Extra.シャツを洗う
「うぬぁぁ……、あっつ……」
風呂上がり、あまりの蒸し暑さに脱衣場の扇風機の真ん前に全裸で仁王立ち、火照った素肌に風を当てて冷却する。この季節はせっかくお風呂に入って汗を流しても、こうして次から次へと新しい汗が噴き出てくるからキリがない。帰宅前にエアコンのスイッチをアプリ経由でオンにするのを忘れてしまったせいで、部屋の空気には未だ日中の熱気の気配が残ったままだった。
昭一君と同居するためにこの部屋に越してきた当初は、だらしないと思われたくないという葛藤もありノーブラで過ごすことは極力自重しようと決めていたものだが、連日の猛暑にその決意は早くも挫かれた。すまない、数ヶ月前の私……。さらば、我が純情……。でも、マジで肌着の中に熱がこもるねんな。私は人並み以上に胸囲があることもあり、合うサイズの肌着も相応の表面積を持つことになるわけで、それ故身体の外に体温を逃すことが難しいのだ。最近だとファストファッション系のブランドを中心に機能性のあるブラキャミとかが色々出ているのだが、夏場も使えて且つ自分の形に合うような量産品はなかなか良い物が見つからない。というわけで、前の家でそうだったように、上半身は肌着を着けずに部屋着を直接着て過ごすことが増えた。
浴槽に浸かって上がっていた体温が落ち着いてきたところでショーツを履き、クローゼットから適当に選んできた完全無地の白Tシャツと黒のショートパンツを上から着込む。Tシャツの方はノーブラで着ても目立たないようにダボっと着られるような大きめサイズで、二の腕の大部分やショートパンツに隠れたお尻の半分くらいまでを覆い隠せる程度の物だ。部屋着として使うことを前提にコスパ重視で適当に選んだ物なので、碌に組成表示も確かめずに普段使いしているのだが、値段の割には生地も意外にしっかりしていて、化学素材特有の人工的なツルスベ感があまりなく、綿みたいな天然素材っぽい柔らかい肌触りがあって結構気に入っている。一方、ショートパンツの方は全体像がルーズになり過ぎることを懸念して普通くらいのサイズの物を取り出していた。上に着ているTシャツがかなりゆったりめな物であることで、相対的にシュッとしたような雰囲気が出て、少し遠目で見るとスパッツっぽく見えるかもしれない。この上下でギャップのある組み合わせで全体的な見た目のバランスは取れているのではないだろうか。その辺のこだわりが、自分なりのささやかな抵抗といったところか。まぁ、いよいよ暑くなったら、風を取り込むためにTシャツの裾をバサバサ扇いだりして台無しにしちゃうんだけども……。
脱衣所から出てダイニングに行き、水を飲む。昭一君はまだ帰ってきてないようだった。
テレビをつけようと居間に入った時、壁際に立てかけていた姿鏡に映った自分の全身像がふと目に入る。家の中だからこんな気楽な着こなしでいられるものの、このまんまの格好で外に出かけていく勇気は今の自分にはないなぁ、と苦笑いが漏れる。そんな風に考えたのは、ここ最近で何人か、十代や二十代前半くらいの女の子がそれこそこんな感じの格好をして外を出歩いている姿を見かけていたからだった。あの娘たちは、流石に下着は着けていただろうが……。
今となっては、まず、こんな感じで素足を人前で出すというだけでも準備とか覚悟とか、色々段階を踏みたい。昭一君に対してすら、前より太くなっただとか思われないか、日々戦々恐々としているのに。そうでなくとも、直射日光に無防備な素肌を晒すことを考えるだけで眉間に皺がひとりで寄ってしまう。若さってすごい……。
さて、仮にそれらの問題をクリアしたとして、こういう格好のまま自分が外を出歩く姿を想像してみる(勿論、下着は着用のこと)。……なんていうか、もうちょっと“防御力”が欲しいかな、と考えてしまう。だって、こういうことを私が言うのはちょっと変かもしれないけれども、上半身が無地の白Tシャツ一丁、下が結構な部分がTシャツで隠れてしまうショートパンツだけって、なんというか、“無防備”過ぎる気がしないだろうか?
いっそ暑くても構わないから、もう一枚羽織りたいような。欲を言えば襟とか胸ポケットのあるポロシャツ、せめてTシャツの中でも何かしら模様がついていた方が安心感がある。同じ無地でも、白ではなく黒ならまだ許せそう。あるいは、色が濃い目のバッグか何かを手に提げて、視線を分散させたい。
私の言いたいことは伝わっているだろうか?ただ単に、無地の白Tシャツだけでは心許ないというだけのことなのだが。
例えば中学生くらいの年齢の頃は、ここまで深く考えていなかっただろう。いや、多分、年齢も確かに関係があるかもしれない。私は生まれつきヨーロッパ方面の趣を含んだ顔立ちを持っているのだが、その影響だろうか、二十代を折り返した辺りから同年代の女性よりも若干老けて見られる傾向が出てきていた。例えば、純粋無垢そのものなピチピチ十代の女の子だった頃であれば、真っ白いTシャツの放つ眩しさにだって真正面からぶつかっていくことができただろう。しかし、今となっては、私は色々なことを見聞きし過ぎた。だから、道ですれ違う男性から、女性から、どんな風に思われるだろうという、そんな懸念が真っ先に浮かぶようになってしまった。若さって、すごいよね……。
そういうことなので、この私の白Tシャツ姿は、昭一君が独り占めしている訳なのである。彼はこの有難さをちゃんと理解できているのだろうか?今日もまた図書館に寄ってくるとか言って、まだ帰り着いてすらいないし!なんか、だんだん腹が立ってきたぞ?
おい、昭一!早く帰ってこい!玄関先で速攻悩殺してやる!
いつの間にかそんな考えが頭を支配していた私は、姿鏡の前、どのようなポーズを取れば昭一君をいてこますことができるのか、デモンストレーションを開始した。
やっぱ、鉄板はコレだろうか?だっちゅーの的な?いやダメだ。上がダボTだから、このポーズである必然性が感じられない。ていうか、だっちゅーのって死語なん?嘘でしょ?もしかして、こういうことばっか言ってるから老けて見られるんじゃなかろうか……。
自問自答で勝手にダメージを負った私だったが、だっちゅーのによって一つの大きな収穫が得られた。それは、この格好で前屈みのポーズを取ると、正面から見た時に、なんとショートパンツが完全に隠れて見えなくなるのである!これはまさに、コロンブスレベルの大発見!想像してごらん……、帰宅した昭一君が居間へ続く扉を開くと、そこには、前屈みのポーズを取った私がニッコリ笑顔で「お帰りなさい♡」と出迎える。それを目撃したウブな昭一君は慌てふためくのだ。「ワワーッ!ユリさんダメだって!いくら部屋の中とは言え、下に何も履いてないなんて、あまりのハレンチさに、おいらのドキがムネムネだよぅ!男は狼なのよ、気をつけなさーい!」そんな風に取り乱す彼に対して、私は素知らぬ顔をして、決め台詞を放つ。「安心してください、穿いてますよ!」その名女優ぶりに、きっと全英がスタンディングオベーションだろう!完全勝利だなコレは!ガハハハハ!……昭一君のキャラってこんなんだったっけ?
まぁ細かいことはともかく、こちらは準備万端、いつでも帰ってこいと意気込んだちょうどその時、玄関の方からガチャガチャと解錠する音が聞こえてきた。昭一君が帰ってきたらしい。よっしゃ、ばっちこい!玄関へ続く廊下との間に立ちはだかる扉の方に向かって立ち、膝に両手を突き体勢を整え、昭一君を待ち構える。
✳︎
「ただいま。また今日も図書館で長居しちゃったよ。ごめんね」
部屋の中にいるはずのユリさんに話しかけながら、居間へ続く扉を開けるが……。そこには、ユリさんの姿はなかった。
「あれ……?」
代わりに視線を引いたのは、カーペットの上に散らかっていたユリさんの部屋着である白いTシャツと、黒いショートパンツだった。なんでこんなところに?
この間ユリさんが下手糞なセーラー服のふりをしていた時とは異なり、そのTシャツとショートパンツは厚みや質量を持って自立しているわけではなく、生地がヘニョっとくたびれた感じを漂わせたそれらは本当に脱ぎ捨てられた単なる衣類そのものであるようだった。拾い上げてみるとまだ温かく、ついさっきまでユリさんが身につけていたものであることが分かる。というか、ショートパンツの中には、肌着までセットで入っていた。まるで、ユリさんの身体だけが忽然と姿を消して、身につけていた衣類だけが床に投げ出されたような、そんな様相を呈している……。一体これは、どういうことなのだろうか?
✳︎
目の前でドアノブが回り始めた瞬間、急に「もしかして私は、今から途轍もなくアホなことをしようとしているのではないか?」という冷静さと、恥ずかしさが湧いてきていた。中途半端な中腰を維持していたせいで、すぐさま体勢を立て直して何食わぬ顔をするのは難しいことが身体感覚的に分かった。そんな訳で、私はその場の誤魔化したさからほとんど反射的に、自身の身体の能力を発現させ、上半身に着ていた白Tシャツの中に全身を埋めて、同化していった。変身能力を使うに至った理由が、我ながらしょうもなさ過ぎる。
とは言え、今日の私はこれまでとは一味違った。身体の厚みをスポイルするのを忘れてセーラー服姿のまま床に直立してしまい昭一君に一発で看破されてしまった前回の反省を活かし、いかにも自分が単なるTシャツという物品に過ぎないのだという擬態に成功していたのだった!フッフッフ、私も成長するのだよ昭一君!
昭一君が私を床から拾い上げる。指の感触がくすぐったい……。自分の身体をTシャツの薄い生地に同化させていることで、触感が拡張しているのかもしれない。でも、我慢……、我慢……!とにかく、昭一君の注意がこのTシャツから逸れるまでは耐え忍ぶのだ……。あとのことはそれから考えよう。
そんな風に思っていると、何やら思案顔を浮かべていた昭一君が、ボソッと呟いた。
「……やれやれ、服を脱ぎ捨てたままどこかに行っちゃうなんて、ユリさんは行儀が悪いなぁ」
突然自分のことを言われて、ドキッとしてしまう。
「この部屋着、最後に洗濯したのはいつだろう?あまり汗臭い感じだったら、今日のうちに洗濯機で回した方がいいかもなぁ」
え、何?今、洗濯機で回すって言った?
私がそう思ってポカンとしていると、彼は私の身体に、徐に顔を近づけてきていた。ちょっ、近い!近いって!
ていうか、私の匂いを嗅いでる?!いくら同居人だからって、勝手に何やってるの!
うわぁ、昭一君のお鼻あったかい……、じゃなくて!ダメだって!恥ずかしい恥ずかしい!
Tシャツの布地に擬態しながら一人ドギマギしている私の心中をよそに、昭一君は「うーん、一週間くらい着てそうだな……。洗っとくか」だとか何とかボヤいてた。ガーン……、今の私、臭いってこと?
ていうか、私このまま洗濯機で洗われちゃうってこと……?!うわぁ!ダメダメダメ!そんなことされたら、大変なことになっちゃう!
私は慌てて昭一君に自分はTシャツではなく私なのだと知らせるべく身体を動かそうと試みるが、ずっと全力でTシャツの布地の振りをしていたせいで、上手く力が入らず、身動きが取れない。そんな……。
手元のTシャツの異変を訝しむ様子もない昭一君は、さっさと脱衣場にある洗濯機の方へ踵を返し、他の洗濯物とまとめて洗うための準備を始めていた。今日の洗濯当番は昭一君ということになっていたので、風呂に入る前にさっさと仕事を終わらせてしまおうとしているのだろう。
洗濯かごに貯まっていた他の衣類を放り込んでから、昭一君は少し考える間を置いたかと思うと、私の同化したTシャツと先ほどまで私が履いていたショートパンツと下着とをワンセットで袋状の洗濯ネットに仕舞い込むという謎の配慮を見せてから、改めて他の洗濯物と同じように私の入った洗濯ネットごと洗濯槽の中に放り込んだ。
洗濯槽の中に、水がザブザブと流れ込み、全身が浸っていく。
ヤバいヤバいヤバい!このままじゃ、私、大量の水で洗われちゃう!
身体から魂が溶け出して流れていって、本当にただの白いTシャツになっちゃうよう!!二度と人間に戻れなくなるぅ!
──話の途中で大変恐縮ですが、ここで読者の皆さんに作者である私から補足させていただきます。
──『水で洗われることによって魂が溶け出して、抜け殻として残された身体が本物のTシャツになってしまう』というような旨の心境を、ユリは作中で訴えておりますが、実際にはそういった設定などは特にございません。
──確かに粘土状になった身体が水気を含んでふやけてしまい元の姿に戻るのにいつもより時間がかかってしまうという可能性はありますが、身体の本体が残っていればちゃんと元の人間には戻れます。
──ユリが一人で勝手に盛り上がるために脳内設定を増やして、状況を面白がってはしゃいでいるだけです。
──以上の補足を念頭に置いた上、続きをご覧下さい。
洗剤を含んだ水が身体に染み込んでくる!やだぁやだぁ!さっきまで無防備すぎるだとかなんとか言っていた無地の白Tシャツそのものに、今からなっちゃうよぉ!
そんな心の叫びも虚しく、洗濯機は無情にも回り始めた。粘土状になっていた身体が少しずつ水に溶けて、染み出していってるのが感覚的に分かる。あぁ、まるで生地に同化した私の身体が汚れそのものであるみたいに扱われている……。激しい水流に弄ばれて、本当に単なるTシャツみたいに、ショートパンツと下着と一緒に押し込まれた洗濯ネットの中でされるがままになりながら悶えるばかり……。
Tシャツの生地と同化していた身体の感覚は、洗濯槽の渦の中で揉みしだかれているうちに徐々に麻痺してきたせいだろうか、段々と、単なる洗濯物として洗われていること自体に心地よさのようなものを覚え始めていた。あぁ、これはこれで、気持ち良いかも……。私の身体を取り巻く周囲の水は、溶けだした粘土の粒子と少しずつ混ざり合い、いつしかヌチャッヌチャッと粘り気のある水音になり始めていた。
これからずっと単なるTシャツとして生きていく、そういうのも良いかもしれない。こんな風に、洗濯ネットにちゃんと分けて入れてくれる、大事に扱ってくれる昭一君のような人に持ち主になってもらえるのなら……。それがいまや一つの物品である私にとっては、格別の幸せ……。
そう、私はTシャツ……。私は無地の、ダボっとした大きめサイズの、白いTシャツ……。
願わくば、これから先もずっと、昭一君に大事に使い続けてもらいたい。サイズ的に着てもらうことは難しいだろうけれども、代わりにクッションカバーか何かに縫い直してもらって、そしてその腕にギューッと抱き締められる。そういうのもまた気持ちよさそう……。
そんなことを考えているうちに、やがて私の意識は洗濯槽一杯の水全体に拡散していくように、薄らいでいった。多幸感に包まれながら、私の身体は乾燥モードの処理が完了するまで、ただただ機械のなすがまま、作業の流れに身を任せていった。
✳︎
「おーい?ユリさーん?まだ寝てるー?」
俺は、洗濯ネットから取り出した白Tシャツをハンガーに吊るした上で、他の洗濯物とは別個、居間の鴨居から伸びるフックに干して、いまだ生乾き状態であるそれに話しかけていた。
正直なところ、この白Tシャツにユリさんが同化していることは床から拾い上げた時点で分かりきっていた。明らかにこのTシャツだけ、人肌と同じような体温が感じ取れたからだ。見た目はほとんど本物のTシャツと見分けられないような仕上がりだったので一瞬戸惑ったが、やはり最後は詰めが甘かったと言わざるを得ない。
とは言え、前回と比べて擬態のクオリティは格段に上がっていた。その頑張りに敬意を表して、今日はいつもよりも物扱い要素強めで意地悪してやろうと思い、顔を埋めて匂いを嗅いだり他の洗濯物と一緒に回してしまったりといった趣向を凝らしてみたのだが、予想以上に今のユリさんはTシャツそのものとしての振る舞いに没入してしまっているようだった。
「…………♡…………♡」
ハンガーにかけられたTシャツはパッと見では本物のそれであるように見えるが、よくよく耳を澄ませると、表面から彼女の寝言のような吐息が聞こえてくるようだった。Tシャツという物になり切っていることで、恍惚のようなものすら感じてしまってるのかもしれない。最近仕事が忙しくて疲れてたのかなぁ……。ちょっとストレスが溜まり気味だったのかもしれない。自分の帰りが遅くなってしまったことを、少し反省した。
幸い、明日は二人とも仕事が休みなので、久しぶりに水いらずでゆっくり過ごせるだろう。いつもより元の姿に戻るのには時間がかかるかもしれないけれど、多分それは洗濯機に突っ込んでしまった俺のせいなので、その間はつきっきりで様子を見てあげるだけの義理はあるはずだった。
「……♡
洗い立てのシャツぅ……♪
私ぃ、洗い立てのシャツぅ…………♡」
生地の表面から微かに聞こえてくる寝言のような彼女の鼻歌はどこかで聞いたような歌詞を辿っていて、それを聞いた俺は耐えきれず、「ぬふっ」と鼻の穴から笑いが噴き出てしまっていた。