C
【 C 】
202X年
頭上のスピーカーから流れ出した蛍の光を聞いて、しまった、と思い腕時計を見る。
現場から直帰の帰り道、調べ物のために図書館に立ち寄ったは良いものの、新刊コーナーで懐かしい本を見つけてしまい、手に取って頁を捲り、そんなつもりはなかったのにそちらの方に没頭してしまっていた。
それはカフカの『変身』で、近年新たに訳し下されたものだった。中学の頃、図書室で古い訳を読んだことがあった。初読の際もそのあまりに不条理な結末に驚いたものだったが、年月を重ねた今、違う訳者によって現代的な言葉遣いでより読みやすく解されたそれを読み返してみても、作品の放つ衝撃は全く変わりなかった。一方で、新訳にあたって作者の人となりについての詳しい解説が付録されていて、ミステリアスな作家というイメージがあったカフカについて、新たな一面を覗いたような驚きが得られた。こうした重層的な読書経験ができることが、古典とされる作品を読むことの楽しみの一つなのかもしれない。
本来の目的だった本を借りる手続きをして外に出ると、陽も隠れ、辺りは暗くなり始めていた。気温と湿度が高い季節になってきて、外気に触れただけでアースグリーンの作業着と黒のスラックスの下、ムワリと体温がわだかまる。
早く帰りたいところだったが、片側一車線道路の向かい側、青果店の明かりが目に入る。それを見て、図書館に寄る前にユリさんから『ネギとカボチャを買ってきてほしい』とメッセージが届いていたことを思い出す。
店内でそれらを見繕い、またシシトウも安かったので一パック買っていくことにする。
カゴを持ってレジに向かうと、出入り口近くに陳列された花卉類の一角が目に入った。赤、白、黄色。野菜や果物のコーナーよりはこじんまりとしているが、それでも存在感だけは負けまいとその色合いでもって店内に文字通り華を添えていた。
その中で最も目を引いたのは、鮮やかな赤色の、バラの切花だった。
バラは今頃が開花時期らしく、意外と一本あたりの単価も手頃なようだ。茎の棘はあらかじめ丁寧に処理されていた。値札を見て、せっかくだから買って帰ろうかという考えが浮かんでくる。
今の家にユリさんと一緒に住むために引っ越してきてまだ日が浅く、余裕ができ始めたのもごく最近のことだった。本当はもっとちゃんとしたプレゼントを用意したいのだが、今日取り急ぎこれだけでも先に渡したくなってきた。
束で買っていっても圧があり過ぎて“重い”と思われそうな気がしたので、とりあえず一本だけ戴いていく。店員さんが白い包装紙で丁寧に包んでくれているのをレジ横で眺めていた。
会計を済ませて、駐車場に戻り自家用車のミニバンに乗り込む。
巨大なカゴが助手席に鎮座している。現場によっては業者用の駐車スペースが限られていることが多く、いざという時にすぐ車をどかせるようにしなければならない。そのため、迷ったらとりあえず荷物を中に放り込めるよう、このカゴを助手席に常備していた。
無造作に放り込んでいた仕事道具の反対側、まず丸くて大きなカボチャを配置、その上にシシトウのパック、そして四隅との間に出来た隙間に、倒れないようネギとバラの花を差し込む。
その一輪のバラを見ていると、なんとなく自分自身の身なりも整えたくなってきた。
今日は新しく現場入りする業者との挨拶も兼ねていたので、作業着の下には白いワイシャツを着ていた。水色のネクタイをルームミラーで確認しながら綺麗に締め直す。
今日一日で髭も伸びていたので、鞄から携帯用の小さいシェーバーを取り出して、長くなって顔を見せ始めていた鼻毛ごと剃ってしまう。埃っぽい現場の時期なんかは、鼻毛の伸びるスピードが異様に速い気がする。
たった一人のためだけの身支度も整い終わり、エンジンをかけて車を出す。
図書館でついでに借りてきたCD、バルトークの室内楽を再生する。正直クラシックについては全然詳しくないのだが、分からないなりに、疲れた体に美しい旋律が染み込んでくるようだった。民家もまばらな田舎道を走り抜ける時に、グッとボリュームを上げてみる。
雲一つない夜空には丸い月がポッカリと浮かんでいて、地上に青い光を神々しく放射していた。こんな夜は、惑星全体の眠りが浅くなって、彼我の境界が曖昧になり、やがて世界の理そのものが夢を見てしまうのかもしれない。頭のどこかでそんなことを考えながら、ユリさんが先に帰り着いているであろう自宅へ、車を走らせる。
◆
「ただいま」
私は誰もいない新居の鍵を開け、玄関でスニーカーを脱ぎながら帰宅の挨拶を呟いた。退勤後にアプリでオンにしておいた空調はまだ利きが中途半端で、室内に未だ残る熱気に素肌から汗がジワっと吹き出てくる。
昭一君はまだ帰ってきてなかった。スマートフォンを見ると、昭一君から『図書館に寄って帰る』とメッセージが届いていた。それなら今のうちにお風呂に入ってしまおうと、下着とタオルを引っ張り出して入浴の準備をする。
仕事着であるところの紺色のポロシャツと黒い無地のジャージ生地のズボン、その下の肌着を脱いで、洗濯機に放り込む。今日一日の汗でじっとり湿ったブラがポロシャツの生地に纏わりついてきて、非常に脱ぎづらい。サイズだけは無駄に大きいせいで、夏場とかはこんな風に脱ぐのが面倒だったり汗が蒸れたりで難儀なんだよね……。
一つ結びにしていた赤髪を解き浴室に入ると、タイマー式の湯沸かし器が既に浴槽にお湯を張ってくれていた。昭一君との同居のためにこの部屋に来るまでは自分で蛇口を捻るタイプのお風呂を使っていたので、あまりに便利すぎてなんだか不思議な気分になる。暑くなってきてからはシャワーで済ませる日も増えてきたのだが、週末くらいは肩までお湯に浸かろうということにしていて、所定の時間になると自動でお湯が溜まる設定にしている。
昭一君が帰り着くまでにはまだ時間がかかりそうだったので、髪を丁寧に洗った上で浴槽にもゆっくり浸かることができた。
浴室から出て、下着姿で髪を乾かしながら、そういえば着られるものがなくなってきたなと気づく。
この部屋にも越してきたばかりで、衣服の多くはまだ段ボールの中に入ったままだった。勿論、必要最低限のものはすぐ使えるよう既に取り出していたのだけれど、二人とも働いていることもあり、洗濯籠の中にはだんだん洗濯前の衣服が溜まり始めていた。
善は急げということで、夏物はあとどれだけ残ってるかなと、寝室の段ボール箱の中身を見定めていると……。
「うわぁ……なっつ…………」
ひっくり返した段ボール箱の一番底に仕舞われていた、とんでもなく懐かしい代物が目に飛び込んできた。
それは、中学時代の夏服だった。母校の女子用の制服はセーラー服で、そのうち夏服は全体がポリエステル100%の純白の生地で構成された半袖のものだった。胸から肩にかけての襟の部分に付けられているアクリル生地のラインもマッドな感じの白色で、胸元に結ぶ赤いリボンのアクセント以外は全て真っ白で構成されているのが大きな特徴だった。通気性を考慮しているのだろう、冬服と比べるとパリッとした硬めの生地が使われていて、冬服の柔らかく曲線的な外観とは異なりやや直線的なシルエットが目立つ。夏場はこの真っ白なセーラー服に赤いリボンを結び、下は黒いスカートを合わせるという服装を学校から指定されていた。
なんでこんなものがこんなところに。もしかしたら、荷造りを手伝ってくれたお母さんが、こっそり段ボールの奥底に入れておいたのかもしれない。なかなか粋な真似をしてくれるじゃねえかママン……。
昔の制服を目の前にして、私は昭一君の当時の様子を思い浮かべていた。当時は、自分なりにアプローチをかけてみてもほとんど手応えがなかったんだよなぁとか、今思えばあの頃の私は相当猫被ってたなぁとか、思い出したりする。
ふと、『もしかしたら、まだこれ着れるかな?』なんて考えが浮かんでくる。いや、まさかねぇ……。
でも、身長は中学校を卒業してから殆ど伸びてないから、骨格もそんなには変わらないはず。確かに、あれから胸囲はかなり大きくなったし、二の腕もお腹周りも太腿も……随分貫禄は出てきたけれども……。
……まぁでも、意外にいけるんちゃう?中学時代の学ラン姿の昭一君を思い浮かべているうちに、だんだんテンションが上がってきた。それに当時は授業間の着替えの手間を省くために、体操服の上からこの制服を着ていく時さえあった。下着だけの状態で直接着れば、体操服の厚みの分だけプラマイゼロになるし、多分いけるいける!
十年以上ぶりの制服姿を昭一君に見せつけて、リベンジしてやるぜ、ガハハ!勢い込んだ私は、いそいそと夏服のファスナーを開けて着込み始めた。
✳︎
これ、無理では……?
ファスナーを開け始めた瞬間から薄々気づきつつはいたものの、想像以上に、歳月の移り変わりというものは残酷だった……。時の流れは不思議だね……。
とりあえず、スカートの方はまず一縷の望みも残ってないことがすぐ分かり、早々にギブアップした。ホックが留まらなくてもファスナーさえある程度上げてしまえば……などという甘い考えは打ち砕かれ、それ以前、タイトなヒップに私というボディをねじ込めない事案が発生していた。
マジで?私の尻肉、今どんなになってんの?よくよく考えれば、最後に体重計に乗ったのいつだっけ……?仕事をしながら少しずつ同居の準備を進めていたこともあり、よく思い出せない。額を一筋の脂汗が流れていく。
……まぁまぁまぁ、スカートはしゃあない。中学校の頃の私は同級生と比べても飛び抜けて身体が華奢で細身だったから、スカートもかなりウエストを絞った状態に仕立ててもらっていたのだった。むしろ当時の方が異常だったのだ。そうに違いない。
問題はセーラー服の方だ。こっちさえ入れば実質勝ちだから。あとはどうとでもなるから……。裾の方からズボッと上体に被り込み、襟元の方に頭を、袖の方に両腕を、よいしょよいしょとねじ込んでいく。あ、こっちはなんとかなりそうだな……。中学生の年代はまだ身体が成長途上である生徒が多く、サイズに余裕のある制服を見繕う場合が多い。上に着るセーラー服なんかは特に、スカートの腰回りなんかと違ってあとからサイズを仕立て直すことが難しく、性徴で胸囲が大きくなるのを目立たないようにする意図も込みで、初めから大きめサイズのものを購入する子が多かった。私の場合はそれに加えて、同年代の中でも特に小柄だったから、中学校のうちに体が大きくなる可能性も高いだろうということで、かなり余裕のあるサイズのものを選んでいた。結局、中学に通ってる間は小柄で華奢な体格のままだったけれども。
なんとか、頭と両腕を突っ込んで、セーラー服を着ようとしたのだが、あと一歩のところで、上手く上半身を覆いきることができない。特に、肩から胸のところでギュウギュウに詰まっちゃって、そこから下に裾を下ろすことができない。
中学の時は上から下までほっそりスレンダーな体格だったのに、高校に上がった頃から胸がどんどん大きくなって、その成長速度に自分でも驚いた記憶があった。人並み以上のバストを持つ者の宿命として、身につけられる下着の種類が限定されてしまうという悩みがある。今私が身につけているのはベージュ色の無骨な雰囲気すら漂うブラだった。胸の重さをしっかり支えなければならないので、これ自体にもそれなりに厚みと重みがある。汗で蒸れるし、本当は家の中でぐらいは下着の拘束感から解放されたいというのが本音なんだけど、彼と同居し始めたばかりということもあり、流石にノーブラで過ごすのは自重していた。
これを外してしまえばちょうど良くなるかもしれない。いつの間にか目的が『とりあえずこれを着てしまってから、後のことは考えよう』ということにすり替わっていた私は、なぜか下まで脱いで完全に素っ裸の準備万端状態にしたうえで、再度セーラー服にアタックを仕掛けた。
……よしよし!いけるいける!
やはり、ブラ自体の厚みと生地同士の摩擦係数が障壁になっていたのだろう、胸の先端が化学繊維の硬い生地に擦れるくすぐったい感触に四苦八苦しながら、なんとかお腹の辺りまでセーラー服の裾周りを下ろし、ファスナーを閉じることに成功した。
どんな感じになってるのか確かめるべく、居間に置いている姿鏡に、今の自分の姿を映してみる。
……なんか、あれだな。そういう“ビデオ”っぽい雰囲気が拭えないなこれは。
生まれつき洋風な趣を含んだ顔立ちには、二十代を折り返した辺りから早くも“マダムっぽい感じ”が現れ始めていて、十代の女の子が着るような純白色の制服とのチグハグ感が否めない。それに、夏服に使われている化学繊維の硬くてパリッとした生地感が、その印象により拍車をかけている。
間違いなく当時自分で着ていた制服であるはずなのに、こんな感じに仕上がってしまうという結果に、なんとも言えない気分になる。これじゃまるで、コスプレしてるみたいじゃん。いや、もしかしなくても実際コスプレだわ、これ。卒業してどれだけ経ってると思ってんだ……。
自分の体型自体、各部の直径が当時よりも満遍なく太くなっているというのは勿論あるが、それに加えて胸がかなり大きくなってしまったのが致命傷になっていた。
ネットやSNSなんかで時々、ヘソが出るくらいの丈のセーラー服を着ている女の子のイラストを目にすることがあるのだが、見かけるたびに『こんな風にヘソが出ちゃうような恥ずかしい格好を自分からすすんでする人なんてこの世の中にいるのかなぁ』なんて鼻で笑ったものだった。
いましたねぇ!鏡の向こう側に!何が恥ずかしいって、裾の下から見えてしまっているお腹周りにも、ばっちり成長の証が現れちゃってることだ。
ていうか、なんで私、パンツまでノリノリで脱いじゃったんだろう……。全然関係ないだろ……。
こんな感じでひとしきり自分一人で盛り上がったところで、そろそろ昭一君も帰ってくる予感がしたし、一人コスプレパーティーはお開きにすることにした。思ってたのとは違ったけれど、楽しかったし、まぁいっか。まさかこんな恥ずかしい格好を昭一君に見られる訳にはいかないから、早く着替え直さないと。
そう思って、セーラー服の脇の下、さっきまでフンスフンス言いながら引っ張り降ろしていたファスナーを上げて脱ごうとしたのだが。
あれ?ファスナーが上がらない?なんで?
もしかして、胸を無理やり押し込んだせいで、金具に内側から変な圧が掛かって、スライダーの噛み合わせがおかしくなってしまったのか?
額から脂汗が一滴二滴と流れ伝ってくる。
……ファスナーのことはひとまず置いといて、とりあえずパンツを履くか。流石に、素っ裸の上からセーラー服一丁しか着ていない姿を目撃されるという最悪の状況は避けなければ。
そう思って、床に脱ぎ捨てたパンツを拾い上げようとしたのだが。くっ……、胸のところが苦しくて、屈めない……?!無理に胸を押し込んだせいで、セーラー服の中がパンパンになってしまっていて、上半身を曲げたり捩ったりする動きを取ることが困難になっていた。なんとか下半身だけでしゃがみ込み、手を伸ばしてパンツを拾い上げようとするが、自分の肉の圧が邪魔になってなかなか手が届かない。コントか!馬鹿馬鹿しいことこの上ない状況だが、私にとっては笑い事なんかではない。しばらく床のパンツと格闘しているうちに、拾い上げられないのなら箪笥から新しいものを取り出せばいいのでは?というコロンブスの卵的発想に至る。四股を踏んでいるような体勢から、なんとか身体をよっこいせと立て直す。誰が横綱土俵入りじゃコラ?!
そうして新しいパンツを取ってこようと再度寝室に向かおうとしたその時だった。玄関の方から、ガチャガチャと鍵が回される音が聞こえてきた。
え、嘘……。昭一君、帰ってきた?
「ただいまー」
廊下と居間とを隔てる扉の向こう側、昭一君が帰宅を知らせる声と、いつも荷物が満載のあのカゴを三和土に下ろす音が聞こえてきた。
「ごめーん、図書館で長居しちゃって遅くなったよ」
改めて自分の格好を見遣るが、相変わらず全裸パツパツセーラー服という変態さんスタイルはそのままだった。
身動きが上手く取れないこの状態では、今から寝室に戻ってパンツを履き直そうとしても、時間的に間に合わないだろう。
……こうなったらもう、“奥の手”を使うしかない!
私は床に落ちたパンツを手際よくカーテンの陰へと蹴り飛ばし、大きく息を吸い込むと、深く念を込めた。
すると次の瞬間、私の身体の持つ能力が発現された。
頭や手足に至るまで、全身が白いセーラー服の内側へ瞬時に吸い込まれていき、そして一つの流動的な物体として、セーラー服の生地と同化していった。
◇
車から降りて、助手席のカゴごと荷物を下ろす。懐かしい本が読めたり、シシトウが安く買えたりで今日は良いことが色々あったおかげで、機嫌が良かった。
「最低の君を忘れない♪
おもちゃの指輪もはずさない♪」
懐かしい歌を口ずさみながら、自分達の部屋に続く階段を意気揚々と登っていく。204号室の前に辿り着き、解錠して中に入る。
「ただいま」
三和土には既にユリさんのスニーカーが並んでいた。
「ごめん、図書館で長居しちゃって遅くなったよ」
部屋の中にいるはずのユリさんに話しかけながら、居間に続く扉を開けるが……。
そこにユリさんの姿はなかった。代わりに、壁際に立てかけていた姿鏡の前に、何かがポツンと佇んでいた。
一瞬、その見慣れないシルエットが何なのか分からず混乱するが、近づいてよくよく見てみるとそれは中学時代の女子の制服だった。裾周りの円周を底面に見立てて、女性型のマネキンの上半身に着せられている時のような厚みでもって、床に直立した状態で置かれている。なんでこんなところにこんなものが?
入り口が半開きのままだった寝室の方も覗いてみるが、そこにもユリさんはいなかった。玄関に靴はあったから、家の中にはいるはず。お風呂にでも入ってるのかな?
「…………」
どう考えても怪しげな真っ白いセーラー服を横目に見つつ、家の中を探してみるが、どこにもユリさんの姿はなかった。
うーん。
もう一回、居間のセーラー服の方を見遣る。
少しだけ、またこの間のように『あれ、こんなところに昔のセーラー服があるぞ?洗濯機でザブザブ洗ってあげた方がいいのかな?』みたいな茶番で遊んであげようかな、という考えも浮かびはしたが……。正直、今日は外で沢山汗をかいてきて早くお風呂に入りたい気分だったので、早いところ核心に触れることにした。
セーラー服の真ん前にしゃがみ込み、
「ねぇねぇユリさん?なんでセーラー服のふりをされてますのん?」
と話しかける。
「えっ?!なんで私だってバレたの!?」
セーラー服の襟に囲まれた穴の中から、くぐもったようなユリさんの声が聞こえてきた。それまで微動だにせずいかにも『私は単なる物品です』みたいな態度で佇んでいたセーラー服は、俺の問いかけにビクッと反応して、両袖をワチャワチャと動かしピョコピョコ跳ねながら慌てふためいていた。
「いや、そりゃバレるでしょ……。だってあなた、こういうパターン初めてじゃないんだから……」
一人でにバタバタ動き始めたセーラー服もといユリさんの姿があまりにおかしくて、呆れ笑いをしながら俺は彼女にツッコミを入れた。
実は、ユリさんの身体には、不思議な能力が宿っている。
何を言ってるんだと思われるかもしれないが、ユリさんは人間以外の姿に変身する能力を持っているのだ。正確には、身につけている物を巻き込んで媒介にしつつ、身体の形態を流動的なものへと変化させることができる。
昔から、この世には変身能力を持つ女の子がいるらしいという都市伝説は聞いたことがあった。しかしまさか、ユリさんがその張本人だったとは。その能力を俺が知ったのは、中学卒業から何年も経って再会したのちしばらくして付き合い始めてからだった。
元々小さい頃から既に身体に宿っていたそうだった。また、本人曰く、変身能力を持った女の子の中でも、この年齢まで能力が身体に残ったまま歳を重ねている例は少ないらしい。そのことが確かならば、ユリさんはそれこそレアケース中のレアケースだと言えるだろう。
少し前にも、ユリさんは私服やら掛け布団やらに擬態して、俺を驚かそうとしてきたことがあった。そういう前例があったので、俺は部屋の中に佇むセーラー服を視認するなり、どういう状況なのか大体察していた。大方、一人でセーラー服を着てみようとしたら脱げなくなって、そこに俺が帰ってきたものだからセーラー服の中に隠れてやり過ごそうとでも考えたのだろう。
「そもそも、セーラー服は自力で床に直立したりせんのよねぇ」
あまりに堂々と突っ立っているものだから一瞬そういうものなのかなと騙されそうになるが、今ユリさんが同化しているセーラー服はまるで透明人間の上半身に着込まれているかのようなしっかりとした厚みと質量感を持っていて、それを重しにしてフローリングの床にどっしりと直立しているのだった。単なるセーラー服一枚を単体で平面上に立たせようとしても、どこかがヘニョンと曲がったりして、こんな風に直立させられないはずだ。
「うーん、そっかぁ。なるほどね。今後の参考にさせてもらいます」
右袖でポリポリと襟のところを弄りながら、ユリさんはぼやく。一体何の参考にするんだろう……。
高嶺の花としか認識していなかった中学時代には気付かなかったことだが、この通りユリさんという人の中身は何というか、なかなかどうして“おもしれー女”だった。
中学時代に抱いていたイメージとは全然違う感じだったので再会した当初は驚きの連続だったものの、こうして素の自分を開けっぴろげにしているユリさんの方が自然体で活き活きしているのは明らかで、その一挙手一投足がだんだん愛おしく感じるようになってしまった。こうして、人間としての素肌が全て制服の中の空間に引っ込んで同化してしまった珍妙な姿でさえ、とても可愛らしく、いじらしい。
いつも以上にちっちゃくなってしまった身体を一生懸命にグニグニ動かして感情表現しようとするその様子は、そういう類のマスコットキャラクターのように見えなくもない。ずっと見ていても見飽きないが、俺もそろそろ汗を流してきたくなってきた。やり取りもそこそこに俺はお風呂に向かおうとすると、ちょい待ちとユリさんから呼び止められた。何だろうと思って振り返ると、セーラー服の襟の穴のところ、顔はめパネルから覗き込んだ時のようにユリさんの顔だけが真上方向を向いてムニュっと生えてきた。その挙動は、亀が甲羅の中から首を出しかけて外の様子を窺う仕草を彷彿させる。前髪などの遮蔽物もなく晒け出されたその顔は、何やら申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「あのー、大変申し上げづらいんですが……。セーラー服から身体を生やせなくなってしまいまして、この間みたいに手を貸して欲しいんですが……」
「えぇ……、また?」
「はい、お手数おかけします……」
両袖を身頃のところで合わせてモジモジとしながら、苦笑いを浮かべている。
能力歴の長いユリさんと言えども、持つ力の全てを自由自在にコントロールできる訳ではないそうだ。例えば、今回みたいにセーラー服のような小さい体積の物体に全身を急激に同化させた場合、そのギャップによって掛かる負荷から媒介物と人間の身体とが強力に癒着してしまい、元の姿に戻るのにも時間がかかってしまうのだ。そういう時は、昆虫が蛹や繭の中で変態を遂げるのと同じように、一旦セーラー服という外殻の中身を融解し切った上で人間の身体を再構築する必要がある。
その変態の過程はおよそ一晩ほどで完了するのだが、少なくともその間はこの手足のないセーラー服姿で過ごさなければならず、時間が勿体無い。しかし、他の人が手助けすることで、変態にかかる時間を短縮することができるのだ。さて、どのように手助けすればいいのかと言うと……。
「ほーい、こっちは準備できたよー」
洗面台でしっかり手洗いうがいした上で、ワイシャツを腕まくりする。
「よっしゃ、ばっちこい!」
改めてセーラー服の中に顔を引っ込め直したユリさんが、カーペットの上に敷き詰めたベニヤの作業板の上に仰向けにゴロンと寝転がる。ちなみに新品のカーペットが汚れてしまわないよう、下にはちゃんと新聞紙を挟んである。
横たわったユリさんを見ていると、ふと今日図書館で読んだ『変身』のことが頭に浮かんだ。なんでかなと少し考えて、その姿がひっくり返った甲虫に似ているからだと思い至る。
「プフッ」
まさか、あの不条理文学が自分の生活風景に重なるとは思ってなかったので、おかしくてつい吹き出してしまう。
「えっなになに?なんで今笑ったの?何がそんなにおかしいの?」
ユリさんがひっくり返ったままゴロゴロのたうちながら尋ねてくるが、そもそもこの場で一番おかしいのはユリさんの格好なので、適当にあしらってさっさと作業に入ってしまう。
「はいはい、なんでもないから。ちゃっちゃか終わらせちゃいますよ」
今、ユリさんの身体はセーラー服と同化した上で、その内側で流動的な形態へと変貌している状態だ。その表面は側から見ると化学繊維の布生地みたいな外観をしているが、力を加えてこねていくと、粘土のように変形させることができる。今から取り掛かる一連の工程というのは、陶芸において粘土に施す下拵えの作業に似ている。
「ふんぬっ、ふんぬっ」
指先で全体の硬さや感触を多少把握してから、両掌に全体重をかけてセーラー服をペシャンコに押し潰す。潰れたそれを垂直方向に90°ひっくり返し、また押し潰す、というのを数回繰り返す。これは一塊の粘土に一番最初に施す処理、“粗練り”と呼ばれる工程だ。全体を大まかに練って混ぜ合わせていき、部位ごとの硬さのムラを均し、内部に隠れている大きな気泡を潰していく。そうすることで、完成後のヒビ割れや変形を防ぐ狙いがある。
「いやん♡うふん♡ヘンタイ♡」
「喘がないでもらえますか?」
ユリさんのおふざけは一蹴してしまい、黙々と作業をこなす。今まさに変態真っ最中なのはあなたでしょうが。何せユリさんの胴体ほどの大きさの粘土が相手なので、なかなかの重労働だ。その柔らかさは実際に陶芸で使うような硬い粘土よりは人肌のそれに近いものの、とにかく体積が大きいので全身を使って練り上げる必要があった。
全体を適当に練り混ぜたら、続いて局所的にひたすら小刻みに起こしては潰し、起こしては潰しを繰り返す“菊練り”の工程に入る。各部位ごとに大体20〜30回ずつ、しっかり捏ねていく。粘土の中の空気を追い出し、全体をより均一な性質にしていくのだ。
「ふにゅう、ふにゅう〜」
粘土状になった生地の表面から、ユリさんの間の抜けた吐息の音が聞こえてくるが、これは内側に空いていた小さな気泡が潰れていってる証拠なので、気にしなくて構わない。ムラがなくなるくらいに満遍なく練り終えたら、徐々に一塊の丸い形へ再度まとめていくように捏ねる。ここまでの工程が上手くいっていれば、全体的にずんぐりとした手応えが感じられて、捏ねた跡が綺麗な模様のように粘土の表面に残っていくようになる。
こうして、全体を均一に練り上げられたユリさんの身体は、白い紙粘土の丸い塊のような姿になっていた。この状態になってもユリさんの意識はちゃんと健在であり、俺の指紋や手相がベッタベタに付いた真っ白な粘土の塊はベニヤ板の上、小刻みに震えている。内部の空気をしっかり抜いていったので、今の彼女は全く声を出すことがことができない。
俺が全体を均一に混ぜ合わせるように練り上げたおかげで、ユリさんの身体が融解と再構築をするプロセスはかなりショートカットできたはずだ。
その綺麗な仕上がり具合に、自分でも結構な達成感を覚えていた。最初にユリさんからお願いされた時は全然上手くいかず、図書館から陶芸入門の本をわざわざ借りてきて、ああでもないこうでもないと試行錯誤をしながらやっていたものだった。しかし何回か経験を積んでいくうちに、だんだん自分でもこなれてきたのが分かる。時折「俺は一体何をやらされてるんだ……?」という虚無感に襲われることもあったけれども……。彼女のお願いならば、仕方がない。
まんまるい形状になった彼女の姿を眺めているうち、ふと、昔話のアニメでこういう話を見たことがあるのを思い出した。怠け者の亭主と働き者の女房の話だったかな。大黒様から願い事が叶う打出の小槌を貰った亭主は、終盤女房と喧嘩になった時に、逆上して「鼻くそになってしまえ!」と小槌を振るってしまった。すると女房はなんと巨大な鼻くそに変化してしまう。後悔した亭主は女房が元に戻ることを願って、それ以降心を入れ替えて一生懸命働くようになった、という話だったと思う。
亭主が巨大な鼻くそになった女房と暮らし続けるというラストシーンの、そのあまりにシュール過ぎる絵面に、当時はどういう気持ちで見ればいいんだろうと困惑しながらテレビの画面を眺めていたような記憶がある。
まぁ、あの話に登場する夫婦とは、自分達の状況は全然違うけれども……。
話を戻して、ここまでで変化の過程そのものへの手助けはひと段落ついた。このままでも放っておけばユリさんの身体は勝手に人間の形へ戻っていくのだが、さらにもう一工夫。
丸い塊の状態ではユリさんが一切身動きできないので、人形みたいな形を作って、手足を動かして自立歩行ができるようにしてあげる。この時にあまり脚を細長く作ってしまうとバランスが取れず立つことができない。本人は不本意かもしれないけれども、まずどっしりとした足腰を形成した上で、余った粘土部分を使って三頭身ぐらいの人型を形作っていく。
同時に、発声のために必要な口腔にあたる空間を顔の内側に確保しておき、最低限コミュニケーションが取れるよう両目と口をかたどった穴をツンツルテンな顔の前面に空けておく。
こうして、暫定的なユリさんの身体が完成した。ずんぐりむっくりなその体型はそれこそゆるキャラみたいなシルエットをしている。あるいは、邪馬台国だとかの遺跡で出てきそう。俺にもっと芸術的センスがあればより洗練されたデザインに仕上げられるのだろうが、生憎美術の成績はずっと赤点ギリギリを低空飛行していたものだから、これでもよく頑張った方なのだ。
「────プハァ」
内部の感覚器官と口腔とが接続できたようで、口の穴からユリさんの呼吸の音が漏れ出てきた。「あー、あー」と声が出せるか確かめている。
体勢も整ったのだろう、徐に立ち上がり、手足の感触を確かめながらフローリングの上をよちよちと歩き始めた。身長は、俺の膝の高さと同じくらい。両目の穴も瞬きするように開け閉めして、ちゃんと動くか確認している。
「うん、ちゃんと動けるね。ありがとう、昭一君」
こちらを向いて、口腔の穴からいつもよりややくぐもった声色でお礼の言葉を発し、ペコリとお辞儀をしてくる。うむ、と頷いて俺も返事を返す。
なんか、アレだな。動き出したら普通に可愛いな。平成ライダーみたいなもんか。
「ごめん、俺センスがないから、今日もあんまり可愛く仕上げられなかったよ」
「えー、そんなことないよ?結構可愛く出来てると思う。
それに、昭一君が作ってくれる身体は重心のバランスがちょうど良くて、私は気に入ってるよ」
片足立ちだってできるもんね、と器用にアピールしてくる。そうまで言ってくれるのなら、頑張った甲斐があった。
それにしても、全身を使って捏ねていたものだから、すっかり疲れてしまった。特に、腕の筋肉がガッチガチにこわばっている。
今度こそお風呂に入るぞと入浴の準備をし始めるが、ユリさんはまだ何か言いたげな様子だった。
「というか、一個だけ気になることがあるんだけどさ……。文句を言うつもりは別にないけれど……」
支度を進めながら、なんじゃいなと続きを促す。
「……良かれと思ってやってくれたのは有難いんだけど、私、こんなに胸とお尻大きかったっけ?」
その場でピョンピョンと跳ねてそれらの箇所をアピールしてくる。なんだそのことか。
俺が先ほどユリさんの身体を形成するにあたって、全体のバランスの中で意図的にお胸とお尻の丸い形を強調して作ったことを言っているのだ。今、ユリさんの三頭身の身体のうち、お胸の部分にはお椀型の半球がもっこりと盛られていて、一方その反対側、臀部の部分にもたっぷりと粘土でもって膨らみを形作っているのだった。こういう土偶、博物館かどこかで見たことがあるような。
別にユリさんをからかう意図なんかは全くなく、こうしたのにはちゃんとした理由がある。普段ユリさんはなかなか立派なお胸をお持ちだから、その形を自力で一から再構築しようとすると結構な時間がかかってしまう。そのため、大まかなアウトラインだけでも準備しといてあげようと思って、こんもりとした形を作っておいたのだ。ただ、お胸だけに粘土を集中させてしまうと、全体の中で重心が偏り過ぎてしまう。そのため、お尻の方にもたっぷり粘土を寄せてバランスを取った、という次第だ。再構築の過程で余った肉に関しては、お腹なり太腿なりに寄せて移していけばどうとでもなるのである。
……まぁここだけの話、気持ち程度、俺の趣味嗜好による誇張が含まれてることは否定できないけれども。でもそれはユリさんには内緒だ。
一応そんな風に説明してあげたのだが、それでもユリさんは不満げにぶつくさ呟いていた。
「絶対こんなにお尻大きくないと思うんだけどなぁ……。中学の頃の倍くらいあるじゃんこれ」
姿鏡で振り向きながらお尻を突き出して、自分でその大きさをまじまじと確かめている。なんか、クレヨンしんちゃんでこういうシーン見たことありそう。
うん、多分今は当時の倍近くありますよ?そう思いつつ、実際に口に出したら確実に機嫌を損ねてしまうので、内心に留めておくことにする。
ともかくユリさんに関しては、あとは身体が再構築されていくのを待つのみなので、姿鏡の前で「鏡餅になった気分……」だとか呟きながらお尻フリフリしている彼女を尻目に、今度こそお風呂場に向かうことにする。本当に、今日一日だけで色々あって疲れたなぁ……。