が泊まる場所を吟味したり急に恋人ができたり小学校の用務員になったり、関係なさそうなことばっかりに気を取られているうちになかなか城に辿り着かないっていう、そういうあらすじになると思うんだけど……」
その説明を聞きながら私は、なんだか不思議な感じの本だなーと思っていた。巷で話題になったりテレビドラマ化や映画化されたりするような人気のある小説というのは、私の中では『これはこういう内容です!』というようにすごく分かりやすいストーリーラインがあるものだというイメージがある。が、昭一君が読んでいるこれはそういう一読するだけで分かりやすい話の筋がある訳ではないようだった。いかにも“ブンガク”って感じがする。
そんな感想が私の表情にも出てしまっていたのか、昭一君も苦笑いで補足を加える。
「正直俺も読み方が全然分からなかったから、あとがきの解説の方を先に読んじゃったんだよね。そこでやっと気づいたんだけど、そもそもこの小説って未完なんだって。そんでどうやら最後まで城には辿り着かないっぽい。むしろそういう部分も含めてこの作品の本質である、的なことがその解説で書かれてた」
「はー、なるほど……?『城』っていうタイトルなのに、最後まで城には辿り着かないんだね……?」
昭一君の説明をここまで聞いていても、どういう本なのかイメージがイマイチ固まらない。とは言え、彼は長い文章を要約したり概要を整理して言語化したりするのが割と得意な人間であるはずなので、彼の言葉通り、この小説はよっぽど難解な内容であるらしい。
「……ザッと説明を聞いてみた感じ、なんか、アレっぽいね。
村上春樹っぽいのかな?とか思ったり」
「あー……村上春樹。なるほど、確かに似てるかも。
というか、村上春樹がカフカの影響を受けたって話も、どこかで読んだことある気もする」
なるほどね、ああいう感じのやつね。少しずつどういう本なのか雰囲気だけでも分かってきた気がする。まぁぶっちゃけると、私は今までまともに村上春樹を読んだことはないんだけど……。
村上春樹は世間でもかなり有名な作家だし、本屋さんの売上ランキングみたいなコーナーでもランクインしているのをよく見る。思えば『カフカ』っていう語感に聞き覚えがあったのは、村上春樹の作品タイトルで『海辺のカフカ』っていうのがあったからかもしれない。
私も、何がそんなにすごいのだろうと思って平積みになっている文庫を手に取ってみるたびに、読みやすい文体の割に内容が難しすぎて上手く頭に入ってこなくて、結局読了を断念してしまうというのが恒例のオチだった。それが一冊で完結してるならまだしも、上下巻まであるシリーズだと序盤で心折れちゃうんだよなぁ……。あと、ああいう難しい本を題材にして自分なりの考察を立てられる人ってすごいなぁって思う。
「……なんかそういう難しいのを選んで読んでるのって、勉強熱心な感じがして偉いなぁって思うな。カッコいいかも」
「カッコいい……??」
『冬田さん』の仮面を被っているからか、私は頭に思い浮かんだ感想を率直に言葉にしていた。普段私はここまで昭一君を分かりやすく持ち上げるような言葉を口にしないようセーブしているのだと、今更気づく。褒め言葉を言ったのはこちらなのに、なんかドキドキしてる。
一方、まさかそういうことを言われるとは思ってなかったと思しき昭一君は、むしろ失礼なことを言われた時みたいに少し顔を顰めていた。あれ、あまりお気に召さなかったかな……?
一瞬、変なことを言ってしまったかなと不安になりかけたが、昭一君は程なく表情を緩ませ、苦笑いを浮かべた。
「カッコ、よくはないやろ、別に。
こういう読書って、自分の好きで読んでるだけだから。単に娯楽よ娯楽。
勉強しようってつもりで読んでないしね。勿論読んでて学びになることはあるけど、勉強だと思って読み始めたら途端に寝落ちする自信がある」
「あはは、何だそりゃ」
彼の調子に合わせて軽口を返しつつ、機嫌を大きく損ねた訳ではないと分かって私は内心ホッとする。ストレートな褒め言葉を素直に受け取ろうとしない、昭一君にはそういうところがあるのだ。イトコという立場から言われてみたらどんなリアクションを取るんだろう、そんな興味が私に一歩踏み込ませたのかもしれないが、ちょっと冬田さんには悪いことをしてしまった気がした。
「まぁ、特に深い意味で言ったつもりじゃなくて、イメージ的な話だよ。仲良い子と喋ってる時に、昭一みたいな本読んでる人って頭良さそうな感じがして良いよねみたいな話になったことがあってね」
「仲良い子?」
悪いことをしてしまったついでに、今のうちにもう一歩突っ込んでしまう。この身体にだんだん馴染んできたからか、冬田さんが昭一君と普段どんな風に会話しているのかなんて大して知りもしない癖に、まるで私の身体に本物の冬田さんが降りてきてるみたいに自然にスルスルと言葉が口を突いて出てくるようだ。昭一君の片眉がピクっと動いたのが見えた。私はそれを、自分を褒めている相手が誰なのか気になっているサインではないかと捉えた。
冬田さんと私との共通の友達、そういう話をしていた時に一緒だった親しい仲である女子の名前を何人か挙げてみる。昭一君を直接的に褒める表現でもなく、また特定の誰かがそういうことを言ってたみたいな明示は微妙に避けているのがポイントである。
「──あと、ユリさんとか──」
「……あぁ、たしかに仲良さそうだもんな」
他の子たちの名前と並列して私の名前を混ぜてみる。が、特段変わった反応が返ってくる様子はなかった。
何故だろう、どこかガッカリしている自分がいる。
「そういや、この後ユリさんと一緒に文化委員じゃなかった?時間大丈夫?」
「……よく知ってるなぁ。そうそう、話してるうちに忘れかけてたわ、危ねぇ。そろそろ良い時間だ。会議室行かなきゃ」
事情に詳しすぎて不思議に思われるかとも思ったが、これくらいは大した問題でもなかろう。昭一君が身支度を整え始めたので、捨て台詞のつもりでもう一言残しつつ、私もこの場から離脱してしまうことにする。
「じゃ、私もこのあと用事あるから行くね。
ユリさんの足引っ張っちゃダメだよ?」
「へいへい、分かってるって」
昭一君の声を背中に、片手を翻して別れの合図としつつ、そそくさと図書室を後にする。
彼も間も無く図書室から出てくるのが分かっているので扉を半開きにしたまま、私はスタスタと会議室とは反対の方向へ歩いて行ってしまう。
あー、ドキドキした……。気を張ってたせいで疲れたけれど、おかげで昭一君についても色々と新発見が得られたから、まあよしとしよう。
さて、私も急いで変身を解いて会議室に行かなきゃ。
思ったより図書室に長居してしまったみたいで、早足で、自分の荷物を置きっぱなしにしている女子トイレへと踵を返す。
冬田さんには後日、何か適当な理由を付けて、可能な限り良いお菓子をご馳走しようと思う……。
◇
この時から数年経った後、たまたま立ち寄った図書館でカフカの城を見かけて、なんとなく手に取ったことがある。
その時も結局通読する時間がなかなか取れなくて、全部を読み切ることはできなかったんだけど。そんなわけで私も、当時の昭一君と同じようにあとがきの解説を先に読むという読み方をしたのだった。
単純に私がこういう小説の読み方を分かっていなかったからだろう、この時読んだあとがきの方が私にとってはまだ分かりやすく、強く印象に残っていた。多分、各個人が持って生まれてくるアイデンティティの問題やそれを社会がどういう風に受け取るのかという構造だとか、その構造そのものの問題点についての問いかけだとか、そういう内容が書かれていたような記憶がある。
その内容が何故私の印象に強く残ったのだろうかと考えてみると、その解説の内容が要所要所で私自身のことについて書かれているように思えたぐらい、私の琴線に触れるものだったというのはあるかもしれない。尤も、こういう感覚は、あとがきで実際に使われていた言葉を借りれば『だれにでもよくあるやつ』なのかもしれないけれども。
そう思いつつも、私はあとがきを読み終えた後に文庫本を閉じて、なんとなく物思いに耽りたくなったのだった。その後、自分の髪の毛、生まれつき赤みがかった色だった地毛をわざわざ真っ黒に染め直したその前髪を自分の指で無意識のうちにいじっていたことに気づく。
頭の中には、中学校の図書室で正体を隠したまま昭一君と言葉を交わした時のことが、ぼんやりと思い浮かんでいた。
◆
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
女子トイレで冬田さんに変身していた身体から元の姿に戻った後、私は駆け足で会議室へと向かった。想定以上に図書室に長居してしまっていた。会合の時刻に遅れそうだったので、大急ぎで支度をして階段を降りてここまでやって来たのだったが、幸いなことに会合はまだ始まっていなかった。室内の座席の準備が完了していないようで、会議室の入り口付近や廊下の方まで、まだ落ち着く場所のない文化委員たちが溜まっている。
「大丈夫?ユリさん、息上がってるよ。
そんなに無理してまで来なくても、俺の方でちゃんと話を聞いておいたのに……」
「大丈夫、大丈夫……。そんなに苦しくないから。
それに今の時期はなるべく顔出しておきたかったし……」
おそらく私が更衣室で着替えをやっとこさ終えて猛ダッシュでここまで来たとでも思っているのだろう、昭一君が心配そうな表情で私に声を掛けてくれた。それに対してなるべく何でもなさそうな声色で返事を返す。一瞬、冬田さんの声のまま喋ってしまっていやしないか不安になったが、ちゃんと声帯を元に戻すのを忘れずに済んでいた。セーフ……。
まあ、確かに昭一君の言う通り、今日の会合は各クラス二人の文化委員のうち片方が出席するだけでも充分事足りる程度のものではあった。
そもそも、この学校の委員会活動は基本どの生徒が着任しても機能するよう、冗長性を持たせた仕組みになっている。最悪、委員が二人とも欠席してしまった場合でも最重要項目は配布されるレジュメに記載されているから致命的な事態には陥らないはずだし、スケジュールも進捗が遅いクラスを置いてきぼりにせぬよう余裕を持たせて組まれている。
実際、他のいくつかのクラスと同様、隣のクラスの女子の委員も会合自体を欠席しているみたいだった。『こっちは体操服に着替えなきゃならんから代わりに話聞いといて』とでも理由を付けて男子の方に丸投げしたのだろう。
仮に私が同じことを昭一君に頼んでいたとしても、きっと彼は快くそれを了承してくれたと思う。ただ、私は次期役員候補という立場もあったので、なるべくこういった会合は欠席したくなかったという事情もあるし、その辺の事情は昭一君も分かってはいるだろう。
階段を駆け降りてきたせいでまだ胸が高鳴っていて、なんだか、元の姿を昭一君の前に現していることに対してドキドキしているのかと勘違いしそうになる。
強いて言えばもう一つ、私をドキドキさせていることがあった。先ほど私は例の女子トイレの個室で自分の身体を粘土のようにグニュグニュと変形させて元の私の姿に戻してきたのだが、時間の節約のためにある箇所だけ元に戻さないままにしている部位があった。それはどこかと言うと……今まさにドキドキと高鳴っている“ここ”である。
まあ正直なところ、折角の機会なので、私のここがもう少し大きくなったら体感的にどんな感じなんだろうっていうのを先行体験してみたいという興味もあったりした。それ以上の他意はない、多分……。私は同年代と比べるとこういう性徴が現れるのが遅いみたいで、自分に先んじて下着はどういうのにすべきなのかみたいなことを悩んでいる同級生たちのことを羨ましく思ったこともないではない。冬田さんのそれは歳相応の膨らみかけといった趣で、そのうち私のもそこに追いつくのだと仮定すると、こんな感じになるのかなというシルエットに今の身体は落ち着いていた。追いつくよね……?きっと……。
ここでもし毎日のように私のボディラインを熱心に観察しているような人がいたとしたら、今の私の胸を見て急に大きくなっていると気づいてビックリするのかもしれないが、そもそも普段着ているセーラー服はしっかりした生地が使われていて身体のラインが浮かび上がるようなことはそうそうないものなので、普段の私のシルエットとの違いに気づくような人は現実的にはほぼいないはずだ。
ただ少なくとも、私にとっては色々な意味でいよいよ冬田さんに頭が上がらなくなってきたということは確かだった……。
間もなく室内の座席の準備が進み始めたようで、待機していた委員たちも続々中へ入っていった。私と昭一君もその後に続いていく。
この学校は衣替えの期限が厳密に定められていて、ある日を過ぎると全生徒が一斉に夏服を冬服に、あるいは冬服を夏服に切り替えるよう決められている。そしてつい先日、夏服から冬服への移行が行われたばかりだった。
会議室の中を覗くと、中にいる文化委員たちは全員冬服姿だった。男子は黒い学ランに黒いズボン、女子は長袖の黒いセーラー服に黒いスカートを着ている。
当たり前のことではあるが、午後から体育の授業があるのは私たちのクラスと隣のクラスだけなので、隣のクラスの女子が欠席していることもあり、結果的にこの部屋の中で私一人だけが半袖の体操服姿をしている。
その光景が、私には何だか奇妙に思えてくすぐったかった。大勢の中で自分一人だけ違う格好をしているという光景が。
まだ本格的な寒気は到来しておらず過ごしやすい気候なので、半袖体操服だけだと肌寒いということはない。荷物が増えるのも難儀なので、長袖のジャージは教室に置いてきていたが、持ってきておいても良かった気がした。
一人だけ体操服姿をしているからといって集団の中で浮いているとか変わったものを見るような視線がこちらに向けられたりとか、そういうのもない。指定体操服は全生徒が見慣れている格好なのだから、当然と言えば当然だ。
だから、こんな他愛もないシチュエーションにこういう変な感じを覚えているのは、この部屋の中できっと私だけなのだろう。
他の全員は全身黒の長袖を纏っているのに、私だけ丸首の白が目立つ上下半袖の体操服を着ていて、両腕と両脚の肌の色を晒しているっていう、ただそれだけのシチュエーション。
理由もなく、ふと昭一君の顔を見上げてみた。私の視線を『自分達の席はどこだろう?』と尋ねるサインだと受け取ったのだろうか、「二年生はこっちの列みたい」などと言いつつそっけなく手招きをした。別に、自分一人だけ体操服姿なのが心細いとか恥ずかしいとか思ってた訳でもないのだけれど、その時の昭一君の様子は私の目には妙に頼もしく思われた。
ブッキングの都合によるものか、この会議室のキャパシティは今回出席する委員の人数に比べてやや手狭であるようだった。折りたたみ式の机とパイプ椅子とが所狭しと並んでいる。
大体この辺りだなという座席を見定めて、前を歩いていた昭一君が奥の窓際の席に、続いて私はその手前の通路側の席に腰を下ろす。
部屋そのものの狭さに加え、この老朽化の進んだ校舎には所々鉄筋を後付けすることで外壁の耐震機構が備え付けられている箇所がある。その工事の時に打ち込まれた無骨な柱が、室内の特に窓際のスペースを窮屈にしていた。私たちの座った席は、たまたまその柱と被っているところだったので、他の席よりも若干幅が小さめな机が置かれていた。
「すいませーん。皆さんもう少しずつだけ机と椅子を奥に詰めてくださーい。窮屈で申し訳ないですが、ご協力願いまーす」
この会合のまとめ役と思しき三年生の先輩が一同にそう呼びかける。まだ全員が着座しきれていないようだった。
そう言われると、仕方がない。
「ちょっとそっちに詰めるね」
窓際側の昭一君にそう言うと、通路側にもう一人座れるスペースを作ろうという意図で、私は自分の座っている椅子を窓際の方へズラす。
最初は何でもなさそうに、指示を出している三年生の先輩の方を向いていた昭一君だったが、私がグイグイと自分の身体を彼の方に近づけていくにつれて、だんだん落ち着かない様子を浮かべ始めた。ほんの一瞬だけ、私の体操服に縫い付けられた名札の部分、それ越しの胸の膨らみの辺りにチラリと視線を向けられたのが分かった。
本当はここまで詰める必要もなかったのだろうけれど、まとめ役の三年生の先輩が全員着座できていることを確認した旨を告げるまでの数秒間、私は昭一君の右脚に、ハーフパンツから伸びる私の左脚を添えてピタッとくっつけていた。
まあ、次期役員候補なんだし、これくらい協力的であった方が良いよね?
私語などで会の進行を邪魔するのは良くないので、二人ともじっと黙ったままでいた。
スラックスの生地越しに、昭一君の体温が私の素肌に伝わってくるのが分かった。顔は会議室の前の方に向けているけれども、彼の意識が二人の脚の密着し合っている箇所に向かってしまっているのは丸わかりだった。
身体をギュッとくっつけていったのは私の方なのに、昭一君の方が何だかすごく申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
その横顔を盗み見ているうちに、ふと、誰宛でもないラブレターを書いてみようか、なんて突飛な考えが浮かんでくる。
宛名もない、差出人の名前も書かないままのラブレターを。
机の引き出しからそれを見つけた時、この人はどういう反応をするのだろう。なんだか無性に気になった。
宛名も差出人名もないのなら、その手紙に名前が付くことはないし、きっと何かが起こることもない。
それは喩えるなら、誰かの独り言が、偶然思いもかけない人の耳に聞こえてしまっただけのこと。
例えば、もし私の独り言に気づいてしまう人が、この世界にいるのだとしたら。もしそれが昭一君だったなら。
私は、すごくホッとするんだろうな。
会が始まるまでの数秒間の間、私はそんな風に考えていた。
参考
カフカ(訳:前田敬作,1971).城,新潮文庫