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A


【 A 】



200X年



 去年の秋頃だった。放課後の教室、自分の机に置き忘れていた荷物を部活後に取りに戻った時のこと。


 橙色の西日が差し込む誰もいない二年七組の教室に入り、ちょうど陽の陰になっている廊下側の自席、その引き出しから筆箱とノートを取り出そうとした、その時。自分の机、その外観に何やら異和感を覚えた。

「…………?」

 上手く言葉で表せないのだが、確かに俺はその時、自分の机そのもの、床の模様に対する傾きだとか椅子との位置関係だとかに第六感的なところで何かを感じ取った。

 なんだろう、この感覚は?訝しがりながらも引き出しからノートを取り出そうとすると。


 ヒラリと、一片の紙切れが、ページの間からこぼれ落ちていった。

 ……ん、なんだ?こんなものを自分で挟んだ覚えはない。

 拾い上げてみると、それは便箋の端っこを小さく切り取ったものらしかった。四つ折りに畳まれたそれを開いてみると、そこには、ただでさえ小さい紙切れに対しても更に小さな丸文字で、こう書かれていた。


『好きです♡ えへへ、告っちゃった///』


 原文ママ。

 ……なんだこれ?

 その予想外の内容に、俺は呆気に取られていた。ラブレター、ってやつか?

 裏返したりしてよくよく観察してみるが、その文言以外には何も書かれていなかった。誰から誰に向けて書かれた物なのかすら分からない。そもそもこんなものを贈ってくるような関係性の相手が、一人も浮かばない。入れる机を間違えたんじゃなかろうか。

 これを仕込んだ張本人がまだ近くにいるのではないかと、廊下に顔を出し左右を窺ってみるが、フロア内に自分以外の人間の気配は全く残っていないようだった。

 他の手掛かりを求めて、紙切れが挟まっていたと思われるノートのページを開き直してみると、そこには更に予想外のものが……。


 髪の毛が。

 長い髪の毛が、四、五本ほど、挟まっていた。

 色味も長さも、確実に自分のものではない。その明るい色合いは、真っ黒い自分の髪とは全く違うし、こういう髪色の人物は家族の中にもいない。それに、俺は小学校の頃からスポーツ刈りの短髪で通しているのに対し、目の前のそれの長さは20cm以上はある。


「うへぇ」

 一通りその髪の毛を確かめ終えてから、ようやく変な溜め息が漏れ出てきた。

 正直、今までの人生の中でも指折りの気色悪い事案ではあるのだが、恐怖に慄くということもなく意外と心は落ち着いていた。あまりに予想外の出来事に直面すると、人間は却って冷静さを取り戻すものらしい。あともう一つ、怖がらずに済んでいる理由があるとするならば……。それは、俺が密かに慕っている、ある女の子のことを思い出していたから。


 その髪の毛の持ち主には、心当たりがあった。

 生徒指導が厳しく頭髪を染色することが一切禁止されているこの学校において、こういう髪色で登校することを許される生徒というのは限られている。すなわち、“地毛が元々こういう色だった場合”である。

 その条件に該当する人物と言えば、自分達の学年では一人しかいない。ユリさんという、一年の頃からクラスメイトである女子生徒だ。

 同じ苗字の生徒が学年中に何人もいるので、下の名前で呼ぶことが学年内でも慣例になっていた。お人形さんのような可愛らしい容姿の持ち主で、教室内でその姿を無意識に目で追ってしまう自分がいた。同級生の中でも特に小柄で華奢な体格をしていて、そのあまりの身体の薄さに、その小さなサイズの制服でさえウエストや二の腕との間に大きな隙間が開いていて、優雅なドレスを着ているかのように見えた。

 また、生徒間における彼女に対するイメージというのは、一言で表せば『良いご家庭で育てられたお嬢さん』といったものだった。

 バイオリンを習っているそうで、文化発表会で全校生徒の前で演奏していた。「本職ではないから」と謙遜しつつもピアノの腕前もかなりのもので、学年を代表して合唱コンクールなどで伴奏を担当していた。その上、学業の成績も優秀で、加えて二年に進級してからは生徒会の仕事もこなしているようだから、内申点もこの上なく充実していることだろう。

 こんな感じで、言ってしまえば“完璧”な生徒だった。全てにおいて低空飛行を続けている俺なんかとは、比べるべくもない。

 ド田舎の公立中学において、その明るく艶のあるボブカットと端麗な容姿は嫌でも目を引いた。そういう娘を校内の野郎共が放っておく訳もない。俺の耳にも『一年生の頃から、一つ上の有名な先輩と付き合っている』という噂は前々から届いていた。実際、ユリさんがその男前な彼氏さんと一緒に下校している姿を見かけたこともある。

 だから、俺が彼女にどういう感情を持とうが持つまいが、どのみちそれは実際の彼女との関係性になんら影響を与えず、始まるものは何もないと確定しているのだった。

 ユリさんからすれば、俺なんかは三十数人いるクラスメイトのうちの一人に過ぎないだろう。委員会活動でたまたま何回か一緒になったことがあり、それがきっかけで時々挨拶を交わしたり世間話をしたりするようになった程度。鈴を振った響きのような話口調は、彼女に対して持っていたイメージよりもほんの少しだけブライトな像を結び、そうした姿に触れる機会を得られたという縁だけでも儲けもんだったなと思えたものだった。


 そういった心象が、不意に目の前に現れた数本の髪の毛による気味の悪さを中和しているようだった。

 徐々に『もしかして、とうとう俺にも春が巡ってきたか?』という淡い期待感が立ち上る。

 真っ白いページの上の髪の毛はその色味や質感などが非常に分かりやすく、その持ち主が同学年の誰かであると仮定するならば、それはほぼ間違いなく、ユリさん一択だった。その上で先ほどの紙切れの文字を見てみると、確かに彼女も、こういう筆跡で文字を書いていたような。

 今思えば、俺と世間話をする時のユリさんの声色は、他の友達と話している時のそれよりも明るかった気もしてきた。もしかして、彼女も俺のことを……?

 と言うことはやっぱり、これはユリさんから俺への熱いラブレターなのではないか?!数瞬の間、そんな希望的観測が、俺の脳内で風船のように膨れ始める、が。


 ……いやいや、そんな都合が良すぎる話があるわけないだろ。

 自分一人でひとしきり盛り上がったのち、だんだん冷静な判断力が戻ってきて、皮算用はまたひとりでにシュルシュルと儚く萎んでいく。

 想いを伝えようという意図でこの手紙を書いたのだとしたら、なぜ差出人の名前も、名宛人の名前も、どちらも書かれていない?

 それにそもそも、ユリさんはあの一学年上の先輩と今現在も付き合っているはずだ。そんな人が、彼氏以外の男子にこんなものを書くはずがない。

 とは言え、この髪の毛が本物のユリさんの頭髪であるという推測は、おそらく間違ってないとは思う。


 ここまで考えて、俺は一つの結論に辿り着いた。

 これは、ユリさん以外の何者かによる悪戯だ。


 俺は、思わず顔を顰めてしまう。おふざけにしては随分下劣な手を使うものだと思う。

 俺の所属する二年七組は他のクラスと比べても極めて空気が悪く、男子生徒と女子生徒、そして女子生徒と担任教師との仲が非常に険悪だった。教室ではなるべく目立たないよう大人しくしている俺ですら、リーダー格の女子生徒達に目をつけられて攻撃の対象にされることがあった。

 ただ、そんな女子の派閥の中でも、ユリさんが属するグループは男子生徒に対してトゲのある態度を見せることはなかった。担任に対してはどうか分からないが……。その結果、ただでさえ高いユリさんに対する男子生徒からの好感度は相対的に右肩上がりだった。

 おそらくこの悪戯をした張本人はそうした状況を悪用しようと考え、俺を勘違いさせて面白がろうと、何らかの方法でユリさんの髪の毛を収集して俺のノートに挟んだのだろう。


 何だか、ユリさん自身を穢されたようにも思えて、気分が悪かった。

 学年屈指の美少女からのラブレターに舞い上がる俺を笑い者にしようと、誰かが遠くから俺の姿を監視しているような気がしてきた。そんな存在するかも分からない視線に対して見せつけるように、その紙切れを散り散りにちぎって、掃除用具入れ横のゴミ箱に捨てた。髪の毛については一瞬どうしようか迷ったものの、自分が持ち続けていると良くないことが起きる気がしたので、一緒にそのゴミ箱に捨てていった。

 そのような不審な出来事に見舞われることはそれ以降二度となかったが、ゴミ箱に紙切れと髪の毛を捨てて足早に教室を去っていった時の後味の悪さは、その後しばらく尾を引いた。



✳︎



 なんでそんなことを思い出しているのかと言えば、ここ最近放課後に仕事場として向かうことが習慣化しつつあるプレハブ教室のトタン屋根の下、今日そこにユリさんがいたからだった。


 鼠色のコンクリートの手洗い場に腰掛けて、手持ち無沙汰そうに脚をプラプラと揺らしている。夏休みが近づいてきて日に日に蒸し暑くなる中でも、彼女のその華奢な身体の周りだけは何だか涼しげに見えた。その浮世離れした美貌は、最終学年を迎えていよいよ花開いていた。

 どうしてこんなところに?

 特に挨拶を交わすこともなく俺はその前を通り過ぎ、柱から飛び出て伸びる赤色と黒色の結線の前、今日の作業に取り掛かる。


 三年への進級時にクラス替えがあり、地獄のようなあの空気からは既に解放されていた。新しいクラスは男子と女子、教師との関係も良好で、教室にいるだけで胃が痛くなるような空気の中で過ごしたあの一年間がまるで嘘みたいだった。

 ただ、嫌な気持ちを抱えたまま我慢の日々を送ってきた後遺症だろうか、俺は女子生徒と会話をする時に、ぎこちない態度を取ってしまう癖がついていた。

 ユリさんとの間で特に何か変わった出来事があったわけでもない。それでも何故か、彼女に対してさえ、かつて敵意を向けてきた女子を相手にする時と同じように、コミュニケーションを極力避けようとする意識が働くようになっていた。

 まるで、存在するかも分からない視線を意識しながらゴミ箱に紙切れと髪の毛を捨てた、あの時のように。


 俺がここ最近毎日取り組んでいる仕事というのは、プレハブ教室の渡り廊下に備え付けられていた校内チャイムを鳴らすスピーカー、それの修理だった。

 放送委員の仕事に携わるようになってから、俺は自分が機械いじりが好きなのだと気がついた。部活を引退してからは、放課後の空いた時間を校内の雑務の仕事に充てるようになった。用務員さんに申し出て、行事の際の放送機材の運搬や設営・接続作業を手伝ったり、脚立を抱えて切れかけの蛍光灯を替えて回ったり。教職員や他の生徒からは風変わりな生徒だと思われているのかもしれないが、不思議とそんな視線が気にならないくらい俺はそういった作業にやりがいと言うか、面白みを感じていた。

 三年生の多くは部活最後の大会も終わった後、高校受験のために塾に通い始めていた。俺に関して言えば、近場の工業高校を受験する予定だった。学校の勉強が得意でない俺から見ても、その高校の入試難易度が易しく、日中の授業以上の勉強をする必要はないことは分かっていた。かと言って、背伸びをして高専を受けるには偏差値が足りなすぎる。そんな訳で、こうして手を動かす作業に没頭するようになったのは、卒業までの暇潰しという側面もあった。


 そうして自分に課してきたミッションの中でも、このスピーカーの修理という仕事は一筋縄ではいかないことがすぐに分かった。

 この年季の入ったプレハブ教室の存在はかつてこの中学校が県内屈指のマンモス校であった時の余韻で、現在は普通学級に通うことが難しい生徒を受け入れるための特別教室として使用されていた。少子化が進む中でもベッドタウン近くのこの学校はここ数年の生徒数が増加傾向に転じており、本校舎から離れたこの場所までは校内整備の手がなかなか届かずにいた。プレハブ教室にチャイムが鳴らなくなっていることに俺が気がついたのは今年の春先で、今のところは教室内のアラーム時計で代用しているようだった。部活を引退してまとまった時間が取れるようになったのを機に、故障原因の究明と、あわよくば自分の手で修理し終えてしまおうという功名心が湧いてきたのがきっかけだったが……。


「どう?直りそう?」

 梁の上から降ろしてきたキャビネットスピーカーをモルタル塗りの床の上に横たえて内部の配線や基板部分をチェックしている俺の頭越し、ユリさんが興味深そうに覗き込んでくる。何しに来たんだろう?暇潰しか何かかな?

「うーん、分からん」

「勝手に弄くり回しちゃって大丈夫なの?」

「スピーカー周りだけ見てみるって、用務員さんにはちゃんと断り入れてるから」

 俺は淡々と、返事を返す。ここ最近はぎこちない感じになるのが怖くて言葉を交わす機会そのものがほとんどなくなっていたのだが、手元に集中しているおかげだろうか、無意識のうちに自然体な形で会話をすることができていた。


 電気回路というものは、よく水の流れに喩えられる。いくら高い電圧をかけられたところで、電流が流れるべき通路が途切れてしまっていては、電気を正しく使うことはできない。一方向的なものでは、意味がないのだ。

 さて、目の前のこのスピーカーについては……。例えば、これ見よがしにハンダが剥がれていたりコンデンサが破裂したりしてくれていれば話が早いのだが、筐体の中身を観察してみても、一見しただけではどこかに異常が生じているのかどうか判別し難かった。手掛かりを求めてメーカーが公開している仕様書をダウンロードして印刷してきたものの、詳細な回路図まで載っているわけではないのでヒントになるかどうかは微妙だ。

 そもそも、スピーカーへの接続部以前、本校舎からこのプレハブ教室に伸びる配線のどこかが異常の原因になっている可能性だってある。と言うよりも、本来はパワーアンプに近い箇所から検証していくのが本筋だろう。こうしてわざわざ末端部分をああでもないこうでもないとほじくり回しているのは、自分なんかが手出しできる範囲は限られてるから。スピーカー周りに異常がないと分かり次第、あとは大人にバトンタッチするしかない。最終的にプレハブ教室までちゃんとチャイムが聞こえるようになればどっちだっていいのだが、自分から首を突っ込んだ以上、分かる範囲できっちり結論を出した上で引き継ぎたい。どのみち、用務員さんの手が空くまでにはもう少しかかりそうなので、時間を惜しむ必要もない。


「……………………」

「……………………」

 額から滴った汗がスピーカーにかかってしまわないよう、定期的にハンドタオルで拭いながら黙々と作業を進める。そんな様子を、ユリさんは横からじっと見ている様子だった。俺が言うのもなんだけど、一体何が面白いんだろう……?塾に行かなくていいのかな?

 ユリさんは確か、学区内トップの進学校を志望していたはず。その優秀な成績と内申点ならば、このまま順当にいけば合格するんだろうな、と思う。頭が良い人が考えていることというのは、正直よく分からない。

 ちなみに、去年まで付き合っていた先輩とはその人の卒業を機に別れて、今は同じ学年のサッカー部の奴と付き合っているとも風の噂で聞いていた。その彼氏とさっさとデートなり塾なり行けばいいのに……。ユリさんが俺にとって手の届かない存在であることは今まで通り変わりなかったが、その交際相手が違うというだけで、何だか心をざわつかせるものがあった。有名人の先輩という俺から見ても明らかに異次元の存在が相手であるならば、諦めがつくと言ったら変だけれども、気持ち的に釣り合いが取れるというか、腑に落ちるというか、ユリさんの持つ神秘的な雰囲気に実によく似合っているような感じがした。しかし、その相手が自分もよく知っている同級生に替わったと聞くと……。

 こういう暗い気持ちを抱いてしまうのは、変なことのように思えた。どっちにしろ、自分には関係ない話のはずなのに。


 俺がそんなことを考えているとは知る由もないユリさんは、ひたすら筐体と真顔でにらめっこを続けている俺をからかいたくなったのか、不意に俺のうなじ辺りに顔を近づけて鼻を鳴らすと、耳元でこう囁いてくる。


「昭一君、汗くさーい♡」


 ──鬱陶しいな。

 こっちは真面目に黙々と仕事に励んでいるというのに。

 集中している時に邪魔をされた苛立ちが俺の目つきにも出てしまったのだろう、俺と目が合ったユリさんは、『この人のこんな表情、初めて見た』とでも言いたげに、その場でたじろいでいた。

 多分この人は、男子からこういう険しい顔を向けられることは、今まであまりなかったのではないか。


 意に介さず作業に集中し直す俺の横で、感心したように彼女は言う。

「よっぽど、好きなんだね」

「……まあ、うん。好きみたいだね」

 手を動かしながらだからか、他人事みたいな返事になっていた。

「好きなことに、真っ直ぐなんだね」

 何が言いたいんだろうと思って、チラと表情を一瞥するが、幼い子供が分からないことを親に尋ねる時に浮かべるような、素朴なその言葉と表情以上のものを、そこから読み取ることはできなかった。

「そりゃあ、好きなことに対しては、皆真っ直ぐになるでしょ」


 一瞬だけ、沈黙が落ちた。

 あれ……?今、俺、何か変なこと言っただろうか?

 ユリさんだって、音楽が好きだから、あんな上手にバイオリンとピアノを弾けるんでしょ?

 好きじゃなかったら、俺だったら多分、厳しい練習の途中で心が折れてるんじゃないか。そんな風に思う、んだけど……?


 もう一度、ユリさんの様子を横目で盗み見てみるが、その表情は、なんというか……。

 ひどく、透き通って見えた。

 それはおそらく、俺が今までに見てきたユリさんの姿の中で、一番美しい顔だった。

 透き通っていて、美しくて、でも。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 その時俺は、ユリさんの全貌が、象牙でできた魂を持たない彫像に変身してしまったかのような、そんな錯覚を覚えていた。


「私も、昭一君みたいに、真っ直ぐになれるかな?」

 彼女はポツンと呟く。何か、あったのかな。

「んー、俺には分からんけど。でも……」

 俺はユリさんと大した関わりなど持っていないから、深い事情なんかは知らない。だから、立場とか関係なしに、彼女が考えてることを丸ごと有耶無耶にしてしまうような言葉を、“作業に集中している片手間に”差し出すことにした。

「ずーっと生き続けていけば、真っ直ぐか遠回りかなんて、そのうち関係なくなるんじゃない?」

 ずっと真っ直ぐ歩き続けられる人なんて、そもそもほとんどいないだろうしね。

 この人はやっぱり頭が良いんだと思う。何に悩んでるのかは知らないけれど、多分頭が良すぎて、色んなものが見え過ぎてしまうんだと思う。


「そっか、……続ければ、ね。なるほどね。

 良い事聞いた、ありがとう。

 今後の参考にさせてもらいます」

 真っ白い象牙に、人の血の色がもう一度戻ってきていた。俺の言いたいことが、少しでも伝わっていればいいな。


 それから間もなく、プレハブ教室の近くまで自転車を押して迎えに来た彼氏の声に呼ばれ、ユリさんは帰っていった。

 トタン屋根の下から去っていく彼女の後ろ姿を、作業しながらの横目でしばらく見送っていた。



 この話に、特にオチはない。

 結局、そのあと俺は回路の中で山を張っていた箇所が悉く見当違いだったことに業を煮やし、ヤケクソで筐体の中の結線全てを虱潰しにテスターで検証しまくる羽目になった。その中で何箇所か発見した断線部分を結線し直し、ダメ押しで経年劣化した部品も自前でいくつか交換した上で再度ラインに接続し直したところ、ようやく、待ち侘びたそのチャイムの音を古ぼけたスピーカーコーン越しに聞くことができたのだった。正直、新しいスピーカーを買い直した方が早かったと思う。思い返せば、最後までスマートさの欠片もない、ただただ稚拙な仕事だった。とは言えそれが、ある意味俺にとっての最初の成功体験でもあった。

 オチのない話があったっていい。伏線を回収しない物語があったっていい。

 “続けていく”ということは、そういうことだと思うから。


 来年の春に中学を卒業したら、多分もう二度と、俺とユリさんの人生が交わることはないんだろう。俺は工業高校を出て就職して、ユリさんは進学校から大学に進んで、そしてやがて全く違う軌道を歩んでいく。

 でも、そこにあともう一つだけ何か意味を付け加えるとするならば……。


 あの夏の日差しで熱されたトタン屋根の下、彼女が俺の耳元で囁いたあの悪戯っぽい声と、初めて俺の怒った顔を見てたじろいだ表情と、そしてプレハブ教室の廊下に鳴り響いたあのチャイムの音色を。

 俺はこれからも、ずっと忘れないだろう。

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