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Extra 4.こんな夜は嫌だ

思いついたのでまた書きました。

──二人で同居するようになってからもまだ日が浅い、まだ残暑も厳しいある日のこと。



「うわぁ……やっば…………」

 恐るべきXデーがとうとう訪れた。

 仕事で疲れているからなどと言い訳して自分の洗濯当番を数日飛ばしてきたツケが回り、とうとう外に着ていく服がなくなってしまったのだ。クローゼットのハンガーラックはすっからかんである。

 昭一君との同居のためにこの部屋に引っ越してくるに当たって、実家の荷物を全ていっぺんに運び出すことは難しく、季節の服ごとに小分けして運び出している途中だった。随時充分な量を補充してきたつもりだったが、連日の猛暑による発汗速度、そして何より自らの生活習慣のズボラ加減は、当初の予想を大幅に超えていた。

 最悪、部屋着なら多少の汗臭さに目を瞑れば何日間かは使い回せる。しかしさすがに、汗の湿り気を帯びた洗濯籠の中からいつ着たかもうろ覚えな服を引っ張り出してもう一度着ていくだけの勇気はない。一応、仕事着と下着は優先して洗うようにしていたおかげでまだ何着か余裕はあるものの、休みの日にまで職場の名前が書いてある仕事着を着て街に繰り出すのは、ちと気が進まない。

 幸い今日と明日は休みなので、本当ならば今日一日かけてでもまずは洗濯物を全て片付けるところなのだが、折悪しく冷蔵庫の食材や日用品諸々も切れかかっているものが多く、昭一君のことも考えたら今日中に買い出しを優先してやっておくべきなのは明らかだった。


 ダメ元でもう一度、衣服を詰め込んでいた段ボール箱を全てひっくり返すが、やはり汗や脂の滲みていない清潔な服は見当たらない。ある例外を除いては。


 …………例外というのはすなわち、中学時代の制服である夏服の白い半袖セーラー服と黒いスカート、そして指定体操服だった白い丸首と赤いハーフパンツ、この二セットのことだ。おそらくは実家の母親が段ボール箱の中にこっそり忍ばせておいた、懐かしの品々である。


「いやいやいや、ないないない…………」

 不意に思い浮かべた光景の馬鹿馬鹿しさに、思わず頭を段ボール箱にゲシゲシと打ちつける。この制服を身につけて玄関から出ていく自分の姿を想像してしまったのだ。あらゆる意味でキツすぎるでしょ……。真っ先にそんな場面を思い浮かべてしまう自分の変態具合にも頭痛がしてくる。

 中学を卒業してから早十年以上。現在の私の体型は当時と比べて随分恰幅が良くなり、制服にしても体操服にしても今やまともに着られるサイズではないことは身をもって確認済みだ。スカートとハーフパンツはそもそも腰まで上がらないし、丸首はパツパツ過ぎて体操服模様の鏡餅みたいな見た目になるし、セーラー服は無理矢理ファスナーを上げようとした結果内部で胸の肉が詰まって脱げなくなった。こんな情報知りとうなかった……。

 こうしてこれらを保存しているのも、当時の思い出以上の理由はない。


 こうなったら仕事着で出掛けるしかないか……と諦めるのが妥当なところだが、悲しいかな、どうも私はこうして窮地に陥れば陥るほど突拍子もないアイデアが湧いてきやすい思考回路らしい。

 ──中学時代の容姿に変身しさえすれば、制服を着ても違和感がなくなるのではないか。


 …………いや待てよ、それは意外と名案なのでは?

 これは本当にたまたまなのだが、今住んでいるこのマンションが属する校区、そこの中学校の制服は確か、私や昭一君が通っていた中学校のそれと瓜二つ、おそらくは同じメーカーのものだったのだ。入居前に下見に来た時「あ、ここもこのセーラー服なんだ」と思った記憶がまだ新しい。地元と同じ県内なので、同じ業者さんの縄張りなのかもしれない。

 中学生ぐらいの見た目の女の子が、中学校の制服を着て街をうろついていても、おかしいと思う人などいまい。

 この辺りは都市圏のベッドタウンということもあり、その中学校もそこそこの生徒数を抱えていて、また他の地域から引っ越してくるご家庭も少なくない。だから『あそこの中学校にあんな生徒いたっけ?』みたいに疑われるリスクも低い。

 最悪、誰かに怪しまれたとしても、とりあえず今日一日だけ乗り切ってしまえばどうとでもなる。帰宅して変身を解いてしまえば、『謎の女子中学生』はこの街から姿を消してしまうのだ。


 うむ、我ながら穴のないプランではないだろうか?

 覚悟が決まれば話は早い。一人で家にいる時間も勿体無いし、さっさと変身して、出かけてしまおうではないか。

 部屋着の白Tシャツと黒いショートパンツ、そして下着まで全て脱いでスッポンポンになれば準備万端である。


 事の次第はこうだ。まず、素肌の上に直接、丸首体操服を被って着込んでいく。先述の通りサイズはかなり厳しくなっているのだが、生地の伸縮性を活かしてどうにかこうにか上半身をねじ込む。襟元の赤い縁取りの穴から頭部を、両袖から腕をそれぞれ出し、すっかり貫禄のついたお腹を覆い隠すべく裾をグイグイと引っ張り下ろす。頑張りの甲斐あってなんとか丸首の生地で上半身を包み込むことに成功する。生地の硬い名札が前面に縫い付けられている胸元を中心に、ピッチピチに伸びきった生地が径の大きくなった身体のそこかしこをキツく締め付けてくる。

 酷く滑稽な姿だが、それも一時的なもの、この丸首を媒介に身体を中学時代の容姿に変化させていくのだ。グニュッグチュッと音を立てながら、身体が粘土細工のように変形していく。

 例えば、水着姿で写真を撮る時などに細く引き締まっているように見せようとお腹にグッと力を入れたりすることがあると思うのだが、今の体感としてはアレを全身使ってやっているような感覚である。元に戻ったあと、全身筋肉痛になってそう……。

「ふにゅっ、ん……ふんすっ…………」

 身体の表面が蠢いて変わっていく感覚はなかなかくすぐったい。変な声が出てしまいそうで、時折鼻からフンスフンスと息を抜いていく。

 変化が進むにつれだんだんと身体の厚みが萎んでいくのが分かる。生地が体表を締め付けてくる感じが緩んできて余裕が出てくる。変化前とのあまりのギャップに、我ながら当時は病的なほど細身だったのだなぁと痛感する。背丈は今とほとんど同じだったのだが、最も細いサイズのものを選んでもなおウエストや襟元、二の腕のところがブカブカだったものだ。胸の大きさも慎ましやかで、今では考えられないことに、当時は平気でスポブラも着けずに制服を着て通学していたことを思い出した。

 うわぁ、この感覚、すごい久しぶり。身体が軽くてめっちゃ楽……。肩凝りに悩まされることのなかったあの頃が懐かしい……。

 同居し始めて間もないこともあって、今まではなるべく元の姿のままで過ごすようにしてきたんだけど、やっぱ胸は取り外せた方が日常生活が快適なんだよね……。うん、今後は昭一君の様子を見ながら臨機応変にいきましょ……。


 身体の変化があらかた完了したところで姿鏡を覗き込む。

 そこには、中学時代と同じ容姿となった私が映し出されていた。

 うん、よしよし、ちゃんとできてるね。

 頭から足先までほっそり華奢な肢体の上に丸首体操服一枚だけを纏った、霰もない姿がポツンと佇んでいる。身体の径が急に縮んだことで先ほどまでパッツパツに張っていた丸首の生地が一気に弛んでブカブカになっていて、突っ張り伸びきっていた白い裾周りが、下に何も履いていない私の腰回りをまるで丈の短すぎるワンピースみたく中途半端に隠し、ヒラヒラ揺れている。その様が自分でも見ていてなんだか気恥ずかしく、そそくさと段ボール箱から赤いハーフパンツを取り出してそのまま履いてしまう。


 改めて自分の容姿を観察してみると、まずセミショートの赤毛もちょっと長さが縮んで、当時と同じボブカットになっている。顔立ちもすっかり若返り、西洋の人形を思わせる、あどけない顔立ちに戻っていた。

 …………自分で言うのもなんだけどさぁ、この頃の私、ちょっと完成度が高すぎるよね? そりゃモテるよねっていうか、顔小さすぎるし、パーツも全部整ってるし、ほとんど作り物めいてるというか、逆になんか怖いもん。大体、なんで昭一君はこれに全然靡いてくれなかったんだろう、って感じ! あーもう、返すがえす、なんなのあの人! 今更悔しくなってきたから、こうやって頬っぺたグニグニしたりして、変顔なんかしちゃう!


 …………さて、こうして自分の顔を弄んだり自撮りしたりしているだけでも全然楽しいのだが、本来の目的を忘れてはならない。体操服の上から制服を着込んで、早いとこ出掛けてしまわねば。

 体操服による身体変化を経由したことで、この非常に細身なサイズである制服でも難なく身を包むことができる。当時と同じように、この上下半袖の体操服を肌着代わりに、その上から制服を着ていくことにする。授業の合間の着替えの時間を省略するために、よくこうして登校したものだった。

 赤いハーフパンツの上から黒いヒダ型プリーツのスカートを履く。丸首に包まれた上半身に夏服の白いセーラー服を被り着て、ファスナーを下ろす。胸元の赤いリボンも忘れずに。この夏用セーラー服は、通気性を考慮してか化学樹脂の比率高めのパリッとした硬い生地で仕立てられていて、着てみると冬服と比べてやや直線的なシルエットになる。その分、セーラー服と体操服との間に空間が生まれやすく、ジットリと蒸し暑さ長引くこの時期でも充分な清涼感が得られる。また肌着代わりの体操服に程良く保温効果があり、室内の冷房で身体が冷えすぎずに済みそうだ。

 姿鏡で全身を確認してみる。制服の生地にはそれ相応の厚みがあるので、パッと見は下に体操服を着ているとは分からない。ただよく観察してみると、制服の首周りから、丸首の襟元についている赤い縁取りと、そこから繋がる体操服の白い生地がはみ出ている。これは、幅に余裕を持たせてあるセーラー服の襟周りと、運動中緩まないように首元にキュッと密着するような作りになっている丸首体操服とのギャップによるものである。このような見た目から、当時、夏服の下に体操服を着ているかどうかは首元を見れば一発で判別できたものだ。一応、校則では女子生徒は制服の下には体操服ではなく専用のインナーを着るように定められていたものの、服装頭髪検査の時期を除けば、こういう着こなしで登校してくる女子生徒は珍しくもなんともなかった。

 意外とこうした細かい部分から、当時の思い出が甦ってきたりするものだったりする。



 身支度もできたところで、財布の入ったショルダーバッグを携え、出歩き用の白いスニーカーを履いて家を出る。

 近所のショッピングセンターを中心に、次々に店を回り、買い出しを済ませていく。

 週末ということもあり、建物の中はいつもより人通りが多い。学校も休みなので、私のように制服を着ている学生は見かけなかったが、部活帰りと思しきジャージ姿の若い子たちのグループ二組ほどとすれ違った。そのうちの一組からは『うちの学校にあんな娘いたっけ?』とでも言いたげな視線を思いっきり浴びていたような気がするが、気づかないふりをしてそのまま通過し、次の売り場へ向かう。こういう場合はとにかく目を合わせないのが正解だろう。『最近引っ越してきた新顔でーす。何かおかしいところありますかー?』ぐらいの堂々とした態度で、カートを押して練り歩く。最近引っ越してきたっていうのは実際その通りな訳だし。

 しかし、一度そんな風に他者からの目を意識してみると、どうも今日はいつもより視線を向けられる頻度が高いなという気がしてならない。中高生ぐらいの若者に限らず、お子さん連れのご家族や、専門店街の店先の販売員、大学生くらいの若いお姉さん方のグループなど、すれ違いざまに私の姿をチラチラと窺っていくのだ。

 …………まあね、うん、皆の気持ちは分かるよ。

 先ほど家の鏡でも確認したように、中学時代の私の容姿はこの通り、たいへん遺憾ながらあまりに美しいかんばせに生まれてしまったわけで。通りがかりの人が私のこの美しさを前にして、思わず目が釘付けになってしまうのも致し方ないと思えるからである。何せ、自分で鏡に映る自分の姿を見てギョッとしたぐらいだし。

 実際、当時もこうして他人からの視線を日々浴びていたはずなのだが、それについて鬱陶しいと感じることが全く無かったとは言わないまでも、それを怖いとか避けたいとかいう感情は特に浮かばないまま、十代の時を過ごしていたように思う。まあ、バイオリンの発表会や生徒会活動などで注目を受けることに慣れていたというのはあるかもしれない。若さ故の無邪気さというのは恐ろしいもので、なんなら『うんうん、やっぱり私、可愛いでしょ!もっと見て見て!』というぐらいのメンタリティですらあったような……。今ではとても考えられないような無敵具合である。


 昔のことを思い出すうち、こうして周りから視線を向けられていること自体だんだん楽しくなってくる。少なくとも悪い気はしない。二十代に入った辺りから一転して無闇に周囲からの注意を惹かぬよう目立たないような身なりや振る舞いを取る習慣がついていたので、こんな風に注目を集めている状況が本当に久しぶりで、却って新鮮に感じられるのだ。十代の頃の全能感が蘇ってきたかのような感覚である。身体に引っ張られて、心まで若返ったみたい。



 気分が弾んでいたおかげか、思っていたよりも相当早く買い物を済ませることができた。折角なので、帰り道に図書館へ寄ることにした。


 静謐な空間。どこか遠くで誰かの空咳が響く。

 立ち並んだ本棚の間、気になる本を見繕っていると、ふと斜め後ろからの何者かの視線に気づく。

 その方を見ると、そこの本棚を眺めているお母さんに連れられてきたのだろう、ベビーカーに乗せられた赤ん坊が人差し指を咥えて、キョトンとした顔で私の方をじっと見つめていた。

 その表情があまりに可愛らしく、私はその赤ん坊にしか見えない角度から、一瞬だけ、一世一代本気の変顔を披露してみせた。思いっきり白目を剥き、鼻の穴をヒクヒクさせながら、両の頬を膨らませて下唇を裏っ返す。コンマ数秒の早業である。流石にここまでのものは昭一君にも見せたことがない。

 食い入るように私の顔を見ていた赤ん坊は『ヘヘッ……』と小さな笑いを漏らし、ふやけるように破顔する。してやったり。その子に軽く手を振って、本棚の間から離脱する。背なごしに「んー?どうしたのー?」とお母さんが赤ん坊に優しく話しかける声が聞こえる。



 何冊か本を借りて図書館を後にする。

 図書館の建物から駐車場へと続く、ひと二人がすれ違える程度の幅の、二十段ほどの階段に差し掛かった時のこと。

 階段の下、反対側にある駐車場の方から男の子が図書館の方へ上ってくるのが見えた。

 歳は小学生くらいで、女性の中ではかなり小柄な方である私と比べてもやや低い背丈。ツバつきの赤い日除け帽子にTシャツと短パン姿、足元はサンダルを履いている。

 歩きながらあちらも私に気づいたようで、私の姿を一瞥した後、階段の右端を下りてくる私とバッティングしないよう、反対側の端に沿って上ってくる。なんとなく、私の方をできるだけ見ないように努めているような気配が……。中学の頃の昭一君に、少し雰囲気が似てる気がする。パッと見、無愛想なところとか。


 そんなことを考えながらもう一歩足を下ろそうとしたその時。不意に駐車場からこちら側、下から上へと突風が吹き上げてきた。

「お゛っ!?」

 制服のスカートがバサバサっと大きく捲り上がってしまい、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。この階段がちょうど風の通り道になっていて、時々こうして強風が吹き抜けることがあるというのを忘れていたのだ。

 思わず取り乱しかけるが、程なく心配は無用だったと思い至る。考えてみれば、スカートの下にはハーフパンツを履いていたのでした。危ねぇ、セーフセーフ……。

 そうそう、体操服の重ね着は、こういう不測の事態に見舞われた際の保険にもなっていたことを思い出した。さすがに中学生にもなってスカートめくりするような幼稚な男子はウチの中学にはいなかったけれども、校舎間の渡り廊下など、強風が発生する恐れのある危険地帯は校内に複数箇所存在した。そこを通り抜ける際には女子は皆細心の注意を払っていたのだが、下にハーフパンツを履いてさえいればひとまず一番見られたくないものを衆目に晒されるという最悪の事態は防げるわけで、それだけでも体育のない日にまでわざわざ体操服を下に着ていく価値はあるように思えたものだ。

 ふぅ、やれやれ焦らせやがって……とかなんとか呟きながら、ひっくり返ったスカートを手で押さえ込む。束の間カーテンのように布地が遮っていた視界が再度開ける。


 一瞬のことだったが、私はバッチリ見た。階段を上ってきていた男の子、彼の視線が私のスカートの中身……風で捲れ上がり露わになった部分を凝視していたところを。

 本人としてはすぐさま目を逸らして『ん?いま何か起きましたか?』などとアピールしているつもりらしいが、こちらは他人の視線を感知することに関しては海千山千、刹那のこととはいえどこをどんな風に見られていたかなんてことはバレバレなのである。相手が悪うござんした。


 ふーん……いくら年が幼くても、男の子は男の子なんですねぇ……。『僕、何も見てませんよ?』とでも言いたげに、一生懸命しらばっくれているのが丸わかりだ。たかがハーフパンツ一丁見たぐらいで……。あるいは『もっと良いものが見られるかも?』なんて期待しちゃったりしたのだろうか。フッフッフ…………可愛いやつめ。


 買い物の時の高揚感がまだ尾を引いているようで、私は随分愉快な気分だった。すれ違いざま、その男の子がもう一度こちらの様子をチラッと一瞥してくる。

 ひとつからかってやろうと、彼にも見えるようにスカートの布地の上から、先ほど捲り上がって露わになったあたりを人差し指でチョンチョンと指し示す。

 瞬きが早くなった。動揺していることが手に取るように分かる。

 私の目線が明らかに彼の方を向いていることに、彼も気づいている。

 私はニンマリと笑みを浮かべて、『残念!ハーフパンツでした!』の意を込めて、アッカンベーしてみせた。

 目がグルッと泳いで、そっぽを向いてしまう。日焼け止めを塗り忘れでもしたのだろうか、頬が少し赤い。

 おそらくは私に対してコクっと一回お辞儀をした後、二段飛ばしで階段を駆け上っていき、まもなく彼の姿はここからは見えなくなる。建物の壁に反響して、パタパタと足音だけが聞こえてくる。



✳︎



「あっ、おかえりなさい、昭一君」

「え?あ……うん。ただいま」

 仕事を終えて家に帰ると、ユリさんが夕ご飯を用意しているところだった。すっかり日も暮れ、キッチンの床にはカーテンの隙間から漏れた橙色の夕陽が零れ落ちている。

 一瞬戸惑ってしまったのは、彼女の姿が中学時代のそれに若返っていたためだ。

 ユリさんの身体に変身能力が備わっているということは俺も承知しているし、こんなふうに当時と同じ見た目に変身した姿も今まで何回か見たこともある。とは言え、帰宅していきなりその格好を目の当たりにすると、さすがにドキッとしちゃうよなぁ。

 夏服である半袖の白いセーラー服と黒いスカート、その上から白いエプロンを着けてキッチンに立っている姿は、事情を知らない人からすると家事のお手伝いをしている女子中学生にしか見えないだろう。

 セーラー服の襟のところから、下に着ている丸首体操服の生地が垣間見える。どうやってこの姿に変身したのか大体察しがついた。でも、なぜ今日……? 何か、中学時代絡みの記念日だっただろうか……? 考えてみるが全く心当たりがない。


「フッフッフ。私のこの姿を見て、昭一君、今ドキッとしたでしょ?」

「……うーん、バレたかぁ。いやでも、不意打ちでそれはズルイってば。やっぱり、こうして見てみると、ユリさんって昔からずっと可愛かったんだなぁって思っちゃうからさ」

「わー嬉し。というか、中学生の姿の私にドキッとするなんて、もしや昭一君ってロリコンなのでは?」

「いやいやいや、その言い草はさすがに納得しかねる……。あとどんな気持ちで言ってんのそれ……」

 軽口を交わしつつ、今日一日の汗を流してしまおうと風呂場に向かう。

 ふと、脱衣場に置いてある洗濯機の横のカゴに目が留まる。俺の作業着に変な溶剤が付いている時があるかもしれない等々の理由から、衣類を入れるカゴは俺用とユリさん用とで区別してある。この二つのうち、ユリさん用の洗濯カゴが洗濯待ちの衣服で満タンになっており、しまいには中に入りきらなかったシャツやら靴下やらが床に零れ落ちているのだ。

 ほーん…………なるほど。ユリさんがなぜ制服を着ているのか、そして華奢な体格だった頃の姿に変身している理由が大体分かってしまったぞ。

 もっとも、わざわざこちらからそのことに触れる必要もあるまい。彼女のテリトリーはなるべく自分でなんとかしたいだろうし、手伝いが欲しいと言われた時に加勢するぐらいでちょうど良かろう。

 でも、何だろう……? 自分の中で何かが引っかかっているような気がする……。



 俺がお風呂をいただいて居間の方へ戻ると、ありがたいことにユリさんが夕ご飯の準備をほとんど済ませてくれていた。

 メインのおかずは、白身魚のフライにタルタルソースをかけたものである。フライは今日ユリさんが買ってきてくれていたお惣菜で、お財布に優しいお値打ち品だ。しかし侮るなかれ、気合が入っているのはタルタルソースの方。こちらは俺が先日の休みに作り置きしておいた手作りの品であり、普通のタルタルソースならばタマネギやピクルスで作るところ、これは微塵切りにしたらっきょうを使っているのだ。このソースが出来上がって味見をした瞬間、俺は内心で『失敗した!』と嘆いたものだった。美味しすぎて、絶対にご飯を食べすぎてしまうからである。安売りのフライだろうがなんだろうが、大体このソースさえかけてしまえば白米のマブダチに早変わりだ。


 冷たい飲み物を取り出す時に、冷蔵庫の中身が新しい食材で一杯になっていることに気づく。やはり、ユリさんが今日のうちに買い出ししてくれていたのだ。

 彼女が洗い物を片付けてくれている間に、二人分の食事を卓袱台に運んでいく。

 すぐ脇のラックの上、本が何冊か積まれている。今朝出かける時にはなかったものだ。

「お、今日図書館行ったんだ」

「うん、買い物行ったついでにね」

「ふーん…………」

 彼女の後ろ姿を見遣る。買い物と図書館……。

 どうやら、今日一日、あの制服姿で街中を動き回ってきたらしい。中学生の姿であれば不審に思われない、というつもりだったのだろうが……。

 もしかして、ユリさんはまだ“あのこと”を知らないのだろうか?


「そういやユリさんって、こっち来てから、近くの中学に通ってる子たちって見たことってある?」

「あー、越してきてからはまだ見てないかも。

 でも、年明けぐらいに下見に来た時に何回か見かけたよ。制服、私たちの学校と同じやつなんだよねー。すっごい偶然だよね。思わず学校のホームページまで確認しちゃったの覚えてるもん」

「あーうん、そうそう……確かにそうだった」

「懐かしいよねぇ、中学校。もう卒業してから十年以上経ってるなんて信じらんない。というか信じたくない……。

 まあでも、今のこの姿だったらもしかして、校舎に紛れ込んでもバレなかったりして! 私、まだ中学生で通用しちゃうのでは?」

「んふふ、うーん…………」

 何か良いことでもあったのだろう、ユリさんはいつもより一段とテンションが高く、荒唐無稽な軽口もポンポン出てくる。しかしなるほどね、やっぱりまだ知らないわけだ。


「うーん……そうね。確かに、そのまんまの格好で通用してた、かもね。今年の三月までは…………」

「………………三月までは?」

 洗い物をする手がピタッと止まった。彼女も何かに引っ掛かりを覚えたらしい。

「うん、今年の四月から、あそこの中学って、制服が変わったんだよね。

 時代の流れに合わせて、制服もジェンダーレスにしないといけないってことになったみたい。前までは男子は学ランで女子はセーラー服って決められてたんだけど、今は男女関係なく上は全員ブレザーにネクタイで、下はスラックスとスカートとの完全選択制になったんだって。

 普通、学校の制服が変わる時って旧型を着てる生徒と新しい方を着てる生徒とが混在する移行期間がある場合が多いと思うんだけど、今回は変更理由からして中途半端は良くないって配慮なんだろうね、公費の負担で、新年度になった瞬間生徒全員が一斉に新しい制服に切り替えられたようだよ。通学風景が一日で突然ガラッと様変わりしたもんだから、俺まで違う土地に引っ越したような気分だったなぁ」


 ユリさんは、視線は流し台に上から動かさないまま、俺の言葉に耳を傾けていた。

 ここまで説明してしまえば、俺の言わんとしていることは伝わっているだろう。

 表情は見えないが、大方こんな風なことを考えているに違いない。

 『もしかして私、コスプレ同然の格好で一日街中を彷徨き回っていたってコト……?』

 いやまぁ、もしかしなくてもそうなんですけどね。

 ダメ押しでもう一個付け加えると、新たに買い足されていた食料や日用品類の量を見るに、彼女が今日自家用車で買い出しに行ったことは明らかだった。『女子中学生が車を運転している』という構図の異様さにできれば真っ先に気づいてほしかったなぁ……。


 黙りこくったまま濡れた手をタオルで拭ったかと思うと、ユリさんは制服の上から着けていたエプロンを引っぺがし、スツールの上にペシッと放り捨てた。そしてソファーにゴロンと寝転がったかと思うと、半袖のセーラー服の中に、甲羅に躰を隠す亀のように、五体丸ごとズボッと収納して、そのまままるで仰向けにひっくり返った甲虫のようにワシャワシャドタバタとのたうち回り始めた。

 あー、また始まった……。これはユリさんの胸中で恥じらいの感情を閾値を超えた時にしばしば見せる、お決まりのリアクションなのだ。すっかりこじんまりとした姿でソファーの上をゴロゴロと転がり回って、上へ下へのドッタンバッタン大騒ぎである。下の階の人からすると猫が喧嘩でもしているかのように聞こえているかもしれない。

 埃を被らないように、俺は卓袱台に運んだ料理をまたキッチンの方へ退避させる。

 一瞬のうちにすごい勢いで肢体を胴体の中に引っ込めたものだから、彼女がつい先ほどまで身につけていたスカートやハーフパンツが枝から離れた落ち葉のようにひらりひらりと宙を舞ったのち、パサっとカーペットの床に着地していく。絵面はほとんどカートゥーンである。

 

 こうなるとしばらくは彼女の気が済むまで好きにさせておくのが良いだろう。彼女に一言かけて、残りの洗い物は俺が引き取ることにする。

「貯まってる洗濯物、明日中に片付けちゃおうね。俺が手伝ってもいいからさ」

 セーラー服の襟の穴のところ、顔はめパネルから覗いた時のようにユリさんの顔がムニュッと生えてきた。頬を赤く染めたいかにもご機嫌斜めな表情で、コクコクと頷き返してくる。



 その日の晩酌、ユリさんの食欲は普段よりもさらに輪をかけて凄まじかった。通常の人体では信じられないような勢いで飯を平らげ、ビールやらハイボールやら、ガッパガッパと喉に流し込んでいく。ちなみに、見た目はセーラー服の女子中学生姿のままである。

 一日中変身した状態で過ごして消費したエネルギーを補充するためなのかもしれないし、あるいは単なるヤケ食いヤケ酒かもしれない。

 七つの海をも喰らい尽くすような人智を超えた勢いで飲食物を腹の中に詰め込んでいった結果、ユリさんのお腹は風船のようにパンパンに膨らんでしまっていた。セーラー服の裾に収まり切らず、下に着込んだ丸首体操服の白い生地越しの丸々膨れたお腹がセーラー服とスカートとの間からはみ出てしまっている。身体が重くなって支えきれないのだろう、背中を座椅子の背もたれにほとんど体重を預けてしまっている。

 食欲が満たされたことで機嫌も一通り直ったようだった。俺と目が合うと、ユリさんは赤らんだ顔にはにかむような表情を浮かべ、照れ隠しのつもりかその膨れたお腹をさすったり、掌で持ち上げてみせたりしている。


 …………自宅で二人きりなんだから別にいいんだけどさぁ。今のこの状況、客観的に見ると、構図があまりにいかがわしすぎやしないか?

 食卓の向かい側にはお腹を大きく膨らませて、どこかアンニュイな表情を浮かべたセーラー服姿の女子中学生。卓袱台の上には、何本ものビールの空き缶や、ウイスキーの空き瓶……。

 そもそも、こんな画を作り出したのは彼女自身なので、俺が罪悪感を覚えるべき道理は何一つないはずなのだが……。

 一緒に生活しているうちにユリさんのペースに飲まれ始めているのだろうか、なんだか俺までイケナイことをしているような気分になってしまう、今日この頃であった。

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