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B


【 B 】



201X年



「君の成績なら、大学に行けるかもしれないね」

 高校の進路面談で、俺は担任の教師からそれまで考えたこともなかった選択肢を提案されていた。同県内のとある私立の工業大学への指定校推薦枠を使うつもりはないか、というお誘いだった。

 自分の感覚では、今までの人生で勉強が得意だったことは一度もなく、この工業高校の電気科を卒業した後はすぐに就職をして社会に出るものだと思い込んでいた。

 この高校に通う生徒達は個性豊かな者が多く、確かに言われてみれば、自分という生徒はその中でも真面目な部類だったのかもしれないと今更気付く。勉強自体の得手不得手は置いておいても、授業は全てちゃんと聞くようにしてきたし、小学校入学以来現在に至るまで無遅刻無欠席を継続していた。まぁ昔から、他人と比べて俺の取り柄と呼べるものは、身体が丈夫なことぐらいしかなかったから……。

 親とも相談の上、折角のチャンスだし使わせてもらったらどうだろうということになり、そこから推薦入試への準備が始まった。

 担任によれば校内選考については順当に通過するだろうとのことで、小論文や面接などの対策を中心に準備を進めていた。ただ、それとは別に、特に学力に不安のあった英語や、数学と物理の重要な単元を放課後の自習室で勉強していくことが日課になった。指定校推薦だから大丈夫だろうとは言われつつも、もし不合格になってしまったらどうしようと不安が湧いてきて、最悪の場合を考えて一般入試で滑り込める可能性も上げておきたいと思ったのだ。元々家族には高校卒業後は就職するつもりで話をしていたので、浪人することになったりして親に想定外の負担をかけてしまうことは避けたかった。

 結果的に推薦入試で無事に合格内定を貰えたのでその不安は杞憂に終わったものの、もしあの時期に自主的に勉強していなかったら大学の授業でより一層苦戦したことだろうと、今になって思う。



✳︎



 学部の授業内容が煮詰まってきた辺りから、漠然とした不安に襲われることが増えた。

 大学という環境には、自分よりも学業の成績が段違いで優れている同級生や、部活動で多くの実績を積んできた者などが大勢いて、自分という人間に存在価値なんてあるんだろうかと思ってしまうことがある。

 そうでなくても、例えば検索エンジンで自分の通う大学について検索してみると、サジェストに『◯◯工業大学 Fラン』だとか『◯◯工業大学 恥ずかしい』だとか自動で表示されるので、そういった心の隙間に侵食してくるような言葉の羅列に簡単にアクセスすることができてしまう。そういう言葉自体は単なる匿名の落書きみたいなもので、大した意味などないということは頭では分かっている。しかし、そんな取り留めのない言葉の泡沫にさえ揺らいでしまうほど、俺の心には迷いが生じていた。思えばその頃はインターネットを中心に『大学に行ったって意味ない』というような言説をよく見かけた気がする。

 高卒で就職した友人達とも連絡を取り合っていたが、生活スタイルが異なることもあり、少しずつ感覚的なズレを感じ始めた。働き出してからまとまったお金が入るようになったからだろう、『納車なう』という文言とともに自動車やバイクの写真をタイムラインに投稿する者が出てきた。それを見ながら、自分はまだそのスタートラインにすら立っていないのだなと、大袈裟に考えたりしていた。


 ド田舎にある自宅から都市部にある大学までは片道一時間以上かけて通学していた。都会には様々な誘惑が待ち受けていて、進学とともに街へ出てくるようになった若者達を次々と絡め取っていくのだった。授業についていくのに必死でバイトに精を出す余裕もない俺には無縁なものが殆どだったが、それでも一箇所だけ、現実逃避をするように一時期通っていた場所がある。

 それは、深夜のナイトクラブだった。

 最初にそこを訪れたのは学内の友人に誘われたからだったが、自分とは縁の遠いチャラついた連中ばかりのやかましい場所だろうというイメージとは少し異なり、その店には自分みたいに目立たないタイプの人も含めて、幅広い種類の人間が出入りしていた。なんというか、一度エスケープした先からさらにエスケープしてきました、って感じの人達も。そこには様々な人間が集い、しばし現実を忘れながら音楽と酒に身を浸していた。特定の価値観を強制されることもないその緩い雰囲気は、乾きかけていた俺の感性には沁み入るようで、とても居心地良く感じられた。

 見ているだけで気持ちが落ち着くような柔らかい照明のみで照らされた暗がりへ潜っていく時に、そういえば、中学高校の頃に反抗期らしきものは経験してこなかったな、なんて思うことがあった。

 室内を満たす音楽に恍惚としながら、背伸びしたさにスコッチだとかバーボンだとか、“カッコいい大人”が飲んでそうなものをあれやこれやと注文しては、自分の身体に合うかどうか試したりした。尤も、残念ながら俺は人一倍アルコールに弱い体質のようで、最後まで美味しく飲めたものは片手で数えられるほどしかなく、悪酔いした結果大便器のお世話になることも少なくなかった。


 その日のDJは、いつも以上にセンチメンタルな気分のようだった。フロアには古い年代のR&Bやソウルミュージックが流れ、メロウなムードに包まれている。客は皆そのリラックスした雰囲気に身を任せ、体を揺らしている。

 この部屋を手掛けたのは、密室音響の狂気的なプロフェッショナルであるらしい。テーブル上で意図的に古めかしくイコライジングされた音像は、吸音性が絶妙に調整された壁と天井に跳ね返り、高音域を中心に柔らかく減衰、空間にフワリと霧散していく。床から天井へ、天井から床へ、音は溶媒に溶解していく電解質のように空間と混ざり合っていき、この世にこの一室だけの桃源郷を現出させていた。

 Cornelius Brothers & Sister Roseの『Too Late to Turn Back Now』から、Isley Brothersの『This Old Heart of Mine』へ、違和感なく揃えられたBPMとピッチでシームレスに移り変わり、時代を遡っていく。ベッタベタではあるのだが、甘くてロマンティックなストリングスの音色に当てられて、“I Love You〜”などという擦られすぎて殆ど意味も残ってないような一節にさえ瞳が潤んでしまっていた。酩酊感のせいだろうか、だんだんとフロアを満たす音そのものが天然色以上に雄弁なモノクロ映画の世界に巻き戻り始めているように思えてきて、まるで自分達の体が胎内へと還っていくような、そんなちょっと怖いイメージさえ浮かんでくる。

 疲れ過ぎているようだった。

 音楽と酒に当てられた頭をクールダウンしようと、俺は休憩を取るためにフロアを後にした。階段を降りてレストルームへと向かう。そのクラブには男女別の区画とは別に、多目的用の洗面所が設けられていた。こういうお酒を提供する娯楽施設では俺のようにちょくちょく失敗してしまうお客さんが一定数存在するみたいで、いざという時に駆け込めるようフロアの近くにそういう緊急避難的スペースが確保されているようだった。そんなことを考えながら階段を降りているうちに、本当に気分が悪くなってきた気がする。今日はあまり飲んでいないはずなのだが……。歩調を早めて、曲がり角の向こう側の洗面台に駆け込むと、そこには──。


 中学時代の俺の“アコガレ”が項垂れていた。

 中学校の卒業式以来に見たその後ろ姿は膝をついて、洗面台に力無くもたれかかっていた。

 その髪は、元々地毛だったはずの赤みがかった色の上から、丸ごと真っ黒に染め直されていた。

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